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旅ラン「甲州道走膝痛シ」…日本橋~千歳烏山(その1)

2019年03月19日 | 甲州道走膝痛シ(旧甲州街道ランニング)
今日は2月24日の日曜日

初春ですが、まだ肌寒い中、旧甲州街道の旅ランを始めました。

いつものように、最後は適当なところで終えて銭湯に入り、そして居酒屋放浪といういつものプランにて走ります。
背負うザックは着替えと防寒着でデップリと膨らんでいます。
あまり格好よくありませんが、寒くて走れなくなるのは嫌なんで、念には念をと沢山詰め込みました。

頚椎ヘルニアから復活して、まだ間もない旅ランなので超スロージョグです。



日本橋は首都高速道路の日本橋区間約1キロほどが地下化され景観が改善されるそうですね。
しかし、地元の人は金がかかるから「地下化するより外しちまえ!」と言ってるみたいです。

もう車社会じゃないし、3本の首都環状線が出来てきてるから日本橋で降りる車なんか少ないんじゃないかというわけです。

パリでもロンドンでもローマでも、高速道路は郊外だけで街のなかにつくってないから、いらないんじゃないのというのですが、俺も賛成ですね。

もし、いま大地震が起きたら危ないですよ。あれは・・・。



足ごしらえはワラーチです。
ただ、寒いので靴下は履かせてください。
出発時は頭には帽子、手袋、厚めのタイツに羽毛ジャケットという格好。

つい最近、老体に冷えは禁物ですよと主治医に言われたばかりなんです。



旧甲州街道からはチョットだけ外れますが、将門の首塚に寄りました。
吉川英治の将門記を読んでから、いつかここに立ち寄りたいと思っていました。

高層ビル街の中ですが、ここだけ特異なスポットだと感じます。

ボランティアでしょうか、首塚を綺麗に掃除する一般人らしき人もいるし、花を手向ける人、観光客の人もいて、塚でありながら人が絶えず賑やかです。


明治維新以後、朝敵として悪人になってしまった将門ですが、ちょっとばかり戯言を…。



関東近辺を旅ランをしていると平将門ゆかりの場所、神社仏閣が彼方此方に存在していて、民衆に与えたその影響力は相当なものだよなぁ、と感じます。

あの将門記にあるように
侘び人を助け、便りなき者を顧みて、しかして力つくす
という民衆のヒーローとしての姿が将門の真実であったような気がしてなりません。

自分の意見ですけど。

単なる大悪人であるならば、ここまで長い時を経ても人々の心にのこるようなことはなかったのではないでしょうか?

また、将門を征伐した藤原秀郷所縁の神社仏閣も同様に関東には多数あり、とくに大きな神社仏閣が多いような気がするところから、
「将門の庶民のヒーローとしてのイメージを払拭し、逆に秀郷を持ち上げることで、将門=反逆者、悪者、にしなければならなかった」
のではなかろうかと、自分は当時の朝廷側の意図を強く感じます。





朝の高層ビル街は日曜日ということもあり、人気がまったくありません。




お堀も静かです。



日比谷公園内を走ります。


入るとすぐに石垣がありました。

綺麗に組まれた石垣ですが、日比谷見附の石垣です。
江戸城防衛のための「江戸城三十六見附」の一つである日比谷御門の一部です。


日比谷門(写真は、ウィキペディア 江戸城三十六見附より)


図はリタイア男の暇つぶしよりお借りしました。



公園内のこの建物で結婚式をよくみます。
フェリーチェガーデン 日比谷です。


もとは1910年にできた日比谷公園の管理事務所でした。
(東京都有形文化財)


その隣りにガーデンレストラン日比谷サローがあるのですが、脇に何故かトゥクトゥクがおいてありました。


法務省 赤れんが棟(ドイツ・ネオバロック様式の建物)

1階の柱の上の方は、スペインのコルドバのメスキータみたいだなと思いました。

メスキータ


ここから、街道沿いではありますが国会前庭を通りました。
ランニングで皇居のお堀端の半蔵門から桜田門を走る時の道路を挟んで反対側です。

そこに菊花の紋章がついた貴重な建物がありました。

明治24年にできた日本水準原点です。

--------(以下、ウィキペディアの日本水準原点より抜粋)

日本水準原点(にほんすいじゅんげんてん、英語: Japanese datum of leveling)は、日本の水準測量の基準点(ただし、本土から遠く離れた離島の標高を除く。)である。東京都千代田区永田町1丁目にある日本水準原点標庫(にほんすいじゅんげんてんひょうこ)という建物の中にある。

--------


山の標高〇〇〇〇mという高さもココが基準なのですね。
山を愛する者たちのシンボル的な建物なのでした。


その内部構造です。

因みに、今この水準原点は平均海面からの高さ(標高)は24m41cm40mmだそうです。

詳細は国土地理院の高さの基準というページ、および日本水準原点をご存知ですか?というPDFをご覧ください。



その原点と向かい合わせに時計塔が建っていました。
高さは31.5m。

三権分立を象徴していますが、特にその高さに意味があるようです。



--------以下、その説明板にこうありました。

この時計塔は、尾崎記念会館(現憲政記念館)建設時に、その施設の一環として、塔前面の噴水池・花壇とともに設計され、昭和35年(1960)7月に完成した。
三面塔星型は、立法・行政・司法の三権分立を象徴したものである。また、塔の高さは、「百尺竿頭一歩を進む」ということわざの努力の上にさらに努力して向上するの意味から、百尺(30.3メートル)より高くした31.5メートルに設定された。
時計は、時間を厳守した尾崎行雄を称えてスイスから贈られたものであったが、現在は国産のものに改修されている。
チャイムは、10時・13時・17時・22時の4回鳴動する。これは、衆議院、参議院の会議開会時刻と退庁、就寝時を標準にしたもので、その音響は静寂時には5キロメートル周囲に響き渡った。
--------


調べたら百尺竿頭一歩を進むは禅語でした。

百尺の竿(さお)の先に達しているが、なおその上に一歩を進もうとする。すでに努力・工夫を尽くしたうえに、さらに尽力すること、また、十分に言を尽くして説いたうえに、さらに一歩進めて説くことのたとえだそうです。(デジタル大辞泉より)

一方、
百尺と言えば、一昔前の1920年に百尺規制法という主要都市の建築物の高さ制限規制法があったようなのですが、この塔の立った1960年頃は百尺規制法により、東京の都市は9階建て程度の高さのビルが揃った整然とした綺麗な街並みでした。


百尺規制時代の東京都・丸の内(1960年頃)…ウィキペディア、日本の超高層建築物より

ですが、1968年は東京オリンピックです。

建築ラッシュでしたから、政治も建物も百尺を越えて、世界に冠たる国家を目指そうという雰囲気があったように思います。

そんな意気込みを感ずる時計台なのでした。

(実際に1970年建築基準法改正によって絶対高さ制限が撤廃されました。)



直ぐ近くにあった憲政記念館の尾崎行雄像



さて、甲州街道は半蔵門で直角に曲がります。

(つづく)



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