天竜川と天竜川橋
まず、最初に言いたいのは大瀧詠一が逝ってしまったことだ。
ただ、ただ、残念だ。
聞くだけで幸せな気分になる、素晴らしい曲ばかり。
ご冥福を祈ります。
さて、つづき・・・
一級河川、天竜川は幅の広い、流量の多い川である。
昔は、ここを船で渡ったのは当然なことである。
とても人足が肩車したり、蓮台に乗せて渡す方法ではわたれない。
だが、ここで疑問が湧いた。
大名行列は実際、どうやって渡ったんだろうか?
いちいち渡し船でピストン輸送してたんだろうか?
走りながら考えていた。???
そう疑問が湧くと調べずにいられなくなる。
帰ってきてから調べたら磐田文化財だよりにこう書かれていた。
-------一部抜粋---------------
昔から東海道を遮る大河をいろんな人が苦労して渡ってきました。
古くは、南北朝時代の武将・新田義貞(にったよしさだ)が箱根・竹之下の戦いに敗れ、天竜川に舟の橋を架けて渡りました。そのとき、追っ手を遮るために橋を落とすという当時の常套(じょうとう)手段をとらなかったことが美談やら失敗談などとして語り継がれています。
(中略)
朝鮮通信使の一行も天竜川に舟橋を架けて渡りました。500人もの人たちが天竜川を渡るのですから、渡船では無理だったのかもしれません。このときは、この地方の舟を動員して舟橋を架けたことが記録されています。
明治天皇が京都から東京に向かわれたときにも舟橋が架けられました。
明治天皇東幸の際、天竜川船橋の図
(静岡県史より)
------------------------------
大名行列も船を並べて、その上に板を渡して人などが渡れるようにした舟橋だったんだろうか?
そうだとしたら、あの幅の広い天竜川では何百という船が必要なはずである。
その費用たるや相当なものだろう。
それでなくても費用のかかる大名行列、やはり時間は要するが何艘かの船でピストン輸送だろうか???
更にあちこち調べた。
面白い資料発見→ 《江戸時代、江戸参府(参勤交代)の大名行列は川をどのように渡ったのか》
→ 《船橋はどう造られたか、知恵が生んだ仮橋の全て》
(これは『馬込と大田区の歴史を保存する会』のHP に載っているのだが、実にすばらしいHPである。
時間がある方みてください。
以下、2点そのHPから絵を2点コピペしました。)
大森 六郷渡しから川崎宿に渡る大名行列
仮名:源頼朝(実は徳川家茂)の大井川渡河風景
どうもいろいろな方法で渡っていたようである。
大名としての見栄と藩の台所事情を考えながら渡っていたようだ。
天竜川橋は2本かけられ、一本の古い方は人が歩いたり走ったりしたら狭くて危険である。
歩道がない上に車道も狭く、かつ非常に長い。
トラックがバンバン走る。
大体が誰も歩いてないし、自転車もいない。
歩行者・自転車、通行止めとは全く書かれていない?
思い切って渡ってみようかと思った。
橋の中に入ろうとすると、うしろから車が突っ込んでくる。
まったく、中に入れずじまいなり。
運転してる方からみたら、トロトロ走りの荷を背負った山下清もどきが道幅独占する前に先に行ってしまおうと思うからにちがいない。
おまけに、後ろから車に轢かれ、追い越され、スルメ状態になった自分を想像してしまい、怖くて絶対渡れない。
なんで、こんな狭い橋つくったんだぁ?
当然、回り道して新しいほうの新天竜川橋を渡ることになった。
こちらは、その反作用か歩道がとても広い。
しかも渡りきるまでが超長い。
そこを無想の境地でトコトコはしった。
風がやたらと強くて帽子が飛ばされそうになる。
向こう岸まで誰も歩いている人に会わなかった。
橋を渡ってすぐ左に折れるのだが、そこは横町通りという。
昔の賑わいなど全くなく、ただの土手沿いの道である。
土手から直角に曲がって浜松へ向かうのだが、ここからはほぼ直線である。
国道と合流するまでの間には旧道であった名残が感じられる。
だが、幅広い国道に出会うと、そこからは何の刺激もなく、
その長い直線が単調で実にキツイ!
今回、目的の中に「浜松駅までは、あまり食べずに腹を空かし、駅についたら、どこかでシャワーでも浴びてサッパリしたところで、駅近くのうなぎ八百徳本店で店で最高のウナギを食べる」、というのがあった。
だが、その単調がボディブローのように心身ともにダメージを与えていき、空腹感は極限に達してしまった。
完全にガス欠状態である。
もうたえきれねぇ!
コンビニに駆け込んでしまった。
しかも、お握り100円セール中!
4個のお握りとコーラを購入。
うまいっ!これぞ、日本!
コンビニ脇のベンチで全て食べてしまった。
すでに2個は腹の中へ
オニギリ1個と水少しぐらいにしておけばよかった。
腹2~3分程度にしておけば良かったのだ。
脳天から足のつま先まで炭水化物と糖分と炭酸の満腹感がジワジワ広がった。
もう胃がもたれて、走るスピードはローギア状態。
単調な道が、ますます単調になってウンザリ状態。
最後の方はもう歩くほうが早いスピードである。
それでもようやく、浜松駅着
ウナギ屋に入ろうなんて気持ちゼロ
サッパリ汗流そうなんて気持ちゼロ
ビールさえ飲もうなんて気持ちゼロ
八百徳本店を見るだけでもう腹一杯だった。
もう、早く東京に帰ろう!
