俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

梅雨と鬱病

2008-07-22 17:59:58 | Weblog
 梅雨時には雨が続く。と言うより、気圧配置の都合で停滞前線が日本列島に居座る状態を「梅雨」と呼んでいる。
 名前が付けられると何となく分かった気になる。梅雨だから雨が続いても当然だと感じる。しかし梅雨は曖昧な概念だ。雨が続くから梅雨なのか梅雨だから雨が続くのかかなりいい加減だ。例えば今年の近畿地方の梅雨はいつ明けたのかさえよく分からない。停滞前線が掛からなくなってからしばらく経ってから梅雨明け宣言がされた。
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 鬱状態が続くと鬱病と診断される。鬱状態が続いていることに対して鬱病と名付けられただけであって原因が特定された訳ではない。同じ鬱病でも原因や治療方法は千差万別でありとても同じ病気とは思えない。
 名前を付けただけで分かった気になっているだけで実際には何も分かっていない。様々な精神病者を狂人と名付けたところで何も解決されないのと同じことだ。

本音の抑圧

2008-07-22 17:48:54 | Weblog
 「欲望のままに生きよ」などと言うつもりは全く無い。しかし好ましくない欲望の存在に対しては正直であるべきだ。
 個人とは様々な感情や欲望が自己主張をする戦場のようなものだ。(6月4日付け「自我の不統一」参照)
 倫理的に好ましくない感情は誰にでも存在する。「あいつは許せない」とか「あの女性に触りたい」とか「怠けたい」とかいった感情は自然なものだ。
 「自然な感情だから肯定されるべきだ」などとは言わない。そういう困った感情が存在することを事実として認めるべきだということだ。
 「あの女性に触りたい」という欲望と同時に「触られたら彼女は不快だろう」ということは誰でも感じる。両者を秤に掛けて後者が勝つ。これが正常な感覚だ。
 「触りたい」という欲望が無かった訳ではない。その欲望を抑える別の感情が勝っただけだ。そんな迷惑な欲望が存在したことを頭から否定すれば彼は事実に基づかずに生きることになる。「事実を拒否する」という不誠実な姿勢が彼を神経症へと導く。
 人間は天使でも悪魔でもない。無理やり天使になろうとすれば豚にまで堕落する。

事実と価値(3)

2008-07-16 19:51:33 | Weblog
 「適者生存が世界の法則だから人間社会もそうあるべきだ」という考え方がある。しかし適者生存が事実であっても人間がそれに従う必要は無い。
 人間は自然に従属するだけではなく自然法則に逆らい得る唯一の動物だ。
 例えば自然界にはトイレは無い。しかし個々に独立したあらゆる文明で人間はトイレを作った。
 強者が権力を持ち過ぎないようにすることや弱者が社会から排除されないようにすることは自然状態ではない。反自然で人為的な、言い換えれば理性的な措置だ。

日光浴

2008-07-16 19:34:11 | Weblog
 陽の光を浴びると元気になる。人類はもともと平原に住む猿だから光を浴びることによってメリットを受けるように進化したのだろう。光を浴びると死んでしまうミミズやモグラとは違う。
 紫外線有害説を唱える人は日焼け嫌いにつけ込んだ詐欺師のようなものだ。美白と健康は別の話だ。(スリムをヘルシーと呼ぶことにも同じレトリックを感じる。)健康的な浅黒さを否定して日焼け止めの売り上げを増やして金儲けをしている。
 紫外線を浴びればガンの発症率が減る。この事実を隠して日本人には殆ど発症しない皮膚ガンの発症率が高まることだけを根拠に紫外線の有害性を主張する連中は正に曲学阿世の輩と言える。彼らが日本人を世界一日光を怖がる民族に変えてしまった。

オンリーワン

2008-07-16 19:17:08 | Weblog
 個々の個体は総て異なった特徴を持つ。工業製品以外では同じ物はあり得ない。工業製品でさえ厳密には同じ品ではない。
 個々の個体は唯一無二だ。このことが事実であっても唯一無二だから尊いという結論には至らない。このことは各家庭から出されるゴミが総て異なっているからという理由で総てのゴミが尊いということにはならないということを考えれば明らかだ。
 個々が異なるという事実を個々が価値を持つという主張に捻じ曲げるのは詭弁でしかない。

