「木を見て森を見ず」という諺があるが、あらゆる学問が専門化し過ぎたために齟齬が生じている。特に顕著なのは医療だ。各専門医の学会が勝手に基準値を決めるから日本人全員が何らかの病人にされてしまった。日本人間ドック学会がこの厳し過ぎる基準を批判したところ各専門医から袋叩きに会っているようだ。
科学においてはこれまで以上に学際が重要になっている。生物学は化学と一体化した生化学でなければ前へ進めない。「シートンの動物記」や「ファーブルの昆虫記」とは全く別の世界だ。しかし余りにも高度になり過ぎたために分業が必要になった。STAP細胞が捏造問題を招いてしまった原因の1つは分業だろう。
哲学も専門馬鹿が多い学問だ。哲学者は余りにも少なく、哲学学者ばかりが多い。カント哲学の研究に一生を捧げることを否定しようとは思わないが本来の「哲学すること」とは懸け離れている。むしろ梅原猛氏のように、哲学で磨いた知性を歴史の研究などに使うほうが哲学者らしいとさえ思える。
高度化すれば専門化することはやむを得ない。アリストテレスのような博物学が現代では不可能なことなど分かり切っている。しかし全体を見る目が必要なことは確実だろう。体から切り離された手足が本来の手や足とは全く別であるように、部分の集合は全体にはならない。幾ら優秀な選手を集めても監督不在ではチームとしての機能を果たせない。全体を統括することが必要だ。
高度な医療のために専門化が必要なことは確かだ。しかし専門性と広汎性が矛盾するとは思えない。広く浅い知識が思わぬところで役立つこともあるだろう。
内科医が精神病患者を作り、精神科医が身体障害者を作るような現状はどう考えても異常だ。本来、人間の科学である医学において総合医療こそ重要だ。専門馬鹿によって「手術は成功したが患者は死亡した」と言われるような本末転倒の事態からは免れたいものだ。
科学においてはこれまで以上に学際が重要になっている。生物学は化学と一体化した生化学でなければ前へ進めない。「シートンの動物記」や「ファーブルの昆虫記」とは全く別の世界だ。しかし余りにも高度になり過ぎたために分業が必要になった。STAP細胞が捏造問題を招いてしまった原因の1つは分業だろう。
哲学も専門馬鹿が多い学問だ。哲学者は余りにも少なく、哲学学者ばかりが多い。カント哲学の研究に一生を捧げることを否定しようとは思わないが本来の「哲学すること」とは懸け離れている。むしろ梅原猛氏のように、哲学で磨いた知性を歴史の研究などに使うほうが哲学者らしいとさえ思える。
高度化すれば専門化することはやむを得ない。アリストテレスのような博物学が現代では不可能なことなど分かり切っている。しかし全体を見る目が必要なことは確実だろう。体から切り離された手足が本来の手や足とは全く別であるように、部分の集合は全体にはならない。幾ら優秀な選手を集めても監督不在ではチームとしての機能を果たせない。全体を統括することが必要だ。
高度な医療のために専門化が必要なことは確かだ。しかし専門性と広汎性が矛盾するとは思えない。広く浅い知識が思わぬところで役立つこともあるだろう。
内科医が精神病患者を作り、精神科医が身体障害者を作るような現状はどう考えても異常だ。本来、人間の科学である医学において総合医療こそ重要だ。専門馬鹿によって「手術は成功したが患者は死亡した」と言われるような本末転倒の事態からは免れたいものだ。
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