俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

品格

2009-06-09 15:31:45 | Weblog
 近頃「品格」という言葉が乱発されている。当初はこの言葉を好意的に捉えていたが「○○の品格」というタイトルが乱発されるに連れてこの言葉から「品格」が失われた。
 品格は必要なことだ。しかし昨今使われている「品格」は既存価値の信奉者がその価値を肯定するために「品格」という言葉を利用しているにすぎない。昔からそうだったとか「通」はこうしているということは決して「品格」ではない。
 「高貴とは何か」は重要な哲学的テーマだ。しかしそれが重要であるのは、既存の価値体系が権力者によって偽りの価値体系に歪められているからそれを是正せねばならないからだ。偽りの価値を否定するために本当の「高貴」とは何かを問わねばならないからだ。
 既存価値こそ由緒と伝統があるから品格があるという考え方は権威主義以外の何物でもない。品格という言葉を利用して既存の価値体系を温存しようという姿勢こそ真理に対する品格を欠いている。

冤罪

2009-06-09 15:07:42 | Weblog
 1人の人が殺されたとする。ある人が容疑者とされその人が真犯人である確率が60%とすれば期待値は1×0.6=0.6人となる。
 10人の人が殺された場合、容疑者が真犯人である確率が20%なら期待値は10×0.2=2.0人となる。
 数学としてはそれなりに筋は通っているがどこか変な理屈だ。日本ではこんな変な理屈がまかり通っているのではないだろうか。連続殺人犯や無差別殺人犯や児童殺害犯はかなりの確率で逮捕されほぼ確実に有罪しかもかなり重い実刑になっている。
 結果が重大であろうが無かろうが、最初に判定すべきなのは犯罪を行ったかどうかであって、結果の重大さが真犯人である可能性を高める訳ではない。まず容疑者が真犯人かどうかを明らかにすべきであって、真犯人と確定した後から事の重大さに応じてそれに相応しい量刑を課するべきだろう。事件の重大性が犯人をでっち上げて冤罪を生む原因となっていないだろうか。
 私は3つの事件を頭に置いている。足利事件と砒素カレー事件とロス疑惑事件だ。
 この3つの事件で最も真犯人の可能性が高いのはロス疑惑の故・三浦容疑者だろう。共犯者は有罪判決を受け既に刑も執行された。それにも関わらず三浦容疑者が無罪となったのは被害者が彼の妻1人だったからではないだろうか。1×99%=0.99<1という数式が働いたのではなかろうか。
 一方、足利事件では被害者が4歳の女児ということから80年分の命を奪ったということになり大人の2倍可哀相という心理が働いて1×2×60%(可能性)=1.2という数式が働き、また砒素カレー事件(4人死亡)では4×50%(可能性)=2という数式が働いたのではないだろうか。繰り返すが結果が重大だということは容疑者が真犯人である可能性を高める訳ではない。重大な犯罪こそ慎重に裁かれねばならない。

汝自身を知れ

2009-06-01 15:44:44 | Weblog
 自分のことは自分が一番よく分かっている訳ではない。例えば自分の臭いを一番分からないのは自分自身だ。自分の臭いは知覚できない。臭いの主体と客体が同一の場合は無臭としてしか知覚できない。
 個人は他者との関係を通じて自己を知る。誰との関係も持たない「無」の中で自己を知ることは不可能だ。
 日本人とはどういう民族か、ということは日本人の中にいては分からない。同じ臭いを共有しているからだ。
 外国での日本に関する報道を通じて日本の特性を知ることは可能だ。日本についてどう報じられているかを通じて自分達には感じられない自分達の「臭い」を知ることができる。しかしこの方法には大きな欠点がある。日本に関する報道には多くの場合政治的な意図が働いている。特に中国と韓国における報道はそうだ。
 一番良い方法は自ら外国へ出かけることだろう。外国で生活すれば日本での常識が如何に国際的には非常識なのかを自分の肌で感じることができる。

誤診と誤審

2009-06-01 15:31:16 | Weblog
 友人の医師から聞いた話だ。
 当直の外科医がある救急患者を治療した。彼としては可能な手を尽くしたが患者は亡くなった。司法解剖をしたら心臓病だった。それも専門の心臓外科医でさえ対処に困るほどの難病だった。それにも関わらずこの当直医は有罪判決を受けた。理由は「医師として最善の対処を怠った」ということだったそうだ。業務上過失致死(誤診)ということだろう。
 こんな理由で医師が犯罪者にされるなら誰も救急患者を受け入れなくなる。実際私の友人が勤務する病院ではこの判決以降、ややこしそうな救急患者の受け入れを拒否する方針を採ったそうだ。
 もし裁判官がいきなり山ほどの量の資料を突きつけられて「すぐに判決を出せ」と言われたら彼は断固拒否するだろう。救急医が求められているのはこれと同じようなものだ。何の予備知識も無く、いきなり「なんとかしろ」と言われてもどうしようもない。患者の命が掛かっているから分からないままであろうととにかく全力を尽くすしかない。しかし万全の治療などできる筈が無い。善意でやったことで犯罪者にされるのでは堪ったものではない。
 救急患者のたらい回しは医療システムだけの問題ではなく司法による誤審に基づくものも決して少なくないように思える。

日本人の倫理

2009-06-01 15:18:10 | Weblog
 日本人の倫理の基準は「相手がどう思うか」だろう。独り善がりの「~すべし」や「我欲す」ではなく相手がそのことをどう評価するかに基づいて行動が基準付けられる。これは「優しさ」とか「思いやり」と言い換えても良かろう。
 あるいは2つの名言に代表させることも可能だろう。
 1つは「己の欲せざるところを人に施すことなかれ」。これは「論語」における孔子の言葉だ。
 もう1つは「自分がして欲しいと思うことを他者にせよ」であり、出典は「聖書」の「マタイによる福音書」で英語では`Do to others as you want others do to you.'だ。(発言者は勿論イエス・キリスト)
 「我々は何をすべきか」ということと「我々は何をしてはいけないか」という行動上の2大原則が東西の2大聖人の名言に基づいているのなら決して恥ずかしいことではない。もしこれを実践しているなら誇りを持って全世界に発信しても良いほど素晴らしいことだ。