俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

お金

2009-01-13 13:22:41 | Weblog
 金があっても幸福になれるとは限らない。しかし金が無ければ不幸になることは確実だ。つまり金は幸福のための十分条件ではないが必要条件だ。金が無ければ食うこともままならない。金を稼ぐために人は働く。決して社会参加のために働く訳ではない。
 金さえあれば自由を満喫できるなどと言うつもりは無いが、金が無ければ確実に不自由を強いられる。金の無い人は自由を失う。生活の総てが不自由になる。
 金を稼ぐことを卑しいことと考えるのは金に困っていない人だけだ。金は無くてはならない、言わば水や空気のようなものだ。第一、人間は霞を食って生きて行ける訳ではない。
 金儲けが浅ましいのは儲けることが自己目的になってしまうからだ。資産が充分にあればそれを自分や社会のために使えば良い。金は腐らないからという理由でもっと増やそうとするから畜生道に堕ちる。
 金銭欲以外の欲望は充たされると収まる。腹一杯食べればそれ以上食べようとは思わない。ぐっすり眠ればそれ以上眠りたくない。充分にお金のある人がもっとお金を使うことを考えたら景気も少しは良くなるだろう。

ワークシェアリング(2)

2009-01-13 13:01:03 | Weblog
 経団連の御手洗会長が言及したこともあり、雇用対策としてワークシェアリングが話題になり始めた。しかし欧米とは雇用形態が異なる日本では日本流のワークシェアリングを考える必要がある。
 日本独特の雇用形態として年功序列制度が挙げられる。これは言わば給料のあと払い制だ。若いうちは働きに比べて安い賃金で雇用して、高齢になれば比較的高い賃金になるという仕組みだ。
 企業の新陳代謝がうまく働いている間は合理的な仕組みだが、新規採用が減ると高給取りの高齢者ばかりが増えて人件費が嵩んで経営が苦しくなる。
 労働する側としては給料のあと払いだから、たとえ現在大した仕事をしていなくても高給を貰う権利があると考える。企業側はこんな「穀潰し」には早く辞めて貰いたいと考える。これが高齢者潰しに繋がる。
 企業は高齢者を閑職に追いやって働き甲斐を奪う。まるで一時話題になったJRの「日勤教育」のようなやり口だ。私の勤務先では、ある先輩(部長)がそれまでのキャリアとは全く関係の無い子会社への出向を命じられた。彼は激怒して出社を拒否しそのまま中途退職してしまった。古き良き時代なら出向を指示した人事部門の責任が問われかねない事件だが、人余りの現代では何ら問題にされなかった。
 こんな形で人事部門と社員が敵対するのではなく双方にメリットがある仕組みとして高齢者の週休3日制を提案したい。週5日の勤務が4日に減るので労働時間は2割減るが給料は15%程度の削減に留めるなら双方にとってメリットがある。高齢者の労働時間と人件費が減った分で若い社員を雇用できるし、高齢者も余暇が増えることで退職後の準備に取り掛かることができる。
 退職後の20年間(60歳~80歳)は一生で最も自由な時間だ。この自由時間を有意義なものにするためには、ワーカホリック(働き中毒)の高齢者の意識を少しでも早く改革する必要がある。

ステイクホルダー

2009-01-06 13:05:17 | Weblog
 ステイクホルダー(企業の利害関係者)の順位付けはどうあるべきだろうか。
 業態によって異なるので一概には言えないが標準的には①株主②顧客③取引先④従業員⑤地元住民、といったところが本音ではないだろうか。
 私は従業員を最優先すべきだと考える。株主も顧客も取引先もその企業との関係を自らの意思で断ち切ることができるが従業員にはそれは困難だ。
 新卒採用が日本の企業では主流であるため、転職すればほぼ確実に収入が減る。そのため従業員は転職したくてもできないのが現実であり、簡単に縁を切れる株主や顧客や取引先とは事情が全然違う。言わば乳児と母親のような関係だ。
 一方、株主や顧客や取引先は大人の親子関係のようなものだ。
 大株主以外にとって株は小遣い稼ぎでしかない。私は十数社の株を持っているが決してその企業に未来を託するつもりで買った訳ではない。適度に配当があり株主優待があり値上がりさえしてくれれば文句は無い。株価が期待以上に高くなった時点で売り抜けるだけだ。
 全面的にその企業に頼らざるを得ない憐れな労働者を切り捨てる企業は乳児に乳を与えることを拒む鬼のような母のようだ。母乳を失った乳児は飢え死ぬしかない。転職が容易な欧米の企業と比べて日本の企業によるクビ切りはそれだけ罪が重い。

