フリードリヒの日記

日常の出来事を、やさしい気持ちで書いていきたい

夜の葛西臨海公園ウォーキング 筋肉とエロさ

2012年05月25日 08時40分44秒 | 身体・健康・筋トレ

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 夜のウォーキング。涼しくて気持ちがいい。

 葛西水族館から逃げたペンギンが捕獲された。もう水族館に帰ってきたのだろうか。

 ウォーキングは気持ちいいし健康的である。
 ただ、スタイルと良くしようとするなら、それだけでは足りない。スタイルの良さの秘密は、痩せていることではなく、筋肉のついた体つきである。
 程よい筋肉が均整のとれた姿勢と美しいラインをつくる。
 「筋肉が重要だ」と、女性にいうと、だいたい「ヤダ」という。多分、ムキムキマッチョなボディービルダーを想像してしまうのだろう。
 だが、女性は、つけたくてもそんなに筋肉はつかない。だから、心配は要らない。
 程よい筋肉は女性の体を、エロくていやらしい魅力のある体にする。というか、男は筋肉があって免疫力の高い個体に子供を産ませたい思うのだ。
 エロさの本質は、男の本能を刺激することである。
 
 しかし、ウォーキングだけでは、まったくとは言わないが、十分なだけの筋肉はつかない。
 たしかに、ウォーキングは、心肺機能(酸素を送るシステム。だから血管や血液の状態も含む)を良くする。心肺機能が改善されれば、疲れにくい体になり、また有酸素運動になるが故、痩せやすい体になる。
 だが、それだけである。
 美しい体のラインを作りたいと思ったら、スクワットをやるべきである。
 正しいスクワットの動画があった。アップする。


 

 


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瞑想と脳の働きについて

2012年04月25日 08時19分06秒 | 身体・健康・筋トレ

 止観とは、仏教の瞑想のことであるが、大きく二つに分けられる。
 1つは、「止」、思考を止める瞑想、サマタ瞑想。
 もう1つは、「観」、観察する瞑想、ヴィッパサナー瞑想、である。
 
 最近は、脳の血流を観察する方法や神経細胞の電気活動を可視化する方法で、瞑想による脳の働きが解明されてきている。
 
 サマタ瞑想は、脳の言語活動を司るところを止め、脳の活動を自律神経に関わる原始的な部分に集中させる。感情や記憶、時間や空間を把握する部分を停止し、今この瞬間だけを認識するから、世界と自分が一体化してくる。これにより神秘的体験が可能になる。
 禅の瞑想も基本的には、サマタ瞑想である。

 ヴィッパサナー瞑想は、自分の身体や感情の状態を、観察し続ける。これは、お釈迦様の瞑想である。
 この瞑想の目的は、メタレベルの自分をつくることである。メタレベルの自分とは、自分の状態を冷静に客観的に見つめる自分である。
 例えば、ある出来事があってパニックになったとする。その時、冷静に、客観的に、パニックになっている自分を観察する。それにより、自分の感情の流れがわかるようになる。
 パニックになっている自分も冷静にそれを見ている自分も、両方、自分である。二人いるわけではない。だから、メタレベルの自分が強ければ、その冷静さに引きずられて、だんだん冷静になっていく。
 ヴィッパサナー瞑想の目的は、メタレベルの自分を強化し、感情に流されず、冷静さを保つところにある。

 アメリカの女性の脳科学者が、脳卒中になった。言語活動を司る左脳に血の塊ができて脳を圧迫したらしい。その際、自分がどのように変化をしていくのか、脳科学者らしく客観的に分析している。非常に興味深い。
 それは、サマタ瞑想の神秘体験に近い。神秘体験は、霊的なものではなく、脳の働きであることがよく分かる。
 




