俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

慣れ

2008-01-18 14:42:12 | Weblog
 人間は適応力の高い動物なので大抵のことに慣れてしまう。自由を満喫していた大学生がサラリーマンになるや否や周囲に合わせて一日中働くように朱に交わればすぐに赤くなる。
 その一方で人間は環境の変化を嫌う動物でもある。仕事の段取りを変えようとすればベテランから猛反発を食らうし、個人の悪い習慣を改めさせるのも難しい。
 一挙に変えようとせずジワジワと内側からなし崩しにするのがコツだろう。違和感を感じさせない程度に変えて行けばそのうち馴染んでしまう。
 ところで昨今、頻繁に親殺しが報道されているが、こんな報道は自粛したほうが良いと思う。決して言論統制をしたい訳ではないが、親殺しのニュースに慣れてこれを異常と感じなくなることが怖い。八戸の3人殺しは母の酔っ払い振りが、京田辺の斧での父親殺しは浮気が嫌だったからだと言われている。酔っ払いや浮気は殺害に値する罪だろうか。子供は親から逃げ出せないという特殊事情があるとは言え、不快なものは退治するということは余りにも安易な打開策ではないだろうか。

奇妙な偽装事件

2008-01-18 14:30:24 | Weblog
 年が変われば世の中も変わるものなのだろうか、今年になってから奇妙な偽装事件が発覚した。古紙配合率の偽装だ。不気味なのは古紙配合率が「低い」という偽装であることだ。これは言わば新米・古米のミックス米で新米の比率を高めるようなもので、昨年流行った安物を混ぜるのとは逆に新しいものを古いものに混ぜる偽装だ。なぜこんな変な偽装が起こるのか?
 この新聞記事を読んでこんな寓話を思いついた。
 国が音頭を取って「腐りかけた卵を無駄にせずに食べよう」というキャンペーンを始めた。食品メーカーは大量の防腐剤と薬品を加えて加工卵を開発した。しかし腐りかけた卵だけを材料にした加工卵は不味いので新鮮な卵も添加した。このことが発覚して国は「偽装だ」と怒った。
                *               *
 再生紙が過大評価されているせいだ。決して環境に優しくない再生紙を国とマスコミがグルになってまるで救世主のように祭り上げているせいだ。
 本来の再生紙は汚く、破れ易く、品質がバラバラなものだ。印刷物として使用に耐える再生紙は薬品で厚化粧させたものでしかない。そんな再生紙に一層の品質向上を求めるからこんな馬鹿馬鹿しい偽装が起こる。誤った常識が定着していてマスコミも自治体もそれを訂正せず、むしろそれに便乗してイメージアップを図ろうとするからこんな変な事件が起こる。
 環境問題では3つのRが重要視されている。reduce reuse recycleがそれだ。私はreduce(減少させる)が最も重要だと考えているが、日本ではどいう訳かリサイクルに走りたがる。リサイクルが必ずしも環境のために良くないという意見は黙殺され、リサイクルの可能性さえあれば無駄遣いも許されているのが現状だ。

深いプール

2008-01-11 15:20:04 | Weblog
 大阪には背の立たない深い屋外プールが無くなってしまった。かつては扇町の旧大阪プールや浜寺公園プールや牧野ヤングプラザには深いプールがあったが総て無くなった。浜寺公園にあった深いプールは水死事故のあと使用禁止になりそのまま廃止になったと聞く。
 深いプールだけではない。流れるプールも一昨年の事故をきっかけにして減りつつある。
 安全管理の強化を錦の御旗にして、管理責任の問われる恐れのある施設は次々に廃止される。
 深いプールの魅力は「まともに泳げる」ということだ。浅いプールには水遊びをする子供が集団でやって来てしまうので、プールがスポーツ施設ではなく遊戯施設になってしまう。深いプールには水遊びグループが来ないので爽快な水泳が楽しめる。
 浅いプールで邪魔されずに泳げるのは天気の悪い日か朝のうちだけだ。但し寒さに耐えねばならないので余り快適ではない。やはりプールには日光がよく似合う。

歩道の自転車

2008-01-11 15:09:28 | Weblog
 歩道が自転車によって無法地帯になってしまっている。多くの自転車が道路交通法を無視している。道路交通法によって規制されているということさえ知らないのだから法を守る筈が無い。並走するし2人乗りをするし歩行者に「邪魔だ」と言わんばかりにベルを鳴らすし、徐行という最も基本的ルールも守らない。これらは総て違法行為なのだが違法であることさえ知らない。野蛮人が好き放題に暴れているような状態だ。
 法を知らないほうが悪いのだが、圧倒的多数が知らなければ不法がルールになってしまう。このような無法状態から免れるためには自転車を免許制にすることも必要ではないだろうか。少なくとも最低限の法律を強制的に学ばせる必要はあるだろう。
 もともと自転車は車道における「弱者」だった。弱者を救済するために歩道通行を認めた途端、歩行者に対する加害者になってしまった。まるで保護し過ぎた野生動物が畑を荒らすようなものだ。増え過ぎた野生動物は駆除せざるを得ないように、自転車の取り締まりを強化して歩行者の安全を守る必要があるだろう。

