見附宿
この宿は天竜川の関係で足止め客が多かったこともあり、宿自体が結構大きいと感じた。
「見附」の名は、京から来て初めて富士山が見える場所であることから付けられたらしい。
したがって、これ以降は富士山が見えなくなるわけだ。
本陣跡
旧東海道は左折する場所があり、狭い道の直進方向は姫街道という女性用の東海道のう回路である。
縄文時代にまで遡ることができる古道である。
迂回しているのは見附宿と御油宿(愛知県豊川市)を結ぶ間。
ウィキペディアで姫街道を調べると(以下抜粋)
--------------------------------
東海道の新居関所は、女性に対して特に取り調べが厳しいことで有名であった。徳川家康は、江戸への武器流入や諸大名に対する「人質」として江戸に住まわせた大名の妻たちの脱走を防ぐ為に関所を設置したと言われているが、新居関所では江戸へ向かう「入り女」に対しても厳しい取り調べが行われていた。また、当時は男装して関所を抜けようと考える女性も多かったらしく、関所には「女改め」と呼ばれる性別調べを専門に行う女性も常駐していたという。
新居関所の執拗な取り調べを嫌った女性たちが、同所を避けて浜名湖の北側の陸路を通ることになったのが、東海道の脇往還としての「姫街道」の発祥と一般的には言われている。また、東海道の舞阪宿と新居宿間の「今切の渡し」の今切を不吉として、女性が避けるようになったと言う説もあるが、文献として残っている訳ではない。ただ、実際に『姫様』の通行があったことは間違いない。
--------------------------------
徳川吉宗の時代には、ベトナムから献上された象が長崎から江戸までの354里を歩いているが、今切の渡船に乗らずにすむということで姫街道を通っていて、街道の途中の石畳の坂で「象鳴き坂」という名が残っている。
ここも走ったら面白そうな街道である。
機会があったら走ってみよう。
国分寺跡と府八幡宮
磐田駅近くに来たらマラソン大会にであった。
ジュビロ磐田メモリアルマラソン
だまって飛び入り参加して、しばらくランナーと一緒に走ったら、仮装の人も多かったので
リュックを背負った山下清風のオヤジ
が走っても全く違和感がなく、町の人から熱烈な応援を受けた。
さすがにエイドには寄らなかったが・・・。
近代的な磐田駅である。
もとは中泉駅という名だった。
磐田という地名は見附と中泉が一緒になってできた地名である。
この磐田駅には明治大正にかけて人が押す人車鉄道なるものがあった。
中泉軌道という。
このちょっと先で出会うであろう天竜川の上流に久根鉱山という銅山があって、産出する鉱石を帆掛船で天竜川左岸の池田村で陸揚げし、東海道鉄道中泉停車場(現磐田駅)まで陸路輸送する方法としてできたものである。
今回、その面影が旧道沿いで見られないか、注意してみたのだが判らずに過ぎてしまった。
走らずに歩いていたら何らかの痕跡が見られたかもしれない。
走ると観光の部分が大雑把になるのは仕方がないのだ。
豆相人車鉄道(熱海-小田原)の写真
<おまけ>
ちなみに明治から大正初めにかけて、現在の東京都葛飾区内の金町-柴又間に人車鉄道が存在した。
「帝釈人車軌道」である。
街道沿いの酒屋
東京では存在しない風情ある建物だ。
くろん坊様なる祠(ほこら)
磐田化学工業の敷地脇に祀られていた。
昔、金品を奪われ殺されたインド僧を黒坊大権現としてまつっているとのこと。
インド人のお坊さんと言えば、天平時代に日本に初めて?来たインド人僧、菩提僊那(ぼだいせんな)であるが、それ以降の渡来したインド僧の話はあまり聞かない。
菩提僊那(誰かの名作らしいけど、俺個人の印象としては黒くないし、インド人にはみえないね。あくまで、個人見解です。作者の方スミマセン!)
だが、名も知れぬインドのお坊さんが実際ここに来ていたのだから、歴史に埋もれてしまった「昔に来日したインドのお坊さん」は大勢いたのではないか?
そして、このインド僧はこの旧東海道を何が目的で旅していたのだろうか?
