立川市の歴史散歩、昨日の続きでございます。
立川という地名の由来については、ウィキペディアによると次の二つがあるそうです。
(1)武蔵国府が現在の府中市にあった時代、その府中宿付近より見て現在の多摩市付近で東西に連なる山を多摩の横山と呼び、
その多摩の横山から見て多摩川が縦方向(南北)に流れている近辺(現在の立川、日野近辺)を立の河と呼んでいた。
立の河が次第に変化して現在の立川になったと言われている。
(2)地方豪族立川氏(たちかわ・し)が、現在の普済寺に城をつくったことから立川(たちかわ)になったと言われている。
この二つの説ですが、次に私が行ったのは(2)で出てきた普済寺でした。
普済寺は立川氏が鎌倉時代にこの地に居館をつくり、その後南北朝時代にその敷地内に寺(普済寺の前身)を創り、戦国時代末期に
立川氏が滅亡し、お寺だけが残って普済寺となったようです。
休憩所の椅子は手のひらの形になっています。
お釈迦様の掌でしょうか。
また、このお寺には国宝の「六面石鐘」があります。
ただし、中に入ることはできません。
いやぁ、由緒あるお寺でした。
最後は「山中坂地蔵堂」でございます。
ここは、これまでの諏訪神社、中嶋家の門、普済寺に比べると遥かに歴史は浅く太平洋戦争末期、昭和20年4月の
できごとですが、とても悲しい出来事が起こりました。
この地蔵堂のある場所には、太平洋戦争のころ防空壕がありましたが、昭和20年4月4日のB29爆撃機の空襲で
爆弾の直撃を受け42名が犠牲になったそうです。
その位置に地蔵堂があり、隣りに「山中坂悲歌(エレジ-)」という山中坂の悲劇を叙情的に記した歌碑が作られた
そうです。
普段何気なく通り過ぎているところでも、ちょっと気にしてみると、思わぬ歴史が隠れているかもしれません。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます