旧東海道をひたすら真っ直ぐいくと、京次西というあたりで街道が突然行き止まりになる。
高架道路が道をふさいでいるのだ。
丁度、国道1号線にもどる辺りである。
この高架道路が国道1号線だと俺は勘違いした。
が、それは県道31号線だったのだ。
だが、気が付かずにドンドン走ってしまった。
なにせコンビニがみえたから、そこで休憩したかった。
コンビニがみえたから、東海道だと都合の良いほうに考えてしまった。
でも、まわりの景色がなんとなくおかしい。
畑のむこうに屋敷森が見える。
だが、旧東海道なら屋敷は道沿いのはず?
冷静に地図とコンパスを見比べて考え、行き止まりだったところへ戻った。
旧東海道は県道で寸断されていたのである。
したがって、県道沿いに迂回して高架線の下をくぐり、寸断された旧東海道へ戻るのが正解である。
道は国1から旧東海道にまた入る。
国府(こう)町と呼ばれるあたりだ。
半増坊大権現と書かれた石柱の上に、注連縄(しめなわ)を付けた小さな社が 祀られていた。
これは一体なんだろうか?
そこから、すぐ先に立派な秋葉山常夜灯があった。
寛政十二庚申(1800年)に、国府村民達で建立したものだそうだ。
面白い看板だから撮ってみた。
乳母車店なんてあるんだね。
このうば車の看板から、興味深いことが判った。
乳母車を初めて作ったのは愛知県の鬼頭鍬次郎という人である。
以下、愛知の乳母車から抜粋(写真も引用)
--------------------
乳母車も、明治以降の近代の道具である。石井研堂の『明治事物起源』によれば、福沢諭吉が幕末にアメリカから持ち帰ったのが始まりとされる。国内生産は明治の30年代半ば頃からと思われる。それまで、子どもを運ぶのに、背負うしかない生活の中で、車に乗せて運ぶのはずいぶん画期的であったろう。この新たな道具をいち早く受け入れたのは、愛知県だった。名古屋市の日泰寺には、「乳母車始祖 鬼頭鍬次郎君彰功之碑」(大正14年 愛知県乳母車組合建立)の石碑が残されている。愛知県で乳母車生産が始まったのは、この地に、車鍛冶、木箱作り、篭編み、等々の優れた技術者が集まっていたからであろう。愛知県は自動車産業の発祥の地であるが、それ以前には国産乳母車の発祥地でもあった、ということになる。
--------------------
修理した旧家の連子格子だ。
大事にしているのが良くわかる。
この辺りから大雨になりだした。
体中が水浸しになる。
国府村
「東海道と姫街道との追分」である。
五井橋(御油橋)
土手は桜が植わっているから、春は綺麗だろうと想像される。
このあたりは、東海道五十三次の35番目の宿場 御油とよばれる辺りの入り口になる。
広重の御油(強引に客引きしている)
御油宿はこの建物の前で直角に右折する
その角には雑草が勢いよく生い茂る空き地があって、ボロボロの立札があった。
どうも明治政府がドイツから招いた日本近代医学の祖エルヴィン・フォン・ベルツという人の妻ハナの実家だった家があった場所らしい。
正直なところ、緒方洪庵なら知っているが、ベルツは知らなかった。
ハナとベルツ(写真はベルツの慨嘆より)
有名な人の実家にしては、管理が御粗末だ。
草が茫々なのはいただけない。
御油の松並木である
ビショビショになりながら走る。
関川神社の巨大なクスノキ
大きすぎて写真に入らない。
雨にぬれて、ますます神々しい感じがした。
境内には、松尾芭蕉の俳句「夏農月 御油よ李いてゝ 赤坂や(夏の月 御油より出でて 赤坂や)」を刻んだ句碑がある。
御油~赤坂間が実に近いということを詠んだ句らしい。
このあたりから赤坂宿であるのだが、御油宿から赤坂宿までは1.7キロしかない。
昔の距離の単位で16丁(1丁は109m)である。
東海道五十三次で一番短い距離である。
だから宿間での宿泊客争奪戦が激しく、御油に勝つために赤坂は当代随一の風俗営業の多かった活気ある宿だった。
以前は酒屋だったのだろう。
なんとなく哀愁の漂う小さな建物だ。
気に入ったので、FBの表紙にすることにした。
(つづく)
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高架道路が道をふさいでいるのだ。
丁度、国道1号線にもどる辺りである。
この高架道路が国道1号線だと俺は勘違いした。
が、それは県道31号線だったのだ。
だが、気が付かずにドンドン走ってしまった。
なにせコンビニがみえたから、そこで休憩したかった。
コンビニがみえたから、東海道だと都合の良いほうに考えてしまった。
でも、まわりの景色がなんとなくおかしい。
畑のむこうに屋敷森が見える。
だが、旧東海道なら屋敷は道沿いのはず?
