博物館の庭にて
次に向かったのは統一会堂のすぐそばにある戦争証跡博物館である。
絶対に行こうと決めていた場所である。
ベトナムに来たらベトナム戦争のことを知る必要があると思っていた。
1960年から1975年、俺が5歳から20歳までの間に起きた戦争である。
正直なところ、その頃、団塊世代からはずれた世代の俺は何の政治性をもたない、べ平連も知らない、アメリカかぶれでもなく、ただのノンポリ若造だった。
高校、大学とそうしたことに関心をもち、活動している友人もいたが、俺には全くの他人事であったように思う。
だから、ようやくこの歳になって、知ってみたいと思うようになった。
ところが不思議な事であるが、戦争証跡博物館に日本人観光客は皆無に近かったのである。
欧米人ばかりの腑に落ちない景色なのだった。
たまたま、その時だけ、そうだったのかもしれないし、もしかすると日本人には人気のない観光施設なのかもしれない。
だがそれにしても、豪華な施設の統一会堂にはあれだけの日本人がいて、道一本隔てた、すぐとなりの戦争証跡博物館には殆どいないのは不思議だった。
JTBもHISも皆無だった。
たしかに目を覆いたくなるような悲惨なパネル、記録、ホルマリン漬けの奇形胎児など、衝撃的な戦争の生々しい展示物ばかりなのだが、・・・
たしかに、お年寄りにはキツイかもしれないけど、若い人には見てもらいたい施設である。
展示物が強烈過ぎて、たしかに疲れるが、右翼化傾向にある今の日本にあって、この歴史的事実は他人事として済む話ではないのだ。
写真は数枚しか撮れなかった。
それ以上は、何故かシャッターを押せなかった。
シャッターを押すこと自体が自分でも意味不明だが申し訳ない気持ちになり、全くその気になれなかったのである。
施設の外には『トラの檻』と呼ばれる牢獄の再現展示があった。
南ベトナム政府に反対する人々に厳しい拷問が課せられたのである。
これまた、衝撃的であり、戦争だけは避けなければならないという思いを更に強くしたのだった。
さて、ここから市内バスで今回行ってみたいと思っていた店、カニ料理のQUAN94へ向かった。
この店で、ソフトシェルクラブ、他のカニづくし料理を食べようと思ったのだ。
そしてバスの利用方法をマスターしたかった。
(歩けば50分くらいの距離だと思う。)
まずは日本から持参した地図上で現在地を確認する。
QUAN94は予め地図に印をつけていた。
だが、何行きのバスにのったらよいか全くわからない。
実はネット上でホーチミンのバス路線図を入手できるのだが、そのときはその存在を知らなかったのである。
まずは、バス停さがしなのだが、バス停は明らかにバス停だと解るものだけでなく、日本のバス停のような小さなものもある。
(大きなバス停)
それが、これだ
(小さなバス停、日本のバス停とは大違いだ。消火栓の場所かと勘違いする。)
あちらのバスは一人でボーっとしてると通過してしまう。
バスの運転手の目を見て、「乗せてくれ!」とガンを飛ばしたり、手を挙げたりしなければならない。
最初はわからないものだから、なんとなく地図をみたりしているとバスが次々通過する。
ベトナム人をみていて、それがわかった。
まず、QUAN94の店の方に走っているんじゃないかと思われるバスに乗る。
行先はなんだかわからないが、適当に乗った。
車掌のいるバスだった。
のると車掌が切符を売るためにやってきた。
なんだか、車掌が俺にむかって猛烈な勢いで喋っているが全く分からない。
何か言っているのだが、全く耳には入らず、車掌がスローモーションで口をパクパクしているように見えた。
英語は全く通じなかった。
地図を見せて目的地の近くの交差点を指さす。
『○○ドン払え』と言ってるみたいだったけど、本当にわからない。
とりあえず1万ドン払ってみた。
切符とおつり5000ドンの返却。
なんか、言われているがサッパリわからない。
もう、不安、不安、不安だった。
(このとき、まったく心の余裕がなく、写真や動画を撮ることを完全に忘れていた。)
そんな中でも感心し、よく覚えていたのだが、車掌は新しくのってくる客を全部覚えているのだ。
その客に対して一人ひとり集金にいくのだが、客はバラバラに座ってしまうから、数人ならともかく10人近くになると瞬時の記憶力がないとタダ乗りされてしまうのだ。
だが、必ず覚えているのである。
車掌に俺の降りる場所教えてもらいたかったが、忙しそうで聞ける雰囲気ではなかった。
とにかく、必死で外の景色を眺めていた。
QUAN94の近くの交差点にベトナム航空があるらしいから、その看板が見えたら降りることに決めていたのである。
だが、ベトナム語の看板はどれを見ても同じにみえてしまう。
発音記号みたいな文字が、俺の頭のなかでイナゴの大群のように交錯していた。
だから、文字は無視し、藍色の下地にハスの花のベトナム航空の看板を必死で探した。
景色の中からもぐらたたきのように藍色のものだけを必死で探した。
なお、降りるときは事前に車掌に声を掛けるか、出口で待機しなければならない。
(降車ボタン付きのバスもある。)
だが、全然、ベトナム航空がわからないのだ。
多分、もう通過してしまっただろうと判断し、適当なところで他の人と一緒に下車した。
今度は、道路の反対側のバスに乗る。
次は間違えたくないから作戦変更である。
バスが来るまでにバス停のベンチに座りながら、行きたいところの地図マンガをスケッチブックに書いた。
(それと事前に「ココに行きたい。どこのバス停でおりたらいいか?」という日本語をベトナム語ではどう書くのか、グーグル翻訳で調べておいたのだ。)
ヒッチハイクの時にやる、あの方法である。
車掌は忙しそうで悪いから、うしろの席のオバちゃんにマンガをみせて聞く。
身なりがよさそうな、年配の女性だった。
何か言ってるが全くわからない。
その隣の男性と何か話していた。
たぶん、「これは○○バス停で降りればいいのよね?」とか、なんとか話しているに違いない。
大きな交差点のたびにジェスチャーした。
交差点とマンガを指さし、『ココはここか?』
(おばちゃん、「ホン!ちがうよ」と首を振る。)
その繰り返しである。
目的地の近くにきたら、ここで降りろと教えてくれた。
カムオン!
(オバちゃん、ありがとう。)
下りるときにオバちゃんに日本から持参した手毬型の和製キャンディを5個ほど渡した。
(あの時のオバちゃんの笑顔が忘れられない。
写真とりたかったけど、自分が必死だったから、無理だったなぁ・・・。)
さてさて、下りたのはがいいが、ココがどこだかわからない。
通りがかりの学生らしき女性に地図を広げて現在地を指さしてもらう。
地面と地図を指さし、「ココは地図上のどこですか?」ともう、必死な100%の日本語である。
だが、彼女は英語が堪能だった。
(かえって此方が困り、俺は典型的愛想笑いの日本人になってしまった。
コンプレックスを猛烈に感じた。
学生の時に英語はちゃんと勉強すればよかった。)
ドッと汗が出た
だが、ちゃんと目的地の近くに降りたようだった。
店は2軒あった。
どっちが本物かわからないから、入りやすいほうの店にはいったけれど、親戚同士の店らしい。
まずはタイガーの缶ビールとソフトシェルクラブ、カニのスープを注文した。
(スープの写真は撮り忘れたので他人のを借用)
実に旨い!!!