独り言

2009-01-06 12:50:20 | Weblog
 私は独り言は言わない。こんなことを言えば矛盾を指摘されるだろう。自ら「独白≒独り言」と名乗っておいて独り言を言わない筈が無い、と。私自身、独り言を言っているつもりは全く無い。全て不特定多数の読者を想定している。
 独り言を言う人は気持ち悪い。言い続けていたら多分狂人と思って間違い無かろう。
 独り言を言う人は思考のレベルが低い。言葉のレベルでしか思考できないからだ。言わば我武者羅に公式だけを並べて数学の応用問題を解こうとする人のように感じられる。彼らは考えることを放棄している。
 私は考える時には極力言葉を使わない。曖昧模糊とした思想を表現するために初めて言葉を使うだけだ。「何か変だ」という思いに対して「実はこういうことではないか」と閃いた時に初めてその閃きを言葉に変えて伝えようとする。
 私は意識のレベルでは考えたくない。意識は知性のごく表層にすぎない。無意識の領域も含めて考えることが必要だ。無意識のレベルでの思考のほうが明らかに「深い」からだ。
 私の思考方法は多少特殊かも知れない。同じテーマについて考え続けることはない。テーマを無意識の領域に送り込んで無意識がどう考えるかを見守る。
 まだ言葉にはならないまま、多くの人が感じているモヤモヤとしたものを言語にできて初めて広い共感が得られるものだと思っている。

妄想

2009-01-06 12:29:05 | Weblog
 妄想は妄想を生む。
 SFには「タイムパラドックス」というテーマがある。タイムリーパー(時間移動者)が過去の自分を殺した場合、過去の自分が殺された時点で未来の自分は存在し得ない。しかし未来の自分が存在しなければ過去の自分が殺されることはない。これがタイムパラドックスだ。
 この矛盾を解消するためにどこかのSF作家が「パラレルワールド」という解決案を作った。過去の自分が殺された時点から別の世界が平行して始まるという訳だ。
 考えてみればパラレルワールドとは妄想を解決するために新しい妄想を捏造したようなものだ。歴史が変わる度に新しい世界が生まれるという考えこそ気違いじみた妄想にすぎない。
 妄想で妄想を解決するよりは「時間を遡ることは不可能だ」とか「自分を殺そうとした時点で未来の自分は消滅する」と考えたほうが余程理に適っている。
 統合失調症の患者は自分の妄想を正当化するために更にひどい妄想に取り付かれる。「自分は世界一賢い」と信じた患者は「世界2位の賢者が権力を握って私の邪魔をしている」とか「猿(つまり「普通の人」)は人間(つまり「最高の賢者である私」)を理解できない」とかいった妄想によって妄想を正当化しようとする。
 「善人が不幸になることは絶対に許されない」という妄想は天国という妄想を生む。
 「美は絶対だ」という妄想は「美女はトイレに行かない」と信じる。
 「真面目に働けば必ず報われる」という妄想は「搾取」とか上司による虐待といった被害妄想を生む。
 冷静に考えればすぐに誤りだと分かることでも妄想に捕らわれている人には分からず更に不合理な妄想の虜となる。これは一旦嘘をつくと嘘を正当化するためには次々に嘘をつかざるを得なくなるようなものだ。それが妄想だということに早く気付けば気付くほど妄想による被害は小さくなる。