青木橋
旧東海道はここまでやや南下していたのが、このあたりでやや直角に西へ進む。
大きく迂回するのだが、実は街道沿いに海だった。
その海を埋め立てて、鉄道をひいたり、土地にしたりした。
自然の力は偉大だが、人間の力も結構馬鹿に出来ないものだ。
本覚寺への坂
ここで旧東海道からちょっと離れて、高島台の高台にあがってみた。
石畳の急な坂である。
アメリカ領事館跡(本覚寺内)
かつては、ここから横浜の海が一望できただろうと思う。
領事館の期間は約3年程で、後に横浜へ移動となるその間、本覚寺の僧は退去させられ、御本尊さまは板囲いで覆われ、一般人の立ち入りは禁止されていた。
山門も黒や赤、緑、白などの西洋ペンキで塗られたとのこと。
しかも、払うべき家賃もなかなか払わなかったらしい。
当時の日本人はえらく迷惑しただろう。
考えてみたら、今の沖縄への迷惑と変わらないかもしれない。
生麦事件で切られたイギリス人もここに逃げ込んでいる。
高島台に上がってみたら、景色の良い公園に案内板があった。
案内板に書かれてる高島嘉右衛門は、あの「高島易断」の創始者らしい。
創始者は事業家だったのである。
易学を趣味で学んでいたが、その的中率がたいしたものであったらしく、有名になってしまったとのことである。
事業の成功も易学の影響はあるだろう。
ただ、嘉右衛門は占いは商売にしていなかったとウィキペディアには書いてあった。
「占い」は「売らない」なのだ。
ちょっと、引用すると・・・
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占いそのものを商売とすることを戒めていたとされ、皇典講究所で講演した『神道実用論』の中にそれを表していると言われている一文がある。
「其名巳(すで)に『うらなひ』(不売)と云ふが故に、決して金銀等の礼謝を受けず、実に神易を以て神明に通信するを本分の職務とするときは、始めて神官の名称にも副(かな)ひ、人の信用浅からざるべし。」
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TVに出てくる風変りな占い師と違って、やはり、本物は違うと思った。
高島台から急な坂を下り、旧東海道にもどったところに神奈川台関門(関所)跡があった。
その案内板の写真を拡大すると、昔の様子がわかる。
なんという、小さな関門、なんという幅の狭い道。
(この後のランで実感としてわかったのだが、旧東海道とは立派な幅広い道ではなく、もう家の裏の道であるかのような幅の狭い街道だったということである。
大名行列がとおった街道とは思えないのである。)
しかし、この関所、ずっと壁があるわけじゃないだろうし、脇から簡単に抜けられそう泣きがしますが・・・
山の藪中をかきわけかきわけいけば、行けたんじゃないかと思った。
この後、走っていくと横浜なのに「軽井沢」という名の地名になる。
軽井沢・・・???
しかも、その先を走ると「浅間」という地名になる。
さらにその先には「追分」という分岐点まであった。
これは、もうビックリである。
長野の軽井沢には同じように「軽井沢」「浅間」「追分」があるのである。
ん・ん・ん…わからん???
地名の謎?!誰か教えてくれっ!
実は、その浅間のあたりで道に迷ってしまった。
それが、上記表題の地図である。
地図の緑線のような軌跡で迷ってしまった。
ここは、誰でも間違いやすい場所である。
国土交通省でもらった宿場探訪マップもいい加減に書いてある。
とにかく、道を間違えたら、まずそこで一休みするのが私が登山しているときの定石である。
そこで、近くにあったセブンイレブンでオニギリと飲み物を購入。
道端に腰掛けて、宿場探訪マップをじっくり眺めた。
そして、間違いない場所まで道を戻る。
大きな道路の交差点、「浅間下」に戻り、周囲を見渡したら、旧東海道がわかった。
立派な蔵があったが、質屋だった。
今はやってないようだが、江戸時代からあったのだろうか?
これが、例の「追分」という場所?
さて、この追分のあたりに、とても賑やかな商店街があった。
松原商店街である。
旧東海道は、その商店街のど真ん中を通るのである。
面白いですね。
とても、いい商店街ですね。
我が家の近くにも、こんな商店街がほしいです。
(つづく)
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