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男女間の食欲と性欲

2012年04月17日 08時31分04秒 | 身体・健康・筋トレ

 まず、食欲について。

 空腹になるイライラし、満腹になると満足する。それは、脳幹の付近にある視床下部の働きである。

 視床下部には、食べろと指示を出す摂食中枢と、食べるのを止めろと指示を出す満腹中枢がある。 
 
 どちらの中枢を刺激し指示を出すのは、ブドウ糖である。

 ブドウ糖の量が減れば摂食中枢を刺激しお腹がすいたと感じ、ブドウ糖の量が増えれば満腹中枢を刺激し満腹になったと感じる。
 
 このサインを無視して、過度なダイエットをし続けると、視床下部の機能がマヒして、拒食症や過食症などの摂食障害になる。

 
 食欲と性欲の関係について

 食欲中枢と性欲中枢は、1,5ミリくらいの近いところにある。それゆえ、お互いに影響を受ける。ただ、男女間で微妙に異なる。
 
 男は、性欲中枢と摂食中枢が並んでいる。
 つまり、男は、空腹になると性欲が高まることになる。
 これは、空腹になって生存が脅かされたときに、子孫を残そうとすることと関係している。
 だから、男は腹が減ったらムラっとするようにできている。
 
 これに対し、女は、性欲中枢と満腹中枢が並んでいる。
 つまり、女性は満腹になったら、性欲が高まる。
 これは、女性は満腹になって体の状態がいいときに、子孫を残そうとするからである。
 だから、女性を口説こうと思ったら、食事に誘うのが効果的で、これは科学的に根拠がある。
 
 逆に、夫や彼氏の性欲が衰えたと思ったら、少し食事を少なめにして飢えさせたほうがいい。 

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危機における人間の行動形式

2012年04月04日 08時59分07秒 | 身体・健康・筋トレ

 危機に直面した時の人間の行動について分析してみる。
 人間が人間に進化する前、また原始人類としてアフリカで走りまわっていた時、恐竜や大型肉食獣に捕食されていた。そのように、生命の危機に直面した時に発達したのが、大脳辺縁系である。
 大脳辺縁系が哺乳類脳であることは既に述べた。
 辺縁系には、危機に直面した時、とるべき一定の行動形式が組み込まれている。
 戦うか、逃げるか、である。ただ、その前提として、固まる(フリーズ)がある。
 その行動形式について考えてみよう。

 まず、固まるという方法である。
 人間がまだアフリカのサバンナで生活していた時、最大の敵はネコ科の大型肉食獣だった。大型肉食獣は、動いているものに反応する。猫を見ているとよくわかる。
 だから、生き残る戦略として、じっと身を潜めて動かないというのは合理的な方法である。
 例えば、ショーで虎やライオンが現れると、客席の最前列に座っている観客の手足は固まって動かなくなる。また、前線の兵士たちが攻撃を受けた時、動かなくなることで相手の視界から消える。実際、アメリカであった銃乱射事件で、
動いて逃げまわった学生は撃たれたのに対して、犯人のすぐ1,2メートル付近にいたのに、じっと固まっていた学生が助かった例がある。
 日常生活においてもこの反応は、いろんな所で現れる。例えば、嘘が見破られる時などである。その場合、呼吸が浅くなり固まってしまう。

 第二の方法、逃げるである。
 敵が近すぎて見つかる状況だったり、身を潜めていては危機から脱出できなかったりする場合、逃げるという行動をとる。これはシンプルでわかりやすい。
 ただ、アフリカの荒野であれば、単に走ればいい。しかし
、現代社会で、何か問題が起こるたびに、走って逃げていたら、生活できない。そこで逃げるという行動形式を、現代人的に適応させてきた。
 例えば、相手の言葉を否定したり、ある団体から脱退したり、交渉を打ち切ったり、である。
 人間の微妙なしぐさからもその逃げる行動が観察できる。
 例えば、足先が出口の方向に向く、不快な言葉に身をそらせ、のけぞるなどである。

