資料館を後にして向かったのは武蔵国国分寺(僧寺)跡です。
武蔵国国分寺は奈良時代の天平13年(741年)聖武天皇が全国60余国に国分寺、国分尼寺の建立を命じて造られたものの
一つですが、鎌倉時代末期の元弘3年(1333年)に新田義貞と北条泰家の間で行われた「分倍河原の合戦」で残念ながら焼失。
現在残っているのは礎石だけです。
国分尼寺跡は発掘調査が完全に終わり遺跡公園の中に組み込まれていますが、国分寺跡のほうはまだ発掘調査が一部続い
ているようです。
このテントの部分はまだ発掘調査中なのでしょうか?
次の目的地は今現在残っている武蔵国国分寺です。
1333年に焼失した国分寺跡からちょっと歩いたところに現存の武蔵国国分寺があります。
建武2年(1335年)新田義貞が薬師堂を再建したそうです。
奥に見えるのが薬師堂です。
歴史の重みを感じます。
また、国分寺の境内には「万葉植物園」というのがあります。
これは書かれている通り聖武天皇が命じて造られた国分寺が栄えていたころ編纂された「万葉集」の歌に詠まれている草花を
集めて当時の人々の考え方や生活などを知り、その昔をしのんでほしいと造られたもので約160種が説明版付きで植えられ
ています。
また、この国分寺から小川沿いに続く散策道は「お鷹の道」遊歩道と呼ばれ国分寺駅方面へ続いています。
説明書きによると、国分寺付近が江戸時代に尾張徳川家の鷹狩の狩り場になったのが起源でこの名がついたようです。
ここを流れる小川にはホタルも生息するようです。
武蔵国国分寺は奈良時代の天平13年(741年)聖武天皇が全国60余国に国分寺、国分尼寺の建立を命じて造られたものの
一つですが、鎌倉時代末期の元弘3年(1333年)に新田義貞と北条泰家の間で行われた「分倍河原の合戦」で残念ながら焼失。
現在残っているのは礎石だけです。
国分尼寺跡は発掘調査が完全に終わり遺跡公園の中に組み込まれていますが、国分寺跡のほうはまだ発掘調査が一部続い
ているようです。
このテントの部分はまだ発掘調査中なのでしょうか?
次の目的地は今現在残っている武蔵国国分寺です。
1333年に焼失した国分寺跡からちょっと歩いたところに現存の武蔵国国分寺があります。
建武2年(1335年)新田義貞が薬師堂を再建したそうです。
奥に見えるのが薬師堂です。
歴史の重みを感じます。
また、国分寺の境内には「万葉植物園」というのがあります。
これは書かれている通り聖武天皇が命じて造られた国分寺が栄えていたころ編纂された「万葉集」の歌に詠まれている草花を
集めて当時の人々の考え方や生活などを知り、その昔をしのんでほしいと造られたもので約160種が説明版付きで植えられ
ています。
また、この国分寺から小川沿いに続く散策道は「お鷹の道」遊歩道と呼ばれ国分寺駅方面へ続いています。
説明書きによると、国分寺付近が江戸時代に尾張徳川家の鷹狩の狩り場になったのが起源でこの名がついたようです。
ここを流れる小川にはホタルも生息するようです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます