私はずっと、舅との関係で悩んできた。
嫁に来てから、ずっと嫌なことをされ続けてきた舅に対して、どう接すればいいのか分からなかった。
でも、「魂の法則」を読んで、答えが見つかった気がする。
というより、自分が考えていたことと「魂の法則」に書いてあることが同じなので、ホッとした感じだ。
以下は「魂の法則」からのコピーです。
http://www.uv.es/vguillem/Tamashii_no_Housoku.pdf
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考えたことではなく、感じたことに従って生きようとしなさい。他者を思いやらねばならないが、その期待に沿おうとするのではなく、自分の気持ちに従うこと。
人から傷つけられたことを口実にして、自分の不信感や孤立を正当化してはならない。自分の感情を利用したいのだと思う者には慎重になり、誠意を持って近づいてくる者には心を開くのだ。
相手の苦悩が我々の利己的な行為によるものなのか、それともその人自身の我欲、つまり我々の意思や自由意志を尊重したくないためなのかを知る必要がある。
我々の利己的な行為が原因なら、我々が是正の努力をするべきだし、相手の我欲のせいなら、苦しみを生み出しているのはその人自身なので、その人が改善しなければならない。他者のせいで苦しんでいると思っていても、独りで苦しんでいるのだと知るべきなのだ。
*でも、その人が変わりたくなければ、どうしますか?
その人にとって自己改善することが有益であっても、そう強制すれば本物ではなく自由意志を侵害してしまうので、相手に強要はできない。そうは言っても、その人に、他の人の意志を曲げる権利がある訳ではない。だから、自分本位な人の利己的な態度に従わされている人は、自分の感情や信念を曲げるべきではないのだ。
自我によらなければ確固とした態度を保ち、相手の利己的な行為に屈してはならない。
*先ほど、他者を喜ばせようと過剰な努力をしてはならないと言われましたが、誰かを愛すと、その人が幸せでいられるようにあらゆることで喜ばせてあげようとすることと、矛盾しませんか?
喜ばせてあげればあげるほど愛していると考えるのは、大きな間違いで、善意ある者の多くが陥る大きな罠だ。
愛している人には、その人を喜ばせる以前に、援助し、理解し、尊重しなければならない。
喜ばすのと支援することの違いを知っておくことは大切だ。と、言うのは、誰かの機嫌を取る時に、手を差し伸べる代わりに弊害を与えてしまって、喜ばせたのは相手の我欲だけだった、ということもあるからだ。
しかも、自分の自由を失って、相手の我欲に自分の意志を服従させて機嫌を取る時は、自分自身を犠牲にしているのだ。
*手助けと機嫌取りとを、どう見分けるのですか?
自分で超えなければならない試練や状況を背負っている人を、喜ばすだけで助けなければ、能力を試す機会を奪うことになるので、その人の魂の停滞に一役買ってしまう。
真の手助けというものは、その人自身で試練や状況を解決できるように、支え励ましてあげて、前進できるようにしてあげることだ。
*援助することと機嫌を取ることの違いがはっきりする例を挙げて下さいますか?
そうしよう。先生に学校の宿題を家でするように言われた同じクラスの二人の子どもをイメージしてみよう。二人ともずっと遊んでいたいし宿題はうんざりするものなので、しないで済ませようとする。
一人の父親は、息子が怒らないように、しかも宿題をやらずに学校に行くという羽目にならないように、自分が代わりにやることにするが、その間子どもは楽しく遊んでいる。
もう一人のお父さんは、子どもがしばらくの間遊びを止めなくてはならなくても、子ども自身が宿題をするように、一緒に座って手伝ってあげることにする。
最初のお父さんは、息子が嫌いな作業をしてあげているので機嫌を取ってはいるが、宿題は子どもに課された状況であり、その子の学習に必要なものなので、援助をしてはいない。この父親は、息子が怠惰で依存的で我がままになり、どんな状況でも自分の問題を解決してくれる人を求めるようになることに、加担してしまっているのだ。
二番目のお父さんは自分の姿勢によって、遊びを中断したくない息子が怒る可能性を冒しているので、機嫌を取ってはいない。だが、子どもが学んで自己責任を受容することに寄与しているので、子どもを援助していることになる。
*それなら愛する人を喜ばすのは、いけないことなのでしょうか?
いつも悪いとは限らない。自分自身の自由を犠牲にしてしまう場合と、相手が独力で超えねばならない試練の肩代わりをして魂の停滞に加担してしまう場合が良くないのだ。
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