 第三の方法、戦うである。
 固まっても、相手に見つかるし、逃げたとても相手に捕まってしまう場合、本能は戦うという選択をする。
 私たちは、進化の過程で、恐怖を怒りに変えることで、戦うという行動を起こしやすいようにしてきた。
 したがって、怒りは恐怖の一つの現われといえる。
 怒りは、人間を暴力的行為に向かわせる源泉であり、それを研究することは、平和的な社会を構築する上でも重要である。どのようにして怒りを抑え、起こさせないようにするか。
 戦うという選択をとった場合、殴る蹴るという行動のみならず、さまざまな行動をとる。目付きで相手を脅す。相手を指さす。激しい言葉を投げかける。罵倒する。
 原則的に、戦うという選択は、固まる、逃げるの後で仕方なく選択される。だから、通常であれば、その段階にいかないように気をつけておけば良い。
 しかし、瞬間的に、この戦うという選択をする人がいる。それは、この方法をとった方が有利な人である。つまり、権力をほしいままにしている人や、若くて体力がある人などである。そのような人に対しては、細心の注意が必要である。 

 ここまでの3つの行動は、理解しやすい。

 問題は、その先である。
 既に説明した3つの行動を起こすまもなく
危機に巻き込まれたり(突発的危機)、やっても功を奏しなかった場合に、最後に人間内部で起こる心理的状態である。
 例えば、交通事故なんかで、事故が起こった瞬間をスローモーションのように感じ、恐怖がなく冷静になっている状態である。
 これは、日常を超えた神秘体験的なものであり、脳が死ぬと判断したときに起こる状態である。つまり、死の状態になるから、恐怖や痛みなどの感覚は不要で、それらを一切遮断する。むしろ、どちらかというと、それらを快感に変えてしまう。
 エンドルフィンという快感物質は、命を失うような危機的な状況で分泌されることが分かっている。例えば、ライオンに襲われて食べられている草食動物は痛みを感じていない。むしろ、気持ちのいい状態になっているともいえる。
 前のブログで書いた自然死の場合に、脳内物質が分泌され痛みがないこととも関係している。痛みや恐怖という点では、死は怖くない。

 もう少し突っ込んで考えるべきことは、この危機的状況に恐怖が消え、まわりがスローモーションになる、この精神状態である。
 これを、仮に変性意識の一種だとすれば、これを意識的に行える人がいる。瞑想の達人などだ。
 また、一流のスポーツ選手も、大記録を達成するときに、このような体験をする人がいる。
 死が怖くないのだから、何でもできるという、精神状態である。
 これは、私が今、深く考えていることの一つである。
  



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脳の三層構造説

2012年04月01日 13時41分00秒 | 身体・健康・筋トレ

 アメリカのポール・マクリーンは、複雑な人間の脳の構造を、生物の進化の過程にそった形で説明することを試みた。有名な脳の三層構造説である。
 その仮説によれば、人間の脳は「爬虫類脳→哺乳類脳→人間脳」の順番で進化し、機能を複雑化させ高度化させてきた。
 この脳の三層構造の仮説は、最新の脳科学の研究によれば、必ずしも正確ではない。しかし、脳の構造と進化の大まかな理解を得るのには便利である。だから、この分類を覚えておいても損はない。

 ポール・マクリーンの脳の三層構造説
1.爬虫類脳
 最も古い年代に発生した脳であり、自律神経系の中枢である脳幹と大脳基底核より成り立つ。
 心拍、呼吸、血圧、体温などを調整する基本的な生命維持の機能を担い、爬虫類に特徴的な自分のテリトリー(縄張り)の防衛意識などを発生させる。自己保全の目的の為に機能する脳である。
2.哺乳類脳
爬虫類脳に次いで進化した脳で、海馬、帯状回、扁桃体といった“大脳辺縁系から成り立つ。これについては、前のブログで既に述べた。
 個体の生存維持と種の保存を目的とする。本能的情動や感情、行動を動機づける機能、危険や脅威から逃避・攻撃する原始的な防衛本能を司る脳である。
3.人間脳
 最も新しい年代に発生した脳。大脳新皮質から成り立つ。
言語機能と記憶・学習能力、創造的思考能力、空間把握機能などを中軸とする高次脳機能の中枢である。

 ここまでは、一応、科学的なかたい話だが、もっとくだけた話をしてみよう。
 3の人間脳は、嘘つきの脳といわれる。人の嘘は創造的になされるから(嫌味ではなく)、この人間脳が活発になる。
 一方、哺乳類脳は、生存を目的とするから、危険に対し反射的に反応するようにプログラム化されている。だから、嘘はつけない正直な脳である。

 つまり、人間は言葉で嘘をついても、体のしぐさは嘘をつけず、本当のことを言ってしまうのである。
 だから、哺乳類脳の反応としてのしぐさを研究すれば、人間の嘘を見破り、本当の考えがわかるようになる。

 
 

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暴れたいなぁ

2011年04月20日 09時00分28秒 | 身体・健康・筋トレ

 なんか暴れたいなぁと思う。
 体調がいいこと、暖かくなってきたこと、家でじーっとして本を読んだりモノを書いたりしてストレスがたまっていること、などいろいろ原因がある。
 その辺を走っているだけでは、この根拠ない衝動は収まらない。だから、ゴールデンウィークはどこでもいいから山に行ってへとへとになるまで体を動かそうと思っている。

 ギリシャ神話が示すように、自然は、時に、私たちの日常を粉々に破壊するくらい暴れる。そう考えると私だって自然の一部なのだから暴れたくなっても当然である。

 春は自律神経の変調で体調がおかしくなる。
 気持ちも体もオフからオンに変わる大事な時期である。行動的になるのが本来の姿である。体の内側から感じるワクワク感を見逃してはいけない。
 そのエネルギー放出が、開放的で明るい自己を作っていく。体から湧き上がるエネルギーが大事。太陽から降り注ぐ日差しのエネルギーと体から湧き上がるエネルギーをシンクロさせることである。

 

 

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弱いものが勝つということ

2010年09月26日 11時47分20秒 | 身体・健康・筋トレ

 昨日、久しぶりに格闘技の試合を見た。しかし、昔ほど興奮しない。
 なぜだろうと考えてみる。
 多分、カタルシスが足りないのだろうと思う。カタルシスは絶体絶命の状態から逆転して勝つような場合に感じるものである。しかし、最近の格闘技の試合は、単に強い者が勝つという基本的な生物の原理が、試合によって実証されているだけだからである。

 「柔よく剛を制す」とは柔らかくてしなやかなものが、強く硬いものを制すというもので、それが転じて、弱い者が強い者に勝つという意味をも有する柔道の格言である。
 武術とは、基本的に弱い者が強い者に勝つためのものであり、強い者が勝つという当然の原理が働くなら武術は必要ない。普通に戦えば自然の原理に従った結果になるからである。

 人間とトラが戦ったらどっちが勝つだろうか。
 もちろん人間だと答える人もいるし、いやトラだと答える人もいるだろう。このように答えが真逆になるのは、そもそも前提が異なっているからである。人間に銃を使うことが許されていれば当然人間が勝つ。素手で檻の中で戦えば人間は負けるだろう。大昔、人間は非常に惨めな動物だったとのことだ。他の動物に比べて弱く、食べ物も他の大型哺乳類の残り物を食べていたらしい。しかし、武器を使うようになってから、その立場が逆転する。現在では人間は哺乳類最強のように振舞っている。ただ、今でもトラと素手で戦ったら絶対勝てない。大型の犬だって勝てるか怪しい。
 人間が強いのは、武器(智恵)があるからである。
 武術はこの武器のようなものである。弱者ゆえ必要になる。強ければ武術など使わずに、普通に戦えばいいからである。

 古武術の甲野氏が、武術を志すことになったのは、「運命は決められているがゆえに自由だ」ということを確かめたかったとのことだ。これはなかなか難しい観念だ。一見矛盾した「決められている」ということと「自由」ということが一緒になっているからだ。