なんとも形容の仕様がない旨さだ。
(値段も2品で1000円しなかったと思う。)
パクチーや青唐辛子と一緒に食べるともっと旨い。
だから、もう一本、ビールを飲んだ。
うっ、旨い
もう、止まらない、ニュートンのビールの惰性の法則が・・・
さらに、もう一本
次に何かカニ料理を注文したかったけど、ビールでお腹が一杯になってしまった。
今回の旅では、これで結構失敗している。
旅のビールは一本にすべきなのだ。
次回の旅はビール一本の法則を守ろうと思う。
(つづく)
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次に向かったのは統一会堂のすぐそばにある戦争証跡博物館である。
絶対に行こうと決めていた場所である。
ベトナムに来たらベトナム戦争のことを知る必要があると思っていた。
1960年から1975年、俺が5歳から20歳までの間に起きた戦争である。
正直なところ、その頃、団塊世代からはずれた世代の俺は何の政治性をもたない、べ平連も知らない、アメリカかぶれでもなく、ただのノンポリ若造だった。
高校、大学とそうしたことに関心をもち、活動している友人もいたが、俺には全くの他人事であったように思う。
だから、ようやくこの歳になって、知ってみたいと思うようになった。
ところが不思議な事であるが、戦争証跡博物館に日本人観光客は皆無に近かったのである。
欧米人ばかりの腑に落ちない景色なのだった。
たまたま、その時だけ、そうだったのかもしれないし、もしかすると日本人には人気のない観光施設なのかもしれない。
だがそれにしても、豪華な施設の統一会堂にはあれだけの日本人がいて、道一本隔てた、すぐとなりの戦争証跡博物館には殆どいないのは不思議だった。
JTBもHISも皆無だった。
たしかに目を覆いたくなるような悲惨なパネル、記録、ホルマリン漬けの奇形胎児など、衝撃的な戦争の生々しい展示物ばかりなのだが、・・・
たしかに、お年寄りにはキツイかもしれないけど、若い人には見てもらいたい施設である。
展示物が強烈過ぎて、たしかに疲れるが、右翼化傾向にある今の日本にあって、この歴史的事実は他人事として済む話ではないのだ。
写真は数枚しか撮れなかった。
それ以上は、何故かシャッターを押せなかった。
シャッターを押すこと自体が自分でも意味不明だが申し訳ない気持ちになり、全くその気になれなかったのである。
施設の外には『トラの檻』と呼ばれる牢獄の再現展示があった。
南ベトナム政府に反対する人々に厳しい拷問が課せられたのである。
これまた、衝撃的であり、戦争だけは避けなければならないという思いを更に強くしたのだった。
さて、ここから市内バスで今回行ってみたいと思っていた店、カニ料理のQUAN94へ向かった。
この店で、ソフトシェルクラブ、他のカニづくし料理を食べようと思ったのだ。
そしてバスの利用方法をマスターしたかった。
(歩けば50分くらいの距離だと思う。)
まずは日本から持参した地図上で現在地を確認する。
QUAN94は予め地図に印をつけていた。
だが、何行きのバスにのったらよいか全くわからない。
実はネット上でホーチミンのバス路線図を入手できるのだが、そのときはその存在を知らなかったのである。
まずは、バス停さがしなのだが、バス停は明らかにバス停だと解るものだけでなく、日本のバス停のような小さなものもある。
(大きなバス停)
それが、これだ
(小さなバス停、日本のバス停とは大違いだ。消火栓の場所かと勘違いする。)
あちらのバスは一人でボーっとしてると通過してしまう。
バスの運転手の目を見て、「乗せてくれ!」とガンを飛ばしたり、手を挙げたりしなければならない。
最初はわからないものだから、なんとなく地図をみたりしているとバスが次々通過する。
ベトナム人をみていて、それがわかった。
まず、QUAN94の店の方に走っているんじゃないかと思われるバスに乗る。
行先はなんだかわからないが、適当に乗った。
車掌のいるバスだった。
のると車掌が切符を売るためにやってきた。
なんだか、車掌が俺にむかって猛烈な勢いで喋っているが全く分からない。
何か言っているのだが、全く耳には入らず、車掌がスローモーションで口をパクパクしているように見えた。
英語は全く通じなかった。
地図を見せて目的地の近くの交差点を指さす。
