8703の部屋

「ハナマルサンの部屋」です。音楽、スポーツ 世相 等々 気ままに綴ります

私の合唱歴から⑩

2020-04-30 08:49:45 | 合唱

自分の古希を機に立ち上げた混声合唱団「樹」は、私の合唱活動の集大成にしようと考えた。20代で学生合唱団の指揮者としてスタートし、歌い手としても歌ってきたが、教員になってからは徐々に指揮活動の方が主になってきた。指揮者としては、大半が高校生、大学生を対象にやって来た。散発的には静麗会、虹の会、コールアイリス、藤女子大学ウイスタリアコール、北大合唱団などの指揮も経験したが、常任としては、いわゆる一般合唱団の経験はしていなかった。そこで、「最後に一般合唱団を作り、残したい!」が動機であった。

2011年からスタートした混声合唱団「樹」(以後、「樹」と表記)であったが、はっきり言って数年間は、細々と、静かに、いつ掻き消えるか?という感じであったが、少人数ながら結束は固く、一度も崩壊の危機は感じていなかった。「とにかく、続けること。例えば、団員が一人二人になっても続ける覚悟!」を持ってやって来たので、時々、ボヤキはしたけれども、諦めることは無かった。

当初の予定では、創立5年後には自主公演を持とう!の思いはあったが、無理であった。結局、7年目にして第一回定期演奏会が実現した。そして、第二回目、創立10周年記念演奏会を、2020年5月31日(日)に予定していたのだが、新型コロナウイルス感染の影響が大きく、残念ながら延期になってしまった。今のところは、一年後の2021年5月下旬に延期することにしているが、果たしてどうなることか?コロナ禍の影響はすさまじく、全世界的な大問題となっている。文化面のみならず、全てのイヴェント等が自粛、中止、延期を余儀なくされていて、さらには、いつにれば、全面解決するのかが見えていない状況である。今は、早く活動を再開したい!が最大の願いである。

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私の合唱歴から⑩

2020-04-29 07:54:27 | 合唱

教師として現役を退いてからは、セミナー、コロフェスタ等の実行委員長として合唱の啓蒙活動を中心に仕事をしてきたが、途中、一般吹奏楽団の手伝いをしていた時もあったが、丁度、私が70歳の誕生日を迎えるころに、天のお告げがあった。それは「あなたは合唱を続けなさい!」と夢の中でのお告げであった。そこで、合唱を続ける決心をして、モットーの「善は急げ!」とばかに走り始めた。ちょうど70歳の誕生日に「音の絆Ⅱ」という記念演奏会が催されたので、「よし、この演奏会が終わり次第、新合唱団の結成だ」と考えていた。そして、10月、数名の友人知人に声を掛けて新合唱団の結成に取り掛かった。しかし、全くのゼロから、のスタートである。最初からとんとん拍子にうまく進むはずはない。まあ、最初は準備会といったところであったが、団名の候補だけでも挙げておこうということになり、混声合唱団「樹」という名称がほぼ決まった。これが2010年であり、翌2011年から具体的活動が始まった。練習会場は江別市大麻公民館、練習は隔週1回(月2回)、最初は無理をしないで、焦らず、ゆっくり活動して行こう!と話し合った。そのとおり、ゆっくり、のんびりと進んだ。2年目には江別文化協会に加盟させていただき、市の行事(合唱祭)などにも参加し始めていた。当時の悩みは、何と言っても団員の不足であり、練習で混声四部が成り立たないことも度々であった。そのような状態が数年続いていた。

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私の合唱歴から⑨

2020-04-28 08:42:49 | 合唱

これまで、合唱指揮、合唱指導の履歴について記述してきたが、次に、指揮活動以外の合唱との関りについて記してみたい。まず、札幌合唱連盟の任命理事として,約30年間連盟の活動に関わって来て、この3月をもって退任した。講習会(セミナー)、コンクール、合唱祭等々,連盟主催の各種行事に実行委員として関わってきた。中でも、全日本合唱コンクール全国大会、おかあさんコーラス全国大会を複数回経験したことが印象深い。特に、1990年に,今は無き厚生年金会館で行われたコンクール全国大会が思い出深い。この時は、たまたま審査員係であったのだが、主なる顔ぶれが、小林秀雄、関屋晋、高田三郎、三善晃という豪華人であった。日曜日の昼食時、ある審査員が「私はおそばが食べたい!」と言いだし、係の人が大慌てしていたことなど、懐かしい思い出である。