 こういう場面を想像してもらいたい。相手から鼻先に刀を突きつけられて、こちらはまだ刀すら抜いていない状態、まさしく絶体絶命の状態である。このような状態の中で、死んでもいいとすれば、振舞うべき行為は限りなく存在する。しかし、この命を失う可能性のある極限の状態では生き延びるための方法は限られている。その数ある行為の中から自分の行為を自由に選び取って、それを行うわけだが、もし、生き延びることが運命付けられているとすれば、意識的にもしくは無意識的にその生き延びるための唯一の方法を選び取っているはずである。
 ただ、このような緊迫した状態では、意識的に行為を選ぶというより、無意識的に行為をおこなったと言ったほうがいいだろう。なぜなら、意識だけ体は自由に反応しないからである。
 思うのだが、このように無意識的に行為を選び取らせるものは一体なんなのか、ということである。日々の鍛錬なのだろうか。それだけではないような気がする。このような極限の状態では、私はこの行為をするしか仕方がなかったのだ、という確信的な心の動きでしか行為が現れないのではないかと思う。
 これを運命と呼ぶのかもしれない。
 このように運命が決められているという感覚は、極限状態で、自分という自我を滅しつつ自由に選び取った行為(誰かに選び取らされた行為)によって生まれてくると思う。
 自分をこのような状態にもっていくことで、結果的に、勝負に勝つことになる。このような状況では、強いから勝つのではなく、むしろ弱者だから勝つことがになるといえる。なぜなら、強い者であれば絶対絶命という状況が生まれないからである。
必ずしも強者=勝者ではない。弱者が勝者になることもある。
 このような弱者が危機的状況を乗り越える方法を探求する道が「武道」というものなのかもしれない。

 昨日、41歳の桜庭和志が一本負けをした。人は老いには勝てない。老いというのはどんなに強い人間をも弱者に変える。ただ、今言ったように、本来の武術は弱者が強者を倒すためのものである。だから、自分が弱者になったときから、武術が本来の機能を始めるのである。

 老いた者が若い者に、小さい者が大きな者に、日本人が外人に、勝つ試合が見たいなぁと思う。そういう試合は人々に勇気を与える。そのような試合が多くなれば、また格闘技ファンが増えるのではないかと思う。

 

 
 

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無意識と坐禅

2010年08月27日 08時58分11秒 | 身体・健康・筋トレ

 坐禅を組んでいるときは、部屋を薄暗くして静かにしているから、外部からの刺激は少なくなる。
 刺激が少ないから
妄想なんて浮かばないようだが、それは違う。頭の中は妄想だらけである。次から次へと浮かんでくる。私たちはその妄想からストーリー作り出し、感情を生み出してしまう。それが怒りの感情なら最悪である。
 この妄想の正体は、記憶である。記憶自体は脈絡はなく断片的である。ストーリーは私たちがつくる。
 記憶は、現実に今起っていることではなく、頭の中にある仮想的なものである。
 たとえば、むかつく人が頭に浮かんだとする。その人がどんなに頭の中でリアルに思い出されてもそれは幻想にすぎない。現実に存在しているそのむかつく人は、どこか別のところで生活している。
 だから、その妄想(記憶)がどんなにむかつくことを言ったとしても、現実のその人とは関係ない。
 しかし、私たちは現実には存在しない妄想によって、心を動かされてしまう。
 
 断食を行ったり、幻覚きのこやLSDと摂取すれば、妄想を超えて幻覚が生じてくる。
 身体感覚が遮断された脳の世界は、私たちにはコントロールしづらい無意識の世界が広がっている。
 このような断片的な無意識とうまく付き合うには、コツがある。
 無意識は身体を通して表層に現れる。だから、身体の微妙な変化に敏感であること、それが重要である。
 無意識が、自分ではコントロールできない自律神経を暴走させる。自律神経が失調する状態である。
 例えば、セックスを抑圧していたとする。そのセックスに関することが、心の奥に隠されて無意識になる。そして、本人もそのことを表面上は忘れる。
 しかし、セックスの話題が出た途端、心臓がバクバクし呼吸が乱れる。無意識が、自律神経に働きかけるのである。
 だから、その変化に敏感でなければならない。
 変化に気づいたら、呼吸を整える。呼吸は、自律神経に直接働きかけられる唯一の方法である。
 その体の変化に気づき、呼吸でコントロールする。それをうまくやるために坐禅がある。 