『○○ドン払え』と言ってるみたいだったけど、本当にわからない。
とりあえず1万ドン払ってみた。
切符とおつり5000ドンの返却。
なんか、言われているがサッパリわからない。
もう、不安、不安、不安だった。
(このとき、まったく心の余裕がなく、写真や動画を撮ることを完全に忘れていた。)
そんな中でも感心し、よく覚えていたのだが、車掌は新しくのってくる客を全部覚えているのだ。
その客に対して一人ひとり集金にいくのだが、客はバラバラに座ってしまうから、数人ならともかく10人近くになると瞬時の記憶力がないとタダ乗りされてしまうのだ。
だが、必ず覚えているのである。
車掌に俺の降りる場所教えてもらいたかったが、忙しそうで聞ける雰囲気ではなかった。
とにかく、必死で外の景色を眺めていた。
QUAN94の近くの交差点にベトナム航空があるらしいから、その看板が見えたら降りることに決めていたのである。
だが、ベトナム語の看板はどれを見ても同じにみえてしまう。
発音記号みたいな文字が、俺の頭のなかでイナゴの大群のように交錯していた。
だから、文字は無視し、藍色の下地にハスの花のベトナム航空の看板を必死で探した。
景色の中からもぐらたたきのように藍色のものだけを必死で探した。
なお、降りるときは事前に車掌に声を掛けるか、出口で待機しなければならない。
(降車ボタン付きのバスもある。)
だが、全然、ベトナム航空がわからないのだ。
多分、もう通過してしまっただろうと判断し、適当なところで他の人と一緒に下車した。
今度は、道路の反対側のバスに乗る。
次は間違えたくないから作戦変更である。
バスが来るまでにバス停のベンチに座りながら、行きたいところの地図マンガをスケッチブックに書いた。
(それと事前に「ココに行きたい。どこのバス停でおりたらいいか?」という日本語をベトナム語ではどう書くのか、グーグル翻訳で調べておいたのだ。)
ヒッチハイクの時にやる、あの方法である。
車掌は忙しそうで悪いから、うしろの席のオバちゃんにマンガをみせて聞く。
身なりがよさそうな、年配の女性だった。
何か言ってるが全くわからない。
その隣の男性と何か話していた。
たぶん、「これは○○バス停で降りればいいのよね?」とか、なんとか話しているに違いない。
大きな交差点のたびにジェスチャーした。
交差点とマンガを指さし、『ココはここか?』
(おばちゃん、「ホン!ちがうよ」と首を振る。)
その繰り返しである。
目的地の近くにきたら、ここで降りろと教えてくれた。
カムオン!
(オバちゃん、ありがとう。)
下りるときにオバちゃんに日本から持参した手毬型の和製キャンディを5個ほど渡した。
(あの時のオバちゃんの笑顔が忘れられない。
写真とりたかったけど、自分が必死だったから、無理だったなぁ・・・。)
さてさて、下りたのはがいいが、ココがどこだかわからない。
通りがかりの学生らしき女性に地図を広げて現在地を指さしてもらう。
地面と地図を指さし、「ココは地図上のどこですか?」ともう、必死な100%の日本語である。
だが、彼女は英語が堪能だった。
(かえって此方が困り、俺は典型的愛想笑いの日本人になってしまった。
コンプレックスを猛烈に感じた。
学生の時に英語はちゃんと勉強すればよかった。)
ドッと汗が出た
だが、ちゃんと目的地の近くに降りたようだった。
店は2軒あった。
どっちが本物かわからないから、入りやすいほうの店にはいったけれど、親戚同士の店らしい。
まずはタイガーの缶ビールとソフトシェルクラブ、カニのスープを注文した。
(スープの写真は撮り忘れたので他人のを借用)
実に旨い!!!
なんとも形容の仕様がない旨さだ。
(値段も2品で1000円しなかったと思う。)
パクチーや青唐辛子と一緒に食べるともっと旨い。
だから、もう一本、ビールを飲んだ。
うっ、旨い
もう、止まらない、ニュートンのビールの惰性の法則が・・・
さらに、もう一本
次に何かカニ料理を注文したかったけど、ビールでお腹が一杯になってしまった。
今回の旅では、これで結構失敗している。
旅のビールは一本にすべきなのだ。
次回の旅はビール一本の法則を守ろうと思う。
(つづく)
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