俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

2014-09-10 13:53:39 | Weblog
 嘘を貫くことは難しい。嘘で誤魔化すためには超人的な努力が必要だ。まず総ての嘘を覚えておかねばならない。そして最も大変なのは事実と整合させねばならないことだ。嘘と事実を整合させることなど天才にしかできまい。だから殆んどの嘘は矛盾を突かれることによって破綻する。
 朝日新聞は32年間、嘘をつき続けた。私がこれを見破ったのは歴史を調べたからではなかった。朝日新聞の主張が詭弁・強弁・論点の摩り替えに終始していたからだ。これは夫の浮気を疑う妻の追及と同じ手法だ。証拠は無くても夫が訳の分からない言い訳を繰り返していればそのことだけで何かを隠していることが明らかになる。朝日新聞は嘘であることを知っていたからこそ誤魔化しのテクニックを総動員していた。
 あるいは昨年7月の参議院選比例区で、高松市選挙管理委員会は投票総数を合わせるために白票を水増しした。その結果、衛藤候補の得票数がゼロになるという不合理を招いた。誤魔化そうとしたことによって却って動かぬ証拠を作ってしまった。
 私は嘘は言わない。少なくとも嘘を言うまいと最大限の努力をする。一昨日の記事「個性化」で誤りを認めたように誤ることはあるが騙す意図は全く持たない。人を騙さねばならない立場には立ちたくない。
 とは言え、私は学生時代に自分自身を使って嘘つきの実験を何度か試みた。その方法は誤りや嘘を自分で信じ込んでみるという方法だった。例えば私は「経済人(ホモ・エコノミクス)」を誤りだと思っている。この人間観においては、人は自分の利益だけを追及すると考えるが、人間はそんな単純なものではないと私は確信している。それを無視して敢えて自分の利害だけで動こうと試みた。驚いたことには却って生活がスムーズになった。決断が早くなったし迷うことも少なくなった。
 これは恐ろしい経験だった。嘘や誤りを基準にしても人は生きられるということだ。それどころか信じたほうが便利な嘘が沢山あるということを実感した。キリスト教徒やムスリム(イスラム教徒)が神という嘘に基づいて生きていることにも納得できた。
 実は数学でさえ虚構に基づいている。平行線は交わらないという前提に立ってユークリッド幾何学は構築されているが、交わるという前提に立つのが非ユークリッド幾何学だ。あるいは二乗したら正数になるとする通常の数学に反して、複素数では二乗して負数になる虚数を認める。数学でさえ虚構に基づいて構築できるのだから世界観などどんな嘘にでも基づくことができる。前提とする嘘が暴かれない限り嘘に基づいて生きられるということだ。