合唱人集団「音楽樹」のメンバーとしての活動は、連盟役員としての内容とは大いに異なり、音楽的に自分の血となり、肉となる貴重な体験ができた(できている)。まず、Tokyo Cantatへの参加である。著名な指揮者、作曲家、演奏者によるセミナー、演奏会等々、誠に贅沢な音楽体験が可能な一週間である。私が直接運営に関わったこととして、「TokyoCantatサテライトセミナー」がある。私の居住する北海道岩見沢市をメイン会場としてサテライトセミナーを5回実施した。また、サテライトの無い時には「まなみーる合唱セミナー」(まなみーる、とはホールの名前)として、両者合わせて通算9回のセミナーを開催した。その講師陣を挙げてみると、デーネシュ・サボ―(ハンガリー)、カール・ホグセット(ノルウエー)~2回、エルヴィン・オルトナー(オーストリア)、カスパルス・プトニンシュ(ラトビア)、以上サテライト・セミナー講師。木下牧子、当間修一、信長貴富、松下耕、以上まなみーる講師。気心の合った、すぐれた仲間と共に経験した活動は、コロフェスタ開催へと繋がった。「音楽樹」のもう一つの大きな行事として、日本全国各地で開催されるコロ・フェスタがある。「2005コロ・フェスタin岩見沢」、「2013コロ・フェスタin小樽」と、2度のコロ・フェスタ開催も貴重な実績と自負している。

 

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私の合唱歴から⑧

2020-04-25 08:51:21 | 合唱

私が静修に赴任したころは、18歳人口の増加期に入り、毎年志願者が増加していた。ある年には、受験場が足りなくなって普段は教室としては使用していない部屋を利用するほどであった。志願者増と共に、入学してくる学生の知的レベルも上がり、短期大学としては札幌市内の老舗校と肩を並べるほどになっていた。合唱団の活動も順調に進み、毎年の定期演奏会は盛況であった。しかし、4年制大学が出来、さらには男女共学校になったころから学生の気風が変わってきた。もっと言えば、練習日が多く、地味な活動に見える合唱団に入る学生が減って来たのである。4年制になれば、さらに充実した活動ができるのではないか、という期待は見事に裏切られてしまった。そのような中、自分の定年の時期が近づいて来た50代後半には、後継の指導者のことを考え始めていた。ある年、声楽専門の若い先生が採用された。早速、合唱団顧問の交渉をして快諾をもらった。「やれやれ、よかった」と私は第一線を退くことができた。ちょうど、60歳の頃であった(定年は63歳)。ところが、新任の人は2年で退職してしまった。なぜ?と確かめてみたところ、なんと、新任(新卒)採用者には2年間の試用期間があり、お眼鏡にかなわなければ延長採用が無くなることもある、といことであった。次第に衰退しつつあった合唱団にとっては、衝撃的な事件であり、ついには消滅することになったようである(ということを、私は退職後に知った)。40年間(高等学校15年、大学18年)の教職、特に合唱指導者としての経験から持った私見であるが、「合唱部(団)は、学園の知的文化資産である」。大切に育ててほしいものである!

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私の合唱歴から⑦

2020-04-24 11:23:12 | 合唱

静修短期大学は、後に静修女子大学、さらに札幌国際大学(男女共学)となり、現在に至っている。招かれた条件の一つとして合唱団の指導があった。静修短期大学合唱団は、私がアポロ男声合唱団でお世話になった上元芳男先生が、開学当初から熱心に指導され、育てられたことを知っていたので、赴任に関して上元先生のアドヴァイスもいただいた。同合唱団の活動として特筆すべきことは、私が赴任当初から取り組んだ青島作品の連続演奏がある。定期演奏会のメインステージとして青島広志氏の作品を同氏の演出・ピアノで10年続けたのであった。青島氏とは、岩見沢東高校にいたころから面識があり、同校OB会との共演も経験していた経緯があった。青島氏の演出付き作品、ステージは学生たちには好評であり、このステージを楽しみに聞きに(観に)来てくれるフアンもいた。上演した主な作品としては

女の平和、帰ってきた歌、本家マザーグースの歌、まがりかどの乙女たち、11ぴきのネコ、ポール・バンヤン、ファンタジー・ワールド、続・甦った歌・・・・・などがあった。

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