  

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夏の花火(過剰なエネルギー)

2010年07月24日 22時54分16秒 | 身体・健康・筋トレ

 明日、山を登るので、軽く土手を走ってきた。
 土手で中学生くらいの少年少女達がが花火をしていた。線香花火みたいなかわいいものではなく、どちらかというとロケット花火のようなバンバン音がする激しいものが多かった。その激しい音は、どこにぶつけていいかわからない彼らの荒ぶれる魂の響きのように聞こえる。
 夏は過剰なエネルギーが生まれてくる季節である。
 その中学生を横目で見ながら、自分の中学時代のことを思い出していた。夏の全国大会に負けて部活が終わると、高校受験に目標が変わっていく。
 その気持ちの整理がうまくいかず、仲間同士で遊びまわっていた。そしてしまいに「樹氷」とか何とかの酒を手に入れて(まだあるのかなぁ)、外でこっそり飲み出した。
 祭りなんかあるとビールを軽く舐める程度には飲んだことがあったが、きちんとアルコールを摂取するのははじめてだったと思う。完全に酔っ払って軽い急性アルコール中毒気味になってしまい、弟に担いでもらって帰ったことを記憶している。このトラウマ的経験は私のアルコール嫌いに強い影響を与えていると思う。
 私は今でも一年に数回しかアルコールを摂取しない。

 そんなことを考えていると、警察がやってきて中学生に注意をし始めた。多分、うるさいとの通報があったのだろう。花火くらいやらせてあげればいいのにね。かわいそうに。

 私も軽く流そうと思っていたが、スピードを上げて思いっきり走ってしまった。この身体からあふれ出るような過剰なエネルギーを消費しなければよく眠れないなぁと感じたからだ。
 よく考えると、私の場合、この過剰なエネルギーから生まれる暴力性とどう向き合うかが、日常での大きなテーマだったような気がする。
 暴走族の爆音も、花火の激しい音もある種の行き場のない暴力性の現れである。人はそれを敏感に感じる。それは暴力性に対する不安と不快な感情である。だから、このエネルギーをうまく処理しなければ周りを不幸にしてしまう可能性がある。

 この過剰なエネルギーの正体は、おもいきっていってしまえば、性的エネルギーである。俗にいう「たまっている」ということである。このエネルギーは生命力の源であり生きるパワーでもあるが、正しい方向性を失えば暴力に変わる。しかし、うまく使えば文化的活動に昇華させることもできる(芸術など)。まあ、私も少しづつその方法を学んでいる。

 

 

 

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体を観察すること(登山)

2010年07月19日 01時05分13秒 | 身体・健康・筋トレ

 過酷な環境に身をおけば、無駄な思考は削げ落ちていく。無駄なことを考えている余裕が無いから、自分に必要なことのみを考えるようになる。
 例えば、坐禅では妄想がすぐに生まれてきてなかなか思考を停止することはできないが、きつい山登りだと簡単に思考を停止できる。
 きつい登山の場合、心拍数、呼吸、腿やふくらはぎの筋肉の状態、汗のかき具合など、体の内部の観察に神経を集中して登るからだ。
 自分の体を観察するから、山登り=瞑想といった感じになる。
 地面を蹴り上げ、体全体を支え、収縮し膨れ上がる腿の筋肉に意識を集中していると、たしかにそこに生命が宿っていることを感じることができる。
 生きているということは素晴らしいなぁと思える。

 無駄な思考は無駄な感情を生み、心を汚してしまう。自分の身体を観察することによって無駄な思考を停止し、落ち着いた心の時間をつくるということが、現代人には必要なのではないかと思う。

 
 
 
 

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