人災

2014-09-10 11:24:45 | Weblog
 先月の広島市や昨年の伊豆大島における土石流災害は天災だろうか?むしろ人災ではないだろうか。それなら特別警報を出さなかった気象庁を咎めるのはお門違いになる。
 同程度の風で壊れる家と壊れない家があるのは強度が違うからだろう。それと同じように条件の悪い地域が風雨で被災する。これは気象庁ではなく自治体の責任だ。
 気象庁の仕事は雨や風の予報であって災害の予報ではない。災害が起こるのは地盤や排水対策などに不備がある地域だ。そんなことまで気象庁が関与すべきではない。
 耐震性の乏しい家屋が微弱な地震で倒壊するのは地震予知ができないからではない。仮に予知できてもそんな家屋は倒壊する。欠陥住宅を放置した者の責任だ。同様に、水害に会うのは治水の不備が原因だ。古来、治水は支配者が負う最大の責務だ。古代中国では治水に成功した禹が舜から禅譲されて王位に着いた。日本のヤマタノオロチ伝説もクシナダヒメ(奇稲田姫)つまり稲田を守る治水事業が寓話化されたとする説が有力だ。徳川幕府も暴れ川と呼ばれた利根川の治水に尽力した。
 天災と人災を混同する人は気象庁を責め、もっと警告せよと言う。私は逆にもっと慎めと言いたい。これまでの3度の特別警報は総て空振りに終わった。これ以上に空振りが増えれば「狼少年」になってしまう。気象庁による警告が信じられなくなる。
 災害が発生するのは地盤や設備や建物に問題があるからだ。他の地域であれば災害に至らない程度の風雨でも欠陥を抱えた地域では災害になる。今回の広島市での災害を見ても被災地は、山を切り開いたいかにも危なそうな地域ばかりだ。旧市街地などは殆んど被災していない。
 豪雨を原因とするのは責任転嫁だ。宅地開発の失敗を認めれば自治体が責任を問われかねないので、悪いのは異常な豪雨であるとして特別警報を出さなかった気象庁に責任を押し付けようとする。
 気象庁はより正確な気象予報に徹するべきだ。災害予報など関知すべきではない。それは自治体の仕事だ。災害の起こりそうな場所は予め分かっており、その危険な地域に対して自治体が避難勧告や避難指示をすれば済むことだ。こんなことを怠っている怠慢な自治体は、特別警報が発令されれば全域に避難指示をするような無責任な対応をする。
 天災とされているものの圧倒的多数が、実は人災だ。

信賞必罰

2014-09-08 10:29:14 | Weblog
 カラスのように種族内で助け合う動物であれば「利己的」な個体が有利になる。仲間を助けず、仲間からは助けられるのだから最も安全だ。しかしこんな個体が増えたら種族としては弱体化する。
 この淘汰圧は種族以前に群において現れる。カラスではイメージしにくいが、猿であれば、群同士での闘いにおいて助け合う群のほうが強いだろう。闘いだけではなく餌の確保においても助け合う群のほうが多分、有利だろう。「利己的」な個体は群レベルでも種レベルでも、何らかの形で淘汰されているようだ。
 人類は助け合う動物であり、その中でも日本人は最も助け合う民族だろう。日常語を使えば「優しい」ということだ。優しい人の中では我儘な人が有利になり易い。日本人は二極化しつつあるように思える。
 「優しさ」という美徳を守るために日本人が採用しているのはゲーム理論で言う「しっぺ返し」あるいは「やられたらやり返せ」という最強の戦略だ。優しい筈の日本人の死刑支持率が異様に高いのは信賞必罰が国民的感情だからだろう。対中感情や対韓感情が急激に悪化した最大の原因は彼らの反日姿勢だろう。報復・報恩を忘れないことこそ日本人の国民性だ。
 最近の朝日新聞バッシングは急激過ぎるように思う。以前から朝日新聞の嘘や詭弁を咎めていた私にとっては、嘘をつき続けていた朝日新聞と比べれば嘘を認めた朝日新聞のほうが遥かにマシだ。他紙によるシェア奪取キャンペーンに乗せられているようにも思える。5日には私の家にも毎日新聞の「試読紙」が配られた。朝日新聞離れを千載一遇の好機と捕えて部数拡大を狙っているようだ。
 我々は「水に落ちた犬を打て(打落水狗)」ではなく「ワシントンと桜の木」のように罪を認めた者には寛大であるべきではないだろうか。極悪人は容赦しないが悔い改めた者の罪は水に流すのが日本人の特長だ。あの傲慢だった「アサヒ真理教」が更生しようと努力しているのだから暖かく見守ってあげても良かろう。 
 朝日新聞社は混乱している。池上彰氏の記事の掲載を拒否したり急遽掲載したりしてブレている。朝日新聞社を罰するかどうかは「猶予は1箇月」と語る池上氏と同様、もう少し様子を見てからでも遅くはなかろう。
 