冷静に地図とコンパスを見比べて考え、行き止まりだったところへ戻った。
旧東海道は県道で寸断されていたのである。
したがって、県道沿いに迂回して高架線の下をくぐり、寸断された旧東海道へ戻るのが正解である。
道は国1から旧東海道にまた入る。
国府(こう)町と呼ばれるあたりだ。
半増坊大権現と書かれた石柱の上に、注連縄(しめなわ)を付けた小さな社が 祀られていた。
これは一体なんだろうか?
そこから、すぐ先に立派な秋葉山常夜灯があった。
寛政十二庚申(1800年)に、国府村民達で建立したものだそうだ。
面白い看板だから撮ってみた。
乳母車店なんてあるんだね。
このうば車の看板から、興味深いことが判った。
乳母車を初めて作ったのは愛知県の鬼頭鍬次郎という人である。
以下、愛知の乳母車から抜粋(写真も引用)
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乳母車も、明治以降の近代の道具である。石井研堂の『明治事物起源』によれば、福沢諭吉が幕末にアメリカから持ち帰ったのが始まりとされる。国内生産は明治の30年代半ば頃からと思われる。それまで、子どもを運ぶのに、背負うしかない生活の中で、車に乗せて運ぶのはずいぶん画期的であったろう。この新たな道具をいち早く受け入れたのは、愛知県だった。名古屋市の日泰寺には、「乳母車始祖 鬼頭鍬次郎君彰功之碑」(大正14年 愛知県乳母車組合建立)の石碑が残されている。愛知県で乳母車生産が始まったのは、この地に、車鍛冶、木箱作り、篭編み、等々の優れた技術者が集まっていたからであろう。愛知県は自動車産業の発祥の地であるが、それ以前には国産乳母車の発祥地でもあった、ということになる。
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修理した旧家の連子格子だ。
大事にしているのが良くわかる。
この辺りから大雨になりだした。
体中が水浸しになる。
国府村
「東海道と姫街道との追分」である。
五井橋(御油橋)
土手は桜が植わっているから、春は綺麗だろうと想像される。
このあたりは、東海道五十三次の35番目の宿場 御油とよばれる辺りの入り口になる。
広重の御油(強引に客引きしている)
御油宿はこの建物の前で直角に右折する
その角には雑草が勢いよく生い茂る空き地があって、ボロボロの立札があった。
どうも明治政府がドイツから招いた日本近代医学の祖エルヴィン・フォン・ベルツという人の妻ハナの実家だった家があった場所らしい。
正直なところ、緒方洪庵なら知っているが、ベルツは知らなかった。
ハナとベルツ(写真はベルツの慨嘆より)
有名な人の実家にしては、管理が御粗末だ。
草が茫々なのはいただけない。
御油の松並木である
ビショビショになりながら走る。
関川神社の巨大なクスノキ
大きすぎて写真に入らない。
雨にぬれて、ますます神々しい感じがした。
境内には、松尾芭蕉の俳句「夏農月 御油よ李いてゝ 赤坂や(夏の月 御油より出でて 赤坂や)」を刻んだ句碑がある。
御油~赤坂間が実に近いということを詠んだ句らしい。
このあたりから赤坂宿であるのだが、御油宿から赤坂宿までは1.7キロしかない。
昔の距離の単位で16丁(1丁は109m)である。
東海道五十三次で一番短い距離である。
だから宿間での宿泊客争奪戦が激しく、御油に勝つために赤坂は当代随一の風俗営業の多かった活気ある宿だった。
以前は酒屋だったのだろう。
なんとなく哀愁の漂う小さな建物だ。
気に入ったので、FBの表紙にすることにした。
(つづく)
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