(終わり)
当ブログは若者の自立を支援する団体、NPO法人ネイチャーズを応援しています。
NPO法人ネイチャーズは、走Run会名誉会長、ウィンドサーフィンの師匠の山下光哉さんが運営する若者のためのNPO。
悩める若者や親御さん、是非お御問合せください。丁寧に対応してくれると思いますよ。
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まず、最初に言いたいのは大瀧詠一が逝ってしまったことだ。
ただ、ただ、残念だ。
聞くだけで幸せな気分になる、素晴らしい曲ばかり。
ご冥福を祈ります。
さて、つづき・・・
一級河川、天竜川は幅の広い、流量の多い川である。
昔は、ここを船で渡ったのは当然なことである。
とても人足が肩車したり、蓮台に乗せて渡す方法ではわたれない。
だが、ここで疑問が湧いた。
大名行列は実際、どうやって渡ったんだろうか?
いちいち渡し船でピストン輸送してたんだろうか?
走りながら考えていた。???
そう疑問が湧くと調べずにいられなくなる。
帰ってきてから調べたら磐田文化財だよりにこう書かれていた。
-------一部抜粋---------------
昔から東海道を遮る大河をいろんな人が苦労して渡ってきました。
古くは、南北朝時代の武将・新田義貞(にったよしさだ)が箱根・竹之下の戦いに敗れ、天竜川に舟の橋を架けて渡りました。そのとき、追っ手を遮るために橋を落とすという当時の常套(じょうとう)手段をとらなかったことが美談やら失敗談などとして語り継がれています。
(中略)
朝鮮通信使の一行も天竜川に舟橋を架けて渡りました。500人もの人たちが天竜川を渡るのですから、渡船では無理だったのかもしれません。このときは、この地方の舟を動員して舟橋を架けたことが記録されています。
明治天皇が京都から東京に向かわれたときにも舟橋が架けられました。
明治天皇東幸の際、天竜川船橋の図
(静岡県史より)
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大名行列も船を並べて、その上に板を渡して人などが渡れるようにした舟橋だったんだろうか?
そうだとしたら、あの幅の広い天竜川では何百という船が必要なはずである。
その費用たるや相当なものだろう。
それでなくても費用のかかる大名行列、やはり時間は要するが何艘かの船でピストン輸送だろうか???
更にあちこち調べた。
面白い資料発見→ 《江戸時代、江戸参府(参勤交代)の大名行列は川をどのように渡ったのか》
→ 《船橋はどう造られたか、知恵が生んだ仮橋の全て》
(これは『馬込と大田区の歴史を保存する会』のHP に載っているのだが、実にすばらしいHPである。
時間がある方みてください。
以下、2点そのHPから絵を2点コピペしました。)
大森 六郷渡しから川崎宿に渡る大名行列
仮名:源頼朝(実は徳川家茂)の大井川渡河風景
どうもいろいろな方法で渡っていたようである。
大名としての見栄と藩の台所事情を考えながら渡っていたようだ。
天竜川橋は2本かけられ、一本の古い方は人が歩いたり走ったりしたら狭くて危険である。
歩道がない上に車道も狭く、かつ非常に長い。
トラックがバンバン走る。
大体が誰も歩いてないし、自転車もいない。
歩行者・自転車、通行止めとは全く書かれていない?
思い切って渡ってみようかと思った。
橋の中に入ろうとすると、うしろから車が突っ込んでくる。
まったく、中に入れずじまいなり。
運転してる方からみたら、トロトロ走りの荷を背負った山下清もどきが道幅独占する前に先に行ってしまおうと思うからにちがいない。
おまけに、後ろから車に轢かれ、追い越され、スルメ状態になった自分を想像してしまい、怖くて絶対渡れない。
なんで、こんな狭い橋つくったんだぁ?
当然、回り道して新しいほうの新天竜川橋を渡ることになった。
こちらは、その反作用か歩道がとても広い。
しかも渡りきるまでが超長い。
そこを無想の境地でトコトコはしった。
風がやたらと強くて帽子が飛ばされそうになる。
向こう岸まで誰も歩いている人に会わなかった。
橋を渡ってすぐ左に折れるのだが、そこは横町通りという。
昔の賑わいなど全くなく、ただの土手沿いの道である。
土手から直角に曲がって浜松へ向かうのだが、ここからはほぼ直線である。
国道と合流するまでの間には旧道であった名残が感じられる。
だが、幅広い国道に出会うと、そこからは何の刺激もなく、
その長い直線が単調で実にキツイ!
今回、目的の中に「浜松駅までは、あまり食べずに腹を空かし、駅についたら、どこかでシャワーでも浴びてサッパリしたところで、駅近くのうなぎ八百徳本店で店で最高のウナギを食べる」、というのがあった。
だが、その単調がボディブローのように心身ともにダメージを与えていき、空腹感は極限に達してしまった。
完全にガス欠状態である。
もうたえきれねぇ!
コンビニに駆け込んでしまった。
しかも、お握り100円セール中!
4個のお握りとコーラを購入。
うまいっ!これぞ、日本!
コンビニ脇のベンチで全て食べてしまった。
すでに2個は腹の中へ
オニギリ1個と水少しぐらいにしておけばよかった。
腹2~3分程度にしておけば良かったのだ。
脳天から足のつま先まで炭水化物と糖分と炭酸の満腹感がジワジワ広がった。
もう胃がもたれて、走るスピードはローギア状態。
単調な道が、ますます単調になってウンザリ状態。
最後の方はもう歩くほうが早いスピードである。
それでもようやく、浜松駅着
ウナギ屋に入ろうなんて気持ちゼロ
サッパリ汗流そうなんて気持ちゼロ
ビールさえ飲もうなんて気持ちゼロ
八百徳本店を見るだけでもう腹一杯だった。
もう、早く東京に帰ろう!
(終わり)
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