帰国者の自宅隔離期間が昨日までで終わりました。
隔離期間中は意外にキツイです。
外に出られないというストレスと、スマホを通して在宅確認報告(現在地の報告)、健康状態報告が何度も鳴るのですが、ウンザリするほど嫌になりました。
でも、コロナ発症もなく、一安心です。
早速、明日は飲み会を入れてます。
さて、今日からタイトルの表現方法を改めました。
でないと今までの方法ではすべてタイトルが同じに見えてしまい、何が書かれているのか最後までタイトルを読まないと一目でわかりません。
英語式ですね。
さて、今回は2020年10月7日です。
奈良井宿から藪原j宿、宮ノ越宿を経て中仙道中間地点までJOGです。
その近くの日義木曽高原バス停から高速バスで帰京する予定です。
民宿いかりやの奥さんが帰り際に手作りのススキとシュロ?の葉で編んだバッタのお土産をくれた。
一見すると本物にしか見えないほど見事にできている。
実際、これを妻が見てキャッ―!と叫びました(笑)
民宿いかりやの『おもてなし』の心です。
ザックのサイドポケットに大事にしまって持ち帰りました。
民宿いかりやさん、どうもありがとうございました。
かんたん自然遊び【夏】シュロの葉っぱで、まるで本物!?バッタを作ろう
奈良井宿から藪原宿へ(旧中仙道ラン)
奈良井宿の鎮神社を過ぎると旧中仙道は急に山道になり、石畳道となります。
奈良井宿の石畳
道祖神
近くに展望台があるというので急な坂を登り行ってみたが何も見えず
展望台を改築しているようで工事現場のような様でした。
葬沢の木橋(谷は深い)
鳥居峠の合戦で敗れた武田勝頼方の戦死者500余名をこの谷に葬ったそうです。
戦国時代は敵方の死者については野山に捨て置くこと(野ざらし)が多く、民百姓が武具や衣類をはぎ取ってしまったため、裸のままの死体はカラスの餌食になることが多かったようです。
したがって、すぐに死体処理は自然の鳥葬になっていたみたいです。
さらに、日本の雨は酸性雨なので死体の分解も早くすすんだと思われます。
ここも周辺の農民が処理に困って、深い沢に放り投げたのでしょうね。
鳥居峠の一里塚(日本橋から65里目)
休憩所
鳥居峠(標高1197m)
子宝の栃
---------(木祖村自然同好会編著 『木曾路 鳥居峠』より抜粋)
根元に大きな空洞のあるトチノキを「子産みの栃」といっています。昔、その中に捨て子があって、子宝に恵まれない村の人が育てて幸せになったと言い伝えられてきました。また、その木の皮を煎じて飲むと子宝に恵まれるともいわれます。長い間に朽ちて倒れる木もあるので、現在のものは、昭和の初めから数えて3代目になります。
---------
この辺りはトチノキの巨木が多く群生していました。
鳥居峠には句碑があり、
「ひばりより 上にやすろう峠かな」
そしてトチノキ群にも句碑があります。
「木曽の栃 うき世の人の土産かな」
正直なところ、意味はよくわかりません。
鳥居峠 御嶽神社
北から木曽路に入り、初めて御岳山を望むことのできる場所としてできた神社
御嶽神社にて
御嶽手洗水鉢
義仲硯水
---------木曽路、義仲の硯水より抜粋
義仲の硯水とは、義仲が京都に進軍途中で鳥居峠に差し掛かった際、日頃から信仰していた御嶽神社の遥拝所があった為、戦勝祈願を奉納する為に、大夫坊覚明に願書を認したためさせる際、利用した清水の事です。当時は清水(硯水)の近くに大きな柳の木があったので、義仲はその枝を1本引きちぎって、その清水の傍に突き刺すと、私の平家打倒の念願が成就した際には、この枝が根付き、元の柳の木より大きく成長するだろう、と高らかに宣言したそうです。
義仲は平家を京都から追い出し、一時朝廷を掌握しましたが、その後、源頼朝との確執から追討を受け、さらに朝廷も頼朝側に転じた為、四面楚歌となり、討ち取られたとも自刃したとも云われています。義仲の夢とは異なり、硯水近くに差した柳の枝は根付き、大きく成長し近年まであったとも云われています。
---------
街道に張り出した供養塔(文化年間建立、経塚牛馬供養塔)
坂ノ下沢沿いの復元石畳
石が綺麗に平らなので歩きやすいです。
当ブログは若者の自立を支援する団体、NPO法人ネイチャーズを応援しています。
NPO法人ネイチャーズは、走Run会名誉会長、ウィンドサーフィンの師匠の山下光哉さんが運営する若者のためのNPO。
悩める若者や親御さん、是非お御問合せください。丁寧に対応してくれると思いますよ。
当ブログはボランティア団体不登校・ひきこもりの親の会 FIRST STEPを応援しています。
