「秋の合唱祭」として長く愛されている演奏会、平成25年度 札幌市民芸術祭「札幌市民合唱祭」が開催された。10月19日(土)には第2部38団体、20日(日)には第1部83団体が出演した。8703も第1部の14番目に、合唱団ア・ラ・カルト&混声合唱団「樹」の指揮者として出場したが、聴衆が少なくて若干拍子抜けの感があった(笑)。午前中ということもあったのかもしれないが、寂しい客席であった。
かっての炭鉱町の風景をモチーフとしたインスタレーション
2012年から2013年にかけ、三笠市旧美園小学校(2011年閉校)の体育館全面に「かっての炭鉱町の風景をモチーフとしたインスタレーション」を制作しています。三笠は1879年に官営幌内炭鉱g拓かれた後、炭鉱の町として発展してきた歴史があり、本制作では現在では失われた炭鉱町の風景を参加者と共に作り上げていきます。鑑賞者は地形の中に潜ることも出来、内的には夜の炭鉱町の風景が広がります。また、キャットウオークから全体を俯瞰するなど、様々な鑑賞方法で巨大な作品を体感することができます。
完成年の今年は、次のような日程で制作、作品披露が行わるが、期間中誰でも制作過程を見ることができ、制作にも参加できる。
10月19日(土) 前夜祭 岩見沢市平安閣
20日(日) 川俣正セミナー 14:00~16:00
22日(火) ワークショップ 小学生対象に現地授業
25日(金) お披露目パーテイー&川俣正作品解説
コンサート 17:00 フルートと弦楽トリオ(1000円)
川俣 正
1953年北海道三笠市生まれ。岩見沢東高校出身。美術家。
28歳でヴェネツイア・ビエンナーレの参加アーテイストに選ばれ、その後もドクメンタなど、世界的に高い評価を獲得し続け、2005年には、横浜トリエンナーレの総合デイレクターを務める。また、東京芸術大学が革新的な試みとして設置した「先端芸術表現科」の立ち上げに主任教授として着任。既存の美術表現の枠組みを超えていく試みを実践してきた。現在は、フランス、パリ国立高等芸術学院の教授。建築や都市計画、歴史学や社会学、日常のコミニュケーション、あるいは医療にまで及ぶ分野とかかわり、海外でもっともよく知られている日本人アーテイストのひとり。本年3月には芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。パリ在住。


2012年7月14日 製作現場にて撮影
2012年から2013年にかけ、三笠市旧美園小学校(2011年閉校)の体育館全面に「かっての炭鉱町の風景をモチーフとしたインスタレーション」を制作しています。三笠は1879年に官営幌内炭鉱g拓かれた後、炭鉱の町として発展してきた歴史があり、本制作では現在では失われた炭鉱町の風景を参加者と共に作り上げていきます。鑑賞者は地形の中に潜ることも出来、内的には夜の炭鉱町の風景が広がります。また、キャットウオークから全体を俯瞰するなど、様々な鑑賞方法で巨大な作品を体感することができます。
完成年の今年は、次のような日程で制作、作品披露が行わるが、期間中誰でも制作過程を見ることができ、制作にも参加できる。
10月19日(土) 前夜祭 岩見沢市平安閣
20日(日) 川俣正セミナー 14:00~16:00
22日(火) ワークショップ 小学生対象に現地授業
25日(金) お披露目パーテイー&川俣正作品解説
コンサート 17:00 フルートと弦楽トリオ(1000円)
川俣 正
1953年北海道三笠市生まれ。岩見沢東高校出身。美術家。
28歳でヴェネツイア・ビエンナーレの参加アーテイストに選ばれ、その後もドクメンタなど、世界的に高い評価を獲得し続け、2005年には、横浜トリエンナーレの総合デイレクターを務める。また、東京芸術大学が革新的な試みとして設置した「先端芸術表現科」の立ち上げに主任教授として着任。既存の美術表現の枠組みを超えていく試みを実践してきた。現在は、フランス、パリ国立高等芸術学院の教授。建築や都市計画、歴史学や社会学、日常のコミニュケーション、あるいは医療にまで及ぶ分野とかかわり、海外でもっともよく知られている日本人アーテイストのひとり。本年3月には芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。パリ在住。


2012年7月14日 製作現場にて撮影
現在、台風26号が日本列島に接近中であるが、かなり大型のようでテレビ、ラジオ等では盛んに警戒を呼びかけている。8703にとって忘れることが出来ない台風の記憶がある。それは1954年(昭和29年)9月26日、台風15号(通称マリー台風)によって当時の国鉄青函連絡船「洞爺丸」が沈没した事故である。死者・不明者1155人という日本海難史上最大の惨事であった。
この日は、8703の14歳になる誕生日であったが、毎年恒例になっていた叔父家族が住む栗山町のお祭を楽しんで雨竜町の実家へ帰る日であった。丁度お昼頃に栗山を出発し、岩見沢で乗り換え(当時の国鉄)滝川へ向かう頃から風が強くなり、滝川から雨竜へのバスは強風の中を走っていた。夕方には無事に家に着いたが、嵐は激しさを増していた。そして翌朝、近所の寺院の屋根が無くなって居るのに驚き、その後、ラジオ(その頃はまだテレビは無かった)で洞爺丸遭難のニュースを知った。自然の脅威を初めて実感した記憶である。
この日は、8703の14歳になる誕生日であったが、毎年恒例になっていた叔父家族が住む栗山町のお祭を楽しんで雨竜町の実家へ帰る日であった。丁度お昼頃に栗山を出発し、岩見沢で乗り換え(当時の国鉄)滝川へ向かう頃から風が強くなり、滝川から雨竜へのバスは強風の中を走っていた。夕方には無事に家に着いたが、嵐は激しさを増していた。そして翌朝、近所の寺院の屋根が無くなって居るのに驚き、その後、ラジオ(その頃はまだテレビは無かった)で洞爺丸遭難のニュースを知った。自然の脅威を初めて実感した記憶である。