目的なんてなかったかもなぁ~。
歩くことで瞑想してたのかもしれないよ。
瞑想といえば、それに関した話をちょっと・・・
最近、医師と僧の対談本(「生きる。死ぬ。」土橋重隆、玄侑宗久)を読んでいてちょっと齧ったオツマミ的知識なんだが、
1. ユングのいう『全宇宙に遍在しているとも言われる集合的無意識』と仏教でいうところの八識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識)のひとつの『阿頼耶識(あらやしき)』が全く対応している
2. 大脳は常に五感から得られた認識を概念化しようとする。→概念に囚われる
(たとえば、川辺で川の音が聞こえても、「サラサラながれている」と言葉を思い浮かべた時点で、意識しないとすぐ聞こえなくなる。)
2. そこへつながるには表面的な意識(大脳の前頭連合野)を離れ、流動(変化)に意識を乗せるて自我意識を飛ばす。
(要するに、前頭葉が対象物を概念化する間もなく、次々と変化してしまうものに集中することで瞑想状態になれる)
3. そうすることが、、人間の表面的な「意識」と、その奥の「無意識」とが、最後は完全に一体化し、受動的ではあるが、自然と生き方への変化につながる。
ということなんだけど、・・・
こうやって旧東海道を走ることで、まさに見るものを概念化する間もなく、次々と変化する非日常的景色をみることは、俺にとって偶然だが、自然な瞑想行為なっているのかもしれないと思った。
(疲労してヘロヘロになったときの話じゃないよ。)
もしかすると俺の曲解であり、間違っているかもしれないけど・・・。
んっまぁ~、旅ランに理屈をこねても仕方ないが、こうやって全てを忘れて走るのは誰のためでもなく、自分のためであり、それが証拠に文句なく実に楽しいのは間違いないことなのだ。
旧東海道の途中で倒れたこのインド僧も歩く目的など関係なく、きっと魂が感動するような歩行禅をしていたに違いないなどと俺なりに勝手に理解し、この小さな祠をみて厳しい修行をしている釈迦のようなインド僧の歩く姿を想像したのだった。
「はるかインドからこの地まで、お坊さん、がんばったんだね。」
という思いで手を合わせた。
すでに営業が破たんし閉店してしまったレストランだが、よくみてみると「金の豚」だった。
よくよく縁のある店舗である。
帰ってきてから調べたらフランチャイズ店みたいだから、成功を夢見てはじめた元オーナーの人は、おそらく今頃厳しい後始末で大変だろう。
そんなことも考えると、がらんどう(伽藍堂)になった店舗は実に物悲しい建物だ。
宮之一色秋葉山常夜灯
中が見たいが全く見えず残念
若宮八幡宮
さあ、もうすぐ天竜川だ!
(つづく)
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NPO法人ネイチャーズは、走Run会名誉会長、ウィンドサーフィンの師匠の山下光哉さんが運営する若者のためのNPO。
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この宿は天竜川の関係で足止め客が多かったこともあり、宿自体が結構大きいと感じた。
「見附」の名は、京から来て初めて富士山が見える場所であることから付けられたらしい。
したがって、これ以降は富士山が見えなくなるわけだ。
本陣跡
旧東海道は左折する場所があり、狭い道の直進方向は姫街道という女性用の東海道のう回路である。
縄文時代にまで遡ることができる古道である。
迂回しているのは見附宿と御油宿(愛知県豊川市)を結ぶ間。
ウィキペディアで姫街道を調べると(以下抜粋)
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東海道の新居関所は、女性に対して特に取り調べが厳しいことで有名であった。徳川家康は、江戸への武器流入や諸大名に対する「人質」として江戸に住まわせた大名の妻たちの脱走を防ぐ為に関所を設置したと言われているが、新居関所では江戸へ向かう「入り女」に対しても厳しい取り調べが行われていた。また、当時は男装して関所を抜けようと考える女性も多かったらしく、関所には「女改め」と呼ばれる性別調べを専門に行う女性も常駐していたという。
新居関所の執拗な取り調べを嫌った女性たちが、同所を避けて浜名湖の北側の陸路を通ることになったのが、東海道の脇往還としての「姫街道」の発祥と一般的には言われている。また、東海道の舞阪宿と新居宿間の「今切の渡し」の今切を不吉として、女性が避けるようになったと言う説もあるが、文献として残っている訳ではない。ただ、実際に『姫様』の通行があったことは間違いない。
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徳川吉宗の時代には、ベトナムから献上された象が長崎から江戸までの354里を歩いているが、今切の渡船に乗らずにすむということで姫街道を通っていて、街道の途中の石畳の坂で「象鳴き坂」という名が残っている。