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外に出られないというストレスと、スマホを通して在宅確認報告(現在地の報告)、健康状態報告が何度も鳴るのですが、ウンザリするほど嫌になりました。
でも、コロナ発症もなく、一安心です。
早速、明日は飲み会を入れてます。
さて、今日からタイトルの表現方法を改めました。
でないと今までの方法ではすべてタイトルが同じに見えてしまい、何が書かれているのか最後までタイトルを読まないと一目でわかりません。
英語式ですね。
さて、今回は2020年10月7日です。
奈良井宿から藪原j宿、宮ノ越宿を経て中仙道中間地点までJOGです。
その近くの日義木曽高原バス停から高速バスで帰京する予定です。
民宿いかりやの奥さんが帰り際に手作りのススキとシュロ?の葉で編んだバッタのお土産をくれた。
一見すると本物にしか見えないほど見事にできている。
実際、これを妻が見てキャッ―!と叫びました(笑)
民宿いかりやの『おもてなし』の心です。
ザックのサイドポケットに大事にしまって持ち帰りました。
民宿いかりやさん、どうもありがとうございました。
かんたん自然遊び【夏】シュロの葉っぱで、まるで本物!?バッタを作ろう
奈良井宿から藪原宿へ(旧中仙道ラン)
奈良井宿の鎮神社を過ぎると旧中仙道は急に山道になり、石畳道となります。
奈良井宿の石畳
道祖神
近くに展望台があるというので急な坂を登り行ってみたが何も見えず
展望台を改築しているようで工事現場のような様でした。
葬沢の木橋(谷は深い)
鳥居峠の合戦で敗れた武田勝頼方の戦死者500余名をこの谷に葬ったそうです。
戦国時代は敵方の死者については野山に捨て置くこと(野ざらし)が多く、民百姓が武具や衣類をはぎ取ってしまったため、裸のままの死体はカラスの餌食になることが多かったようです。
したがって、すぐに死体処理は自然の鳥葬になっていたみたいです。
さらに、日本の雨は酸性雨なので死体の分解も早くすすんだと思われます。
ここも周辺の農民が処理に困って、深い沢に放り投げたのでしょうね。
鳥居峠の一里塚(日本橋から65里目)
休憩所
鳥居峠(標高1197m)
子宝の栃
---------(木祖村自然同好会編著 『木曾路 鳥居峠』より抜粋)
根元に大きな空洞のあるトチノキを「子産みの栃」といっています。昔、その中に捨て子があって、子宝に恵まれない村の人が育てて幸せになったと言い伝えられてきました。また、その木の皮を煎じて飲むと子宝に恵まれるともいわれます。長い間に朽ちて倒れる木もあるので、現在のものは、昭和の初めから数えて3代目になります。
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この辺りはトチノキの巨木が多く群生していました。
鳥居峠には句碑があり、
「ひばりより 上にやすろう峠かな」
そしてトチノキ群にも句碑があります。
「木曽の栃 うき世の人の土産かな」
正直なところ、意味はよくわかりません。
鳥居峠 御嶽神社
北から木曽路に入り、初めて御岳山を望むことのできる場所としてできた神社
御嶽神社にて
御嶽手洗水鉢
義仲硯水
---------木曽路、義仲の硯水より抜粋
義仲の硯水とは、義仲が京都に進軍途中で鳥居峠に差し掛かった際、日頃から信仰していた御嶽神社の遥拝所があった為、戦勝祈願を奉納する為に、大夫坊覚明に願書を認したためさせる際、利用した清水の事です。当時は清水(硯水)の近くに大きな柳の木があったので、義仲はその枝を1本引きちぎって、その清水の傍に突き刺すと、私の平家打倒の念願が成就した際には、この枝が根付き、元の柳の木より大きく成長するだろう、と高らかに宣言したそうです。
義仲は平家を京都から追い出し、一時朝廷を掌握しましたが、その後、源頼朝との確執から追討を受け、さらに朝廷も頼朝側に転じた為、四面楚歌となり、討ち取られたとも自刃したとも云われています。義仲の夢とは異なり、硯水近くに差した柳の枝は根付き、大きく成長し近年まであったとも云われています。
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街道に張り出した供養塔(文化年間建立、経塚牛馬供養塔)
坂ノ下沢沿いの復元石畳
石が綺麗に平らなので歩きやすいです。
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