個性化

2014-09-08 09:51:39 | Weblog
 多くの子孫を残す者が適者であれば、爬虫類のオスの場合、最も多くのメスと交尾した者が最適者となる。下手な鉄砲も数打てば当たる、そのものだ。オスの戦略は狩人のようなものだ。その一方でメスは幾ら多くのオスと交尾をしても多く出産できる訳ではないから選り好みをする。量ではなく質を問う。メスにとっては、1個の卵子に群がる無数の精子から最も機敏な精子だけが選ばれるのと同じ構造だ。
 哺乳類の場合、違った要因が加わる。卵を産みっ放しにする爬虫類とは違って、哺乳類は子育てをしなければならない。タツノオトシゴならオスが育児を請け負うが、乳呑児の世話は乳房を持つメスが主役とならざるを得ない。1匹で生きることでさえ大変な環境で、子供と共に生きることは大変なハンディとなる。自分だけではなく生存力の乏しい子供まで守らねばならない。この困難を克服するためにはオスの協力が必要だ。メスは、オスが持つ生存力以上にメスに対する支援力を評価したほうが有利になる。こうして多くの鳥類と一部の哺乳類において、子育てのための一夫一妻制が成立した。
 安全な育児のためにはもう1つ方法がある。ゴリラやゾウアザラシのようにハーレムを作ることだ。肉食獣よりも強いオスの庇護があればメスは安全に育児ができるし、オスは多くのメスと交尾できるので両性の利害が一致する。江戸時代の豪商が用心棒を雇うようなものだ。
 鳥類の場合、一夫一妻制が本能に刷り込まれているようだが、哺乳類はそうではない。子育てにおけるオスとメスの役割分担は多種多様であり、特に猿・類人猿においては近縁種でさえ全く異なった繁殖形態を採る。
 動物界の常識に逆らうかのように人類のメスが美しくなったのは、オスを繋ぎ止めるためではないだろうか。オスは多くのメスと交尾したがるがそれを防止するのが「この人でなければならない」と感じさせる魅力だ。そのためにメスは個性化・多様化した。
 私はこれまで間違っていた。オスが実験体だから多様化すると考えていた。オスはメスよりも個体差が大きい。体長であれ知能であれオスのほうがバラ付いている。しかしこれは大きな見落としをしていた。オス・メス共通の特性ばかり比較していたからだ。オスと比較できないもの、例えば乳房や女性器などにおいて、その大きさ・形状・機能などは著しく多様化している。人類のメスはメスらしさにおいて個性化・多様化して、オスにとって唯一無二の存在になっているのではないだろうか。もしかしたら性格や嗜好などにおいてもオスよりも個性化・多様化しているのかも知れない。女性性が個性化することによってオスにとってのオンリーワンになり得る。「赤い糸」や「割れ鍋に綴じ蓋」のような感情はここから生まれているのではないだろうか。
 但しこれは諸刃の剣でもあり得る。元々、多くのメスと交尾しようとする人類のオスにとって、メスがそれぞれ異なるということは猟色の動機付けともなり得る。

2014-09-06 10:10:04 | Weblog
 天気予報に降水確率が加わって便利になった。昔の「晴れ時々曇り、所により俄雨」では何の参考にもならなかったが、以前にも書いたように今では気象庁の発表する降水確率を6掛けにして判断材料の1つとして使っている。しかし最も重視するのは、今、目の前にある空だ。データよりも確かな現実がそこにある。
 それでもまだ大きな欠点がある。降るか降らないかだけが基準になり勝ちなことと時間区分が大雑把過ぎることだ。
 午前と午後に二分して予報する場合、丁度正午前後に掛けて1㎜の降雨がほぼ確実であれば、天気予報は「午前・午後とも降水確率100%」と表示されるだろう。この予報の表面だけを鵜呑みにすれば判断を誤る。
 これほど極端ではなくても「12時~18時100%」を更に調べれば「12時~15時0%」と「15時~18時100%」となっていることは決して珍しくない。もしかしたら17時~18時だけが100%なのかも知れない。
 日別の天気予報であれば「晴れ一時雨」が「降水確率100%」と表示されることもある。数学的には誤ってはいないが誤解を招き易い表現だ。
 改善のモデルとして台風情報が参考になる。意識している人は余り多くないが台風は「大型で強い」というふうに表現される。「大型」が面積を、「強い」が風速を表している。
 これと同じように単に「降る・降らない」のような○×式ではなく雨の強さを表現すれば利便性は格段に高まる。例えば「小雨・雨・豪雨」のようにランク付けすれば同じ降水確率50%であっても異なった対応を採れるだろう。
 あるいは降水時間シェアもあれば便利だ。その時間帯の大半が雨なのか短時間の雨なのかの区別だ。これは従来の「一時」と「時々」の焼き直しなのだから決して難しいことではなかろう。
 天気予報は最も身近で有益な科学情報なだけに正確で分かり易いものであって欲しいと思う。