ここも走ったら面白そうな街道である。
機会があったら走ってみよう。
国分寺跡と府八幡宮
磐田駅近くに来たらマラソン大会にであった。
ジュビロ磐田メモリアルマラソン
だまって飛び入り参加して、しばらくランナーと一緒に走ったら、仮装の人も多かったので
リュックを背負った山下清風のオヤジ
が走っても全く違和感がなく、町の人から熱烈な応援を受けた。
さすがにエイドには寄らなかったが・・・。
近代的な磐田駅である。
もとは中泉駅という名だった。
磐田という地名は見附と中泉が一緒になってできた地名である。
この磐田駅には明治大正にかけて人が押す人車鉄道なるものがあった。
中泉軌道という。
このちょっと先で出会うであろう天竜川の上流に久根鉱山という銅山があって、産出する鉱石を帆掛船で天竜川左岸の池田村で陸揚げし、東海道鉄道中泉停車場(現磐田駅)まで陸路輸送する方法としてできたものである。
今回、その面影が旧道沿いで見られないか、注意してみたのだが判らずに過ぎてしまった。
走らずに歩いていたら何らかの痕跡が見られたかもしれない。
走ると観光の部分が大雑把になるのは仕方がないのだ。
豆相人車鉄道(熱海-小田原)の写真
<おまけ>
ちなみに明治から大正初めにかけて、現在の東京都葛飾区内の金町-柴又間に人車鉄道が存在した。
「帝釈人車軌道」である。
街道沿いの酒屋
東京では存在しない風情ある建物だ。
くろん坊様なる祠(ほこら)
磐田化学工業の敷地脇に祀られていた。
昔、金品を奪われ殺されたインド僧を黒坊大権現としてまつっているとのこと。
インド人のお坊さんと言えば、天平時代に日本に初めて?来たインド人僧、菩提僊那(ぼだいせんな)であるが、それ以降の渡来したインド僧の話はあまり聞かない。
菩提僊那(誰かの名作らしいけど、俺個人の印象としては黒くないし、インド人にはみえないね。あくまで、個人見解です。作者の方スミマセン!)
だが、名も知れぬインドのお坊さんが実際ここに来ていたのだから、歴史に埋もれてしまった「昔に来日したインドのお坊さん」は大勢いたのではないか?
そして、このインド僧はこの旧東海道を何が目的で旅していたのだろうか?
目的なんてなかったかもなぁ~。
歩くことで瞑想してたのかもしれないよ。
瞑想といえば、それに関した話をちょっと・・・
最近、医師と僧の対談本(「生きる。死ぬ。」土橋重隆、玄侑宗久)を読んでいてちょっと齧ったオツマミ的知識なんだが、
1. ユングのいう『全宇宙に遍在しているとも言われる集合的無意識』と仏教でいうところの八識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識)のひとつの『阿頼耶識(あらやしき)』が全く対応している
2. 大脳は常に五感から得られた認識を概念化しようとする。→概念に囚われる
(たとえば、川辺で川の音が聞こえても、「サラサラながれている」と言葉を思い浮かべた時点で、意識しないとすぐ聞こえなくなる。)
2. そこへつながるには表面的な意識(大脳の前頭連合野)を離れ、流動(変化)に意識を乗せるて自我意識を飛ばす。
(要するに、前頭葉が対象物を概念化する間もなく、次々と変化してしまうものに集中することで瞑想状態になれる)
3. そうすることが、、人間の表面的な「意識」と、その奥の「無意識」とが、最後は完全に一体化し、受動的ではあるが、自然と生き方への変化につながる。
ということなんだけど、・・・
こうやって旧東海道を走ることで、まさに見るものを概念化する間もなく、次々と変化する非日常的景色をみることは、俺にとって偶然だが、自然な瞑想行為なっているのかもしれないと思った。
(疲労してヘロヘロになったときの話じゃないよ。)
もしかすると俺の曲解であり、間違っているかもしれないけど・・・。
んっまぁ~、旅ランに理屈をこねても仕方ないが、こうやって全てを忘れて走るのは誰のためでもなく、自分のためであり、それが証拠に文句なく実に楽しいのは間違いないことなのだ。
旧東海道の途中で倒れたこのインド僧も歩く目的など関係なく、きっと魂が感動するような歩行禅をしていたに違いないなどと俺なりに勝手に理解し、この小さな祠をみて厳しい修行をしている釈迦のようなインド僧の歩く姿を想像したのだった。
「はるかインドからこの地まで、お坊さん、がんばったんだね。」
という思いで手を合わせた。
すでに営業が破たんし閉店してしまったレストランだが、よくみてみると「金の豚」だった。
よくよく縁のある店舗である。
帰ってきてから調べたらフランチャイズ店みたいだから、成功を夢見てはじめた元オーナーの人は、おそらく今頃厳しい後始末で大変だろう。
そんなことも考えると、がらんどう(伽藍堂)になった店舗は実に物悲しい建物だ。
宮之一色秋葉山常夜灯
中が見たいが全く見えず残念
若宮八幡宮
さあ、もうすぐ天竜川だ!
(つづく)
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