俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

「私」の意味

2009-09-22 18:04:06 | Weblog
 「私は何のために存在するのか」という問いには「意味も無く存在する」と答えざるを得ない。人は意味も無く生まれ意味も無く死ぬ。
 絶対的な価値が無い限り個々の存在は意味を持ち得ない。意味が無い存在に意味を与えようとすれば事実を捻じ曲げることになる。キリスト教であろうとイスラム教であろうとオウム真理教であろうと、事実を捻じ曲げるということでは同罪だ。
 意味も無く存在するという事実を否定することは不可能だ。これを事実として肯定したうえでそれを出発点にすれば良い。無理やり意味を捏造せずに意味が無い中でどう生きれば良いか考えれば充分だ。
 生とは「場」だ。「場」が無ければ何もできない。それは舞台と俳優の関係に似ている。どんな名優でも舞台が無ければ名優たり得ない。「場」は「何か」をするための「舞台」であり「舞台」を失えば総ての可能性が失われる。
 凶悪な犯罪者も死刑を恐れる。たとえブタ箱で一生を終えようとも舞台を失くすよりはマシだからだ。
 もともと意味の無い個人の生には自分で意味を与えて自分で満足するのが唯一の正しい選択肢だろう。

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