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旧東海道ランニング「東海道走膝痛シ」・・・島田~浜松・その2(SLが走る町・金谷)

2013年11月26日 | 東海道走膝痛シ(旧東海道ランニング)
最初のうちは、1か月前のしまだ大井川マラソンと同じコースである。

あの時のスタート出だしの息苦しさを思い出した。
もしかして、調子いいかもしれないからと、5時間ペースランナーの後ろを走った。

だが、空気を吸い込みペースランナーを追いかけるのに必要な酸素量を懸命に摂取しようとしても、肺の細胞に酸素がスムースに浸み込まないのだ。
このまま走ったら10キロももたない。
あまりに息苦しくていきなり歩き出してしまった。
その歩き出した場所を写真に撮った。


煙突は東海製紙のもの。

ありゃ、ペースランナーちょっとハヤクネェ?


道端じゃ、こんな変な道端の無人販売所があったけど、ヒィヒィ苦しくて、そんなことも気づく余裕などなかった。
(なんと売っているのが、右から
榊?、手作り冷凍餃子(真ん中の冷蔵庫の中にある)?、猫ちゃんのマタタビ?
という実にチグハグな奇妙奇天烈な組み合わせ?)

だから、コース上に立ち並ぶ、こんな川越し人足たちの遺跡さえ何も見れなかった。



とりあえず、遺跡の中に入り人足達に挨拶


 

こんな立派な博物館もコース脇にあったらしいが、レース中は全く気づかなかった。


ここから、すぐ大井川の土手にでるのだが、その時の景色がコレである。


実に爽快、山紫水明、風光明媚ってやつなんだが、その時は乱れきった呼吸を平常にもどさんと、道路のひび割れた灰色の網目模様しか見てなかった。

あの大会の反省はここまでとして、
旧東海道は江戸時代なら、ここより川越し人足たちに運ばれて対岸に渡るのだが、当然、人足たちはいないわけで、離れた大井川橋まで行き大きく迂回しなければならない。

(旧東海道は表題写真を右に大井川橋へ、マラソン大会は左に行く。)


この大井川橋には多分もともと歩道がなく、あとから橋に継ぎ足して作られたものと思われ、付け足した様に橋の外に歩道がある。

 

橋の上からみると島田側は綺麗に観光整備されているのがわかる。
遺跡が残されたり博物館があったりするのだが、反対側の金谷には荒れた河原(上の右写真)があるのみで何もなく、まるでガンジス川のバラナシのように「人が大勢住む観光地化された岸(この世)」と「人気のない荒地の対岸(彼岸)」の観である。

ところで、江戸時代に何故橋をかけたり船で渡らなかったのか?
川は幅こそ広いが浅瀬であり、橋を架けるのは容易にみえる。
また、船ならば船頭一人で何人も渡れる・・・。
渡るのに人が担ぐなんて???
そんな疑問が浮かんできた。

帰ってきてから調べたら、

川越しkotobankより抜粋)

旅行者は自分かってに河川を渡ることを禁じられ,道中奉行所により定められた越立場から一定の賃銭を支払って渡らなければならなかった。ただし公用旅行者で将軍の朱印状,老中の証文などを持参する者は無賃で,一般旅行者は水の深浅によって御定賃銭(公定賃銭)を払い渡河した。

あえて、関所を設けるがごと川越し制度をつくり、幕府の戦略的防御としたわけである。
江戸を中心にした地域が城ならば、大井川は天然の堀みたいなものだ。


そして対岸(金谷側)の旧東海道入り口がこれ↓


だが、なんの案内板もない。
気を付けなければ旧東海道とはわからない道である。

金谷側の人たちは旧東海道になんの興味もないのだろうか?
観光地化した島田とは大違いである。

河岸そばの街並みも、この辺が川越しの遺跡があっただろうと思われる場所に何もなく、ただ、家々では干し柿なんかを干していたりして、なんとなく落ち着いた雰囲気ではある。



そんなことを感じていたら、踏切が見えてきた。
そういえば大井川本線の新金谷駅が近い。
そして、なんだか、聞いたことのある音が・・・。

そう、蒸気機関車、SL

もう、夢中で踏切まで駆け寄り、なんとか動画を撮りたかったんですが焦ってしまい、操作にアタフタ。
ただの写真とあいなりました。

以下の写真を一枚ずつ目に残像を残しながら、下の写真に移動してください。
パラパラ漫画のように
SLの動画を見た気になります。
音は想像してください。


  

  

  

  


大井川鉄道でSLが走っているのは知っていたが、一日1本の運行だという。
なんという偶然!



そして、走ってみたからこそ実感出来るのだが、金谷という宿場町はかなり大きいことがわかったのだった。
川越しについての遺跡などは残っていないが、町自体は島田以上に大きいように感じた。
島田は川越し遺跡だけが東海道の名残を残していて宿場町としての名残は殆ど感じなかったが、金谷は町全体に東海道の名残があるように感じた。
島田宿同様、増水で大井川の川越が禁止されると、旅客が足止めになるわけだから、金谷宿は賑やかだったことが想像される。

金谷の人は旧東海道の古き良きものを「川越し」よりも、「町なみ全体」を大事にしていたのだ。

金谷は、牧之原台地が迫る狭隘な場所にあるので、あらゆるところ坂の町である。
京の方向へ走ると、ずっと登り坂ばかりなのだ。


常夜灯


こうじ屋

金谷の駅までは緩やかな坂だが、駅からは急登の坂になり、途中から石畳になる。

街道の難所だったらしい。

(つづく)



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