平等という嘘

2008-07-16 19:11:35 | Weblog
 「平等」という概念は事実を歪めて強調されることが多い。
 人間には個体差がある。背の高低や知能の違いや美醜の差など人それぞれが異なる。この個体差を無視して「同じ人間だから違いは無い」と主張することは事実に背く。事実に基づかないから変な理想が設定される。
 能力が不平等であるにも関わらず結果の平等(報酬の平等)を実現するためには下手な絵や下手くそな歌にも金を払わねばならない。あるいは勤労意欲が乏しい人には1時間の労働に対して1日分の賃金を払わねばならない。勤労意欲も1つの能力でありその能力の乏しい人に普通の人並みの労働を強いることはできない。
 こんな不合理に対して数少ない社会主義国家のキューバでさえ「怠け者が働き者を食い物にする」として見直されることになった。
 個々の個体が異なるという事実に基づいた上で競争上の弱者の権限をどうやって守るかが検討されねばならない。個々の差異を認めなければ弱者に対する援助が逆差別になってしまう。
 結果の平等を実現するためには「不公平」が必要とされるのだから、この際、平等と公平のどちらが重要かを検討しても良かろう。

役に立つこと

2008-07-09 19:37:50 | Weblog
 社会の役に立つことで自分に価値を見出す人が決して少なくない。自分は社会の役に立っているのだから立派な人間だという理屈だ。
 しかし皆が社会の役に立つために生きるなら社会は何のために存在するのだろうか?もし個人が複雑な機械の部品なら、部品が役に立つかどうかではなく、その機械が何のために存在するのかが問われねばならない。
 かつて多くの犠牲のもとで築かれた満州国では満州国を守るためにその数百倍・数千倍の犠牲が正当化された。社会という幻想は「現実を食い殺すサトゥルヌス」のようなものかも知れない。
 共同幻想のために貢献することはその共同幻想がそれなりに正しければ有益だが間違った共同幻想に貢献するなら有害だ。

ローカルフード

2008-07-09 19:29:22 | Weblog
 冷めた飯に生魚を乗っけてローカルソースとローカルスパイスで味付けしてむさ苦しい男が手で握る料理、こんな料理が日本以外のどこかの国の民族料理として定着していても到底食べる気にはなれない。
 勿論これは寿司の話だ。西洋人から見ればアジアの東の果ての辺境の地のこんな料理など食中毒を起こして当然だと思えるだろう。
 日本人は清潔好きな民族だから寿司による食中毒は余り聞かないが、魚の鮮度管理や調理人の衛生管理が不充分な地域ではいつ集団食中毒が発生しても不思議でない。
 冷蔵技術は向上したので鮮度管理はさほど難しくない。しかし調理人の衛生管理意識を高めることは決して易しくない。寿司が世界中に普及することは決して簡単ではない。

サンマの食べ方

2008-07-09 19:19:25 | Weblog
 私のサンマの食べ方は少々変わっている。尻尾から丸ごとかじって頭しか残さない。いつ頃からこんな食べ方を始めたのか記憶に無い。子供のころは骨やハラワタだけでなく皮まで食べ残していた。もしかしたら漫画の「ドカベン」の岩鬼正美の骨までバリバリ食べる食べ方に影響を受けたのかも知れない。
 私の本音としては生命を犠牲にするなら極力無駄にしたくないという思いがある。食べ残せばゴミにしかならない。
 生命や資源を大切にしたいと思うなら食べ残しなど絶対にすべきでない。こんな観点から私の変な食べ方は生まれたのだろう。
 しかし客の食べ残した料理を「使い回し」ても良いと言うつもりは全く無い。

ブランド食品

2008-07-09 19:10:33 | Weblog
 日本人のブランド好きを私は苦々しく思っている。その商品が良いか悪いかは自分で判断すべきことだ。見れば分かるし使ってみれば一層よく分かる。
 自分の判断よりも世間での評価を優先するような姿勢ではマスコミの奴隷になってしまう。童話の「裸の王様」と同じだ。
 食品の有害物質の有無を素人が直感的に感知することは不可能でも、少なくとも旨いか不味いかぐらいなら誰でも判断できる。なぜ自分の味覚よりマスコミの評価を重視するのだろう。
 産地を偽装する業者は勿論悪い。しかし騙されたほうは恥ずかしい。価値に見合わない商品を高く買っていたのだから。それよりは安物を安物と知って買うほうがずっと利口だ。
 味覚は人によって違うと私は信じている。自分の味覚に合った食べ物は自分で見つけるべきだろう。