煽動

2014-09-06 09:38:44 | Weblog
 煽動の多くは嘘に基づいている。事実に基づいても関心を持たれないから嘘を交えて人を怖がらせようとする。
 私が最も怖がっている物を多くの日本人は恐れない。薬こそ最も身近な危険物だ。それは人体に異常反応を起こさせることを目的として作られた劇物だ。異常反応を起こさせなければ毒にも薬にもならない。薬と同様に、危険ドラッグ類も人体に異常反応を起こさせることを目的にして作られている。こちらは何が使われているかさえ曖昧で動物実験さえ不充分なだけに一層危険だ。
 煙草やアルコールや紫外線の有害性など高が知れている。これらと比べて薬の有害性は際立っている。これまで散々騒がれたダイオキシンや環境ホルモンなど論外だ。
 環境ホルモン騒動は科学知識のある人にはすぐに嘘と分かる馬鹿騒ぎだった。オスが減って人類が滅ぶという話を真に受けた人は科学どころか常識さえ欠けている。オスが減っても困らない。総数が同じであればメスが多いほうが子孫は増える。オスの発生率を高めることによって「害虫」や「害獣」を駆除しようと研究している学者もいるぐらいだ。それどころかギンブナは殆んどメスしかいない。ギンブナのメスはコイなど他種の魚に求愛行動をして精子を放出させる。この精子による刺激で卵が発生を始めるが受精していないので雑種ではなくメスのクローンが生まれる。これを単為生殖と言い、ハチなど少なからぬ動物がメスだけで繁殖している。
 人は馴染みの薄いものを過度に怖がる。ダイオキシンにせよ環境ホルモンにせよ騒動になるまでは誰も知らなかった。訳の分からない物を利用して騒ぎを煽るのがデマゴーグの常套手段だ。
 オスプレイの危険性を過度に煽るのも、それが特異な形体をしているからだ。飛行機ともヘリコプターとも異なって馴染みが無くいかにも危険そうだ。開発実験中には「未亡人製造機」とまで酷評されていたが現時点では決して危険性は高くない。現在使っている旧式のヘリコプターよりも安全なくらいだ。
 朝日新聞のように嘘を利用して世論を操作すべきではない。我々は中国産食品や食品添加物などを必要以上に怖がっているが、これはマスコミが煽ったからだ。正しく怖がることこそ必要だ。

