図書館から借りてきた「楢山節考」を読んだ。短編なのですぐ読み終わった。うわさどおり、たしかに、なんとも言えない読後感だった。内容は、簡単にいうと、姥捨て山の話である。
この小説は中央公論の新人賞をとるのだが、その選者に三島由紀夫がいて、深夜に読んで怖くなったらしい。「これは何か不安定で、どろどろしたものがあって、とても脅かすんだ」と。
主人公のおりんという老婆、老婆といっても70歳であるが、山に捨てられるのが嫌というより、自分から進んで捨てられようとしている。それは、村や家の食物が乏しいため、自分が死ぬことによって口減らししようとする、自己犠牲の精神からである。捨てられることを早めるために、自分の前歯を折る。一方、息子は母を山に捨てなければいけない村の掟を知っているのだけれど、知らないように振舞っている。けれども、いずれ楢山に捨てに行かなくてはならない時がやってくる。
三島由紀夫のいう「どろどろ」とした怖さみたいなもの。
この「どろどろ」としたものの正体は何か。
都会は人間が計画的・人工的に作り上げた場所である。できるだけ自然をコントロールし排除しようとする。
「人工的に作られた空間には自然が排除されること」の例として、部屋にゴキブリがいたときの人の反応を考えればいい。私達は居住者の許可なく部屋には入れない。それなのにゴキブリのようなわけの分からない虫(自然)が許可なく入ってくるのを許せない、ということになる。これが都会人の考え方である。
自然は根本的に人間にはコントロールができない。多少はできるが、完全にはできないと言い換えたほうがいいのかもしれないが。
田舎はどうしても東京のように完全に都会化していないので、自然と共生しなければならない。自然というと聞こえはいいが、本当は気持ちの悪いものである。
例えば、昔はぼっとん便所だった。糞は自然である。ただ臭い。夜寝ていると頭の周りにねずみが動き回っていた。朝起きるとねずみの死体が私の横にあったこともある。猫が枕もとに獲物を置いった。
自然は人工的なものではなくコントロール出来ないので薄気味悪い。人間はわけの分からないものに恐怖を覚えるのだ。
三島由紀夫の小説をそんなにたくさん読んでいるわけではないが、論理的で美しい言葉を使っていて、なかなか素晴らしい。しかし、そこに自然はなく人工的な世界が広がっている。よく言えば都会的である。
三島由紀夫が恐怖した「どろどろ」としたものとは、「自然」なのだと思う。
どのように役に立つのかさっぱりわからないが、この「楢山節考」を読んで、ある事が私の中でいろいろと繋がってきた。私は都会が大好きである。だからこそ東京に住んでいるのだが、それだけでは、何かが足