昨日、久しぶりに格闘技の試合を見た。しかし、昔ほど興奮しない。
なぜだろうと考えてみる。
多分、カタルシスが足りないのだろうと思う。カタルシスは絶体絶命の状態から逆転して勝つような場合に感じるものである。しかし、最近の格闘技の試合は、単に強い者が勝つという基本的な生物の原理が、試合によって実証されているだけだからである。
「柔よく剛を制す」とは柔らかくてしなやかなものが、強く硬いものを制すというもので、それが転じて、弱い者が強い者に勝つという意味をも有する柔道の格言である。
武術とは、基本的に弱い者が強い者に勝つためのものであり、強い者が勝つという当然の原理が働くなら武術は必要ない。普通に戦えば自然の原理に従った結果になるからである。
人間とトラが戦ったらどっちが勝つだろうか。
もちろん人間だと答える人もいるし、いやトラだと答える人もいるだろう。このように答えが真逆になるのは、そもそも前提が異なっているからである。人間に銃を使うことが許されていれば当然人間が勝つ。素手で檻の中で戦えば人間は負けるだろう。大昔、人間は非常に惨めな動物だったとのことだ。他の動物に比べて弱く、食べ物も他の大型哺乳類の残り物を食べていたらしい。しかし、武器を使うようになってから、その立場が逆転する。現在では人間は哺乳類最強のように振舞っている。ただ、今でもトラと素手で戦ったら絶対勝てない。大型の犬だって勝てるか怪しい。
人間が強いのは、武器(智恵)があるからである。
武術はこの武器のようなものである。弱者ゆえ必要になる。強ければ武術など使わずに、普通に戦えばいいからである。
古武術の甲野氏が、武術を志すことになったのは、「運命は決められているがゆえに自由だ」ということを確かめたかったとのことだ。これはなかなか難しい観念だ。一見矛盾した「決められている」ということと「自由」ということが一緒になっているからだ。
こういう場面を想像してもらいたい。相手から鼻先に刀を突きつけられて、こちらはまだ刀すら抜いていない状態、まさしく絶体絶命の状態である。このような状態の中で、死んでもいいとすれば、振舞うべき行為は限りなく存在する。しかし、この命を失う可能性のある極限の状態では生き延びるための方法は限られている。その数ある行為の中から自分の行為を自由に選び取って、それを行うわけだが、もし、生き延びることが運命付けられているとすれば、意識的にもしくは無意識的にその生き延びるための唯一の方法を選び取っているはずである。
ただ、このような緊迫した状態では、意識的に行為を選ぶというより、無意識的に行為をおこなったと言ったほうがいいだろう。なぜなら、意識だけ体は自由に反応しないからである。
思うのだが、このように無意識的に行為を選び取らせるものは一体なんなのか、ということである。日々の鍛錬なのだろうか。それだけではないような気がする。このような極限の状態では、私はこの行為をするしか仕方がなかったのだ、という確信的な心の動きでしか行為が現れないのではないかと思う。
これを運命と呼ぶのかもしれない。
このように運命が決められているという感覚は、極限状態で、自分という自我を滅しつつ自由に選び取った行為(誰かに選び取らされた行為)によって生まれてくると思う。
自分をこのような状態にもっていくことで、結果的に、勝負に勝つことになる。このような状況では、強いから勝つのではなく、むしろ弱者だから勝つことがになるといえる。なぜなら、強い者であれば絶対絶命という状況が生まれないからである。
必ずしも強者=勝者ではない。弱者が勝者になることもある。
このような弱者が危機的状況を乗り越える方法を探求する道が「武道」というものなのかもしれない。
昨日、41歳の桜庭和志が一本負けをした。人は老いには勝てない。老いというのはどんなに強い人間をも弱者に変える。ただ、今言ったように、本来の武術は弱者が強者を倒すためのものである。だから、自分が弱者になったときから、武術が本来の機能を始めるのである。
老いた者が若い者に、小さい者が大きな者に、日本人が外人に、勝つ試合が見たいなぁと思う。そういう試合は人々に勇気を与える。そのような試合が多くなれば、また格闘技ファンが増えるのではないかと思う。