死後

2014-09-04 10:20:43 | Weblog
 日本での平均葬儀費は231万円だそうだ。「死後ハムになる」豚であればそれくらい掛かっても構わないが「死後は無になる」人間の場合、ゴミとして処分できないものだろうか。流石に燃えるゴミとして回収して貰うのは不可能だろうが、死後に墓を作ることは大変な無駄だ。
 現在の日本の総人口約1.3億人が1㎡ずつの墓を作れば約130㎢の土地が必要になる。これは大阪府で2番目に広い堺市の137㎢にほぼ匹敵する。こんな膨大な土地が死者のために使われるということだ。死体は火葬したあと何かの素材として使うか散骨してしまえば、狭い日本の土地を更に狭くせずに済む。この世にいない人のためにこの世の土地を無駄遣いすべきではなかろう。
 死体があるから墓が必要になるのであれば死体を残さなければ墓の必要性も下がる。遺品しか残っていなければそれを金目のものとゴミに分別すれば済む。もし核兵器に直撃されれば影しか残らないが第三次世界大戦でも起こらない限りそんな僥倖には巡り会えまい。あとはマレーシア航空機のように行方不明になるか撃墜されることぐらいしか期待できない。火口に落ちることや海の藻屑となることも選択肢に加えても良かろう。
 死期が近付いた猫や象は自らの意志で姿を隠して秘かに死ぬと言う。彼らを見習って自らの意思で行方不明者になることも1つの選択肢だろう。例えば富士の樹海の奥で死ねば目出度く白骨死体に変わり果てることができる。身元が特定される物さえ持っていなければ晴れて無縁仏になれる。国内では難しくても外国で野晒しになることは決して難しくない。日本とヨーロッパ以外でなら割と簡単に野垂れ死にできる。
 死んでしまえばこの世との関係は一切断たれる。自分が死んだあとのこの世など1億光年彼方の1億年後の世界と同じようなものだ。そんなものに気を使う必要など無いかも知れないが、この世は生きている人のものだ。この世を去る人は極力邪魔にならないように心掛けるべきだろう。

標準治療(2)

2014-09-04 09:45:04 | Weblog
 私は歯科以外の医療施設には殆んど行かないので年に1度の「特定健康診査」が医師に会う数少ないチャンスだ。この機会に整形外科に行って最近、頻繁に書いているアイシングについて尋ねてみた。健診の合間での四方山話なので余り突っ込んだ話ではないが、医師は腫れることによって血行が良くなることもアイシングが腫れを予防することも、当然ながらよく知っていた。
 非常に滑稽なのは彼がこの2つの事実を結び付けないことだ。腫れたら血行が良くなることを知っていても、腫れを抑えたら血行が悪くなるということは意に介しない。腫れたら湿布をして治療するものだと無邪気に信じているし、腫れの予防が有害であろうなどとは思いもしない。
 かつて内科医に風邪の治療について尋ねたことがある。彼は風邪の治療薬が無いことを認めた上で「ビタミン剤か解熱剤、時には抗生物質を処方する」と答えた。その理由は「標準治療だから」だった。それによって治せるとは全く考えずに定められた手順を実践するだけだ。
 研究者でない医師にとって怪我や病気の原因や本当の治療などどうでも良いことなのだろう。彼らは社会に求められている役割を果たす。つまり対症療法によって患者の不快感を軽減することが彼らの仕事だ。医師は診断を拒否できないし、標準治療に背くこともできない。標準治療以外を行えば医師法違反になりかねないからだ。
 医師は自動車の整備士に似ている。修理することが仕事であって、たとえそれが改良になろうとも改造をしてはならない。マニュアル通りの仕事が義務付けられている。あるいは運転手にも似ている。法令によって雁字搦めにされているから、たとえルールが間違っていると思ってもそれに背くことは許されない。
 標準治療を決めるのはそれぞれの学会だ。その主要メンバーはそれぞれの専門医であり、自分が学校で教わり長年馴染んだ医療こそ最善だと信じている。「三つ子の魂百まで」と言うように幼い時に教え込まれたことから脱却することは難しい。だからいつまで経っても誤った医療が見直されないのだろう。
 医療は命に関わるだけに規制が必要なことは言うまでも無い。実際に「癌が治る」と言って贋薬を売る悪徳医師もいる。しかし命に関わるだけに間違った医療を早急に見直すことは極めて重要だろう。今のように学会で決めていれば前例踏襲の悪弊から抜け出せない。いつまでも天動説を唱えているような医師は決して少なくない。