人畜無害

2008-01-11 14:57:09 | Weblog
 何の役にも立たないが害も無いものを多少軽蔑して「人畜無害」と呼ぶが近頃人畜無害のものばかり増えているように思われる。減点法で欠点ばかり挙げるから本来必要なものまで排斥しているのではないだろうか。
 過当競争を非難する人は多いが適度な競争が無ければ進歩も無い。無害にすることは同時に有益性を損なう。まさか去勢された男だけが紳士になれると本気で信じている人はいないだろう。

空気を読む

2008-01-11 14:52:10 | Weblog
 KY(空気を読めない)という言葉が昨年の流行語になった。空気を読めずに場違いな対応をして失敗した人が大勢いた。
 しかし私は敢えて「空気に捕らわれない」ということを心掛けたい。空気を読んで周囲の気持ちに迎合することは単に雰囲気に流されることでしかない。こういう態度が「みんなで決めたのだから誰の責任でもない」という無責任体質を生む。リンチとか集団暴行はその場の空気に従った卑劣な行為だ。「みんなが殴るからボクも一緒になって殴っただけだ」といういじめでよく見かけられる理屈でしかない。消費・賞味期限の偽装も職場の空気に流された集団犯罪だ。
 集団催眠状態に陥って愚行の共犯者にはなることは避けたい。空気を読んだ上で敢えて是々非々の態度を貫きたい。

責任転嫁

2008-01-11 14:42:54 | Weblog
 ニューヨークの地下鉄では眠ることが禁じられている。「そんな馬鹿な」と思うような規則だが、これが権力者による責任転嫁であることは明白だ。居眠り中の盗難被害が年間数百件発生しているそうだが、この規則があるお蔭で市は責任を問われずに済む。規則を破って眠った乗客が悪いと突っぱねることができる。
 飛行機の中では殆どの人が眠っているが盗難の被害は余り聞かない。途中下車できないことや荷物検査があるという特殊事情もあろうが、現金やカードを盗むことはそれほど難しくはなかろう。多分乗務員が挙動不審者をチェックしてくれているのだろう。
 ニューヨーク市は車内の安全性を向上できない責任を免れるためにこんな姑息な手段を使っているのだろう。
 その一方で本来自己責任とすべきことで管理責任を問うクレーマーも少なくない。エスカレーター上の歩行禁止はニューヨーク市と同じ手法で管理責任を免れようとしている。海でのロープの外での遊泳禁止や子供向けの動く遊具の撤去や回転扉の廃止はどれも管理責任を逃れるための対策だろう。
 クレーマーが管理責任を問えば問うほどおかしなルールが世に横行するし、楽しい施設や便利な施設が廃止されてしまう。

仕事量

2008-01-05 14:41:02 | Weblog
 重い荷物を抱えてその重さに耐えて立ち続けること、これは物理学では仕事量ゼロだ。仕事量は「力×距離」だから持ち上げたり運んだりして初めて仕事量となる。
 ビジネスでも同じだろう。引き継いだ仕事をそのまま継承してそのまま後任者に引き継いだら何もしなかったことになる。見直したり改善したりすることが「仕事」だ。

赤ちゃんが壊れちゃった(改)

2008-01-05 14:39:31 | Weblog
 30年以上前、私は新聞記事を読んで激しいショックを受けた。新聞には「園児が乳児を惨殺」と書かれ、概ね次のような内容だった。
 その家には幼稚園児と同級生数人と乳児がいた。母親は買物に出掛けていた。積み木遊びに飽きたのだろうか、園児は乳児をつついたりして遊び始めた。叩けば泣く乳児を積み木より面白いオモチャだと思ったのだろう。そのうち誰かが乳児の足を持って引きずり回し始めた。残酷な遊びは徐々にエスカレートして、階段を引きずったりするまでに至った。そのうち乳児は泣くのを止めて静かになった。
 母が帰って来た。娘が言った。「ママ、赤ちゃんが壊れちゃった。」乳児は全身ボロボロになって死んでいた。
 これほどショッキングな話ではないが、「カブトムシの電池が切れちゃった」と言う子供が最近は多いと聞く。生命と無生命は全く違うものであり、失われた命は取り返せないことは早めに教えたほうが良かろう。 

神仏習合

2008-01-05 14:35:52 | Weblog
 歴史の授業で「神仏習合」について習った時には変な思想だと思った。違う教えを合体するなど無意味だと思った。ところが真面目に考えてみれば、これを変だと思うのは一神教徒と「特定の思想だけが正しい」と根拠無く信じる隠れ一神教徒だけだろう。まともに考えれば良い思想ならどれも採用すれば良い筈だ。
 現代のインドで主流のヒンズー教はかつてのバラモン教と仏教と土着宗教が融合したものだそうだ。教祖が一人でなければならないというのは一神教徒の歪んだ考え方だ。
 プラトンとカントと老子の教えから新しい哲学を築くことは何ら不自然なことではないのと同様、神道と仏教と儒教を融合した思想があっても何ら不思議なことではない。混ざったものを「不純」として価値の低いものと考えることには合理的根拠は無い。