例えば貴方が新聞を手にしている時、貴方の注意は視覚でなく、嗅覚に向けられているかもしれない。新聞を鼻の近くまで持ち上げ、その独特の匂いを吸い込んだ時、あなたが思い出すものは一体なんだろうか。それはひょっとして少年時代の記憶 - 貴方の父親が新聞を読んでいる姿であるかもしれない。あるいはまた別の何かの香り - あなたの母親の香水の香り、木に生えたカビの匂い、キャンプファイアーの匂い、それらがあなたに想起させる記憶は一体なんだろうか?こうしたある特定の匂いがそれにまつわる記憶を誘発する現象は、フランスの文豪マルセル・プルーストの名にちなみ「プルースト効果(プルースト現象)」として知られている。
この現象はもともとプルーストの代表作「失われた時を求めて」の文中において、主人公がマドレーヌを紅茶に浸し、その香りをきっかけとして幼年時代を思い出す、という描写を元にしているが、かつて文豪が描いた謎の現象は現在、徐々に科学的に解明されつつあるのだ。
例えばある神経科学者は脳の中において、視覚や嗅覚、味覚や聴覚といった情報がいかなる形で格納されているかを調査し、またある心理学者は嗅覚によって想起される記憶がより情動的であり、また他の感覚器によって想起されるいかなる記憶よりも正確であるという結果を明らかにしている。
またこうした理論を裏付けるものとして、これまで、人が何かの匂いを吸い込んだ時、臭気分子は脳の中で情動を司る扁桃へと送られる事が明らかになっている一方、味覚や触覚といった他の感覚情報は脳の他の部分へと経由される事が判明している。そして即ち、この臭気と扁桃の直接的な関係は、匂いの情動的想起力を説明する上でおそらく大きな手がかりとなるはずである、とある科学者は話す。
「嗅覚、そして脳の情動を操る部位には、特殊な関係があります。」そう語るのは米ロードアイランド、ブラウン大学の神経学者レイチェル・エルツ博士である。
博士によれば、嗅覚による脳の刺激は決してそれだけに留まるものではないという。一度脳に入り込んだ嗅覚の刺激は、まるで触手のように脳の様々な部位へと刺激を送るというのである。
最近、ロンドン大学神経学研究室にてある興味深い実験が行われた。その実験では15人の被験者らに写真を見せ、その間、写真と何ら関係性のない匂いを被験者らに吸引させた。それは例えば対になった鳥の写真とバラの香り、といった具合である。そして今度は、被験者らにそれらの香りと写真から連想する簡単な物語を作る事を要求した。
そしてその後被験者らの脳をスキャンしたところ、嗅覚と関係した皮質が特に強い反応を示していることが確認された。それは丁度嗅覚からの刺激を匂いとして処理する部位である。そして更にその5分後、今度は被験者らは再び鳥の写真を、今度はバラの香り無しで見せられた。しかし、興味深いことに、その後行われた脳のスキャンでは、最初の実験後と同じく、やはり嗅覚の皮質にも反応が見られたのである。
この結果が意味するところは一体何なのだろうか?実験を行った科学者ジェイ・ゴットフリード博士によれば、嗅覚への刺激が無いにも関わらず、同じ写真を見る事で嗅覚の皮質が活発化したことは、即ち、それぞれの感覚器への刺激は、それぞれ脳の異なる部位へと格納されていることを示唆しているという。
「例えば、貴方が海辺にいるところを想像して下さい。その時、貴方は波の形をある脳の部位に、そしてそこで起きたかもしれない船の事故はまた脳のどこかに、そして潮風の香りはまた更に別の部位へと格納されているのです。」博士は語った。
また更に、博士によれば、脳の中に分散して記憶を格納することにはいくつかの利点があるとしている。「脳の中に様々な形で物事を記憶しておくことで、あらゆる感覚器への刺激を、記憶を想起するきっかけとすることが出来るわけです。それは上記の例で言えば、日焼けローションの匂いかもしれないし、何か特別な音かもしれない。あるいはそこで見た変わった岩の形かもしれません。」
匂いと思い出
ブラウン大学エルツ博士によれば、そうした香りは単に記憶を想起させるだけでなく、ある種の情動的変化を引き起こすきっかけにもなり得ると分析している。彼女が最近行った研究では、匂いによって想起される記憶は他の感覚器からの刺激に比べ、より情動的な反応を引き起こすことが明らかになったとしている。
実験では、エルツ博士はそれぞれ匂いにまつわる思い出を持つ5人の被験者を集めた。それは例えば有名ブランドの香水や、バスルームで使用する入浴剤などの香りに何らかの思い出を持つ人々である。そして博士は、被験者にそれぞれ記憶にまつわる匂いと、彼らの記憶に何ら関係ない匂いを別々に吸引させ(被験者らはどの匂いがそれぞれ何の匂いであるかは知らされない)、それぞれの段階における脳の状態をスキャンした。
そして実験の結果、被験者らにとって思い出深い特定の匂いを吸引した際には脳の中、とりわけ扁桃、そして海馬(記憶を司る部位)に大きな反応が現われたのである。
しかし、エルツ博士はこの時点ではまだこうした反応が嗅覚だけのものであるのか、あるいは他の感覚器の場合でも同様の反応が脳内に発生するかを確かめる必要があった。
そして博士は今度は、ポップコーン、芝刈り、キャンプファイア、これら三つに思い出を持つ被験者70人を集め、実験を行った。実験では、例えば芝刈りの場合、それぞれ被験者らにまず芝刈り機の写真を見せ、次に刈り取られた芝の匂いを吸引させ、次いで芝刈り機の音を聞かせた。そして次に、被験者にどの刺激が最も記憶を鮮明に想起させたかを答えさせた結果、嗅覚への刺激、即ち匂いによる刺激が最も記憶を鮮明に想起させたという集計結果が出たのである。
そして博士はこの結果をそれぞれ専門の論文誌に掲載したが、そこで英国はリバプール大学心理学者サイモン・チュー博士がある疑問を持ち掛けた。
それは匂いによる記憶の想起は単に鮮明な記憶を呼び起こすだけでなく、他の感覚器に比べ、より情動的な記憶の想起へと繋がるのではないかというものである。
そしてサイモン博士は同僚のジョン・ダウンズ博士と共に記憶と匂いの相関性を突き止める研究を始めた。そこで手がかりになったのは、サイモン博士がかつて祖母から聞いた中国の伝承文化である。サイモン博士が聞いた中国人である祖母の話では、かつて、人々は歴史や民話を伝える際、そこに居合わせた人々に香料や芳香剤が入った小さな壷を回したという。そしてその後、話を伝えられた人々が、かつて聞いた話を再び思い出し、それを別の誰かに伝えようとする際、記憶を更に鮮明にする為に、(自分が話を聞いた)当時と同じ香りの小壷を再び回すという習慣があったのだ。
「この逸話は、匂いがいかに記憶を呼び起こす事に効果的であるかを示す、とても興味深い例だと思います。」サイモン博士は語った。
またその後、サイモン博士らが行った実験では、42人の被験者から彼らの人生について話を聞き、次いでそれらの記憶と関係した匂い、例えばコーヒーやシナモンなどを与え、その香りがより詳細な記憶の想起へと繋がるかを被験者に訪ねた結果、それらの匂いが記憶の想起の大きな助けとなると事が明らかになったとしている。
「匂い」一つとっても面白い。