ジョーク

2014-09-02 10:08:23 | Weblog
 3月31日に書いた「エイプリルフール(2)」のアクセス数が比較的多いようだ。大半の記事が暗くて理屈っぽいので異彩を放つのだろうか。私は元々ジョークとパラドクスが大好きな人間であり、笑えるネタはどこからでも見つける。
 サラリーマン時代、定年退職した部長が事務所に退職の挨拶文を掲示した。そこには「お蔭様で大果なく定年を迎えました」と書かれていた。勿論、「大過」の間違いだ。これでは「お前たちのせいで碌な仕事ができなかった」ということになってしまう。この挨拶文はしばらくの間、掲示されていたが何人ぐらいが誤字に気付いたことだろうか。
 面談で名前を尋ねられた女性が答えた。「エイコです」「どんな字ですか?」「英語の英に子供の子です」手渡された書類には「A子」と書かれていた。
 こんな会話を耳にしたことがある。食堂で「それは醤油?」「ソース」「・・・」あるいは百貨店で「お持ち帰りでしょうか?」「はいそうです」「・・・」
 どういう経緯があったのか知らないが小学生の男女が小便の飛ばし比べをすることになった。男児が自信満々で準備を始めると女の子が言った「手を使うのは反則よ!」
 高校生の試験の答案も結構笑えるものが多い。日本史の試験のあとで2人が職員室に呼び出された。
 一人は「法隆寺の伽藍配置図を書け」という設問に対して正確に描き過ぎたためだ。講堂や塔などだけではなくトイレまで書き込んでしまった。多分、彼は自分が実際に見たとおりの正確な図を描いたのだろう。しかしそれは教科書に載っていた配置図とは異なっていた。これを不正解とすべきかどうかは意見が分かれるだろう。
 もう一人は悪ふざけだった。「二・二六事件について書け」という設問に彼はこう書いた「青年将校たちが襲撃した時、大蔵大臣の高橋是清は丁度、入浴中で、騒ぎに驚いて裸で飛び出した。兵士の一人が浴衣を持って言った「高橋これ着よ」
 地理の試験で「アメリカの州の名を書け」に対して「本州、九州、信州、長州、紀州・・・」と列挙した男がいた。

瀉血

2014-09-02 09:33:03 | Weblog
 ヨーロッパでは19世紀頃まで瀉血という「医療行為」が行われていた。悪い血を抜き取ることによって健康を回復できる万能医療だと信じられていた。例えばコレラのように激しい下痢を伴う患者の血はドロドロになる。このドロドロの血を病気の原因と考えた。誰でも分かることだが、血がドロドロになるのは結果であって原因ではない。下痢によって水分が不足するから血の粘度が高くなっているのでありその血を抜いても病気は治らない。逆に更に水分が不足することを招いて危険な状態になる。有効なのは瀉血ではなく点滴だろう。こんな馬鹿なことを千数百年間続けていた。
 これを野蛮と笑うことはできない。現代医療も同じようなことをしている。風邪をひいたら熱が出る。熱は結果であるのと同時に免疫反応でもある。体温を上げることによって病原体の活動を抑え、免疫力を高める。解熱剤を使うことは瀉血と全く同じ野蛮な行為であり病気を悪化させる。
 体は賢く頭はアホだ、と最近よく思う。体は数億年に亘る進化を経て洗練され続けただけに非常に合理的にできている。不都合な機能は淘汰され、生存および繁殖に有利な機能のみが継承された。現存の生物は総て改善に改善を重ねて作られた奇跡の賜物だ。人類の浅知恵は自然の叡智の足元にも及ばない。未だ人類は目の代替品さえ作ることができない。目の最善の治療法が移植であることを考えればこのことは明らかだ。
 医療が最優先すべきことは自然治癒力の妨害をしないことだろう。傷に対する消毒や解熱剤などが有害であることは既に証明された。老人の高血圧や高血糖を薬で下げることの有害性も、私が死ぬまでには証明されるだろう。アイシングの有害性と温熱療法の有効性もそのうち明らかになると期待する。生体反応の素晴らしい合理性を我々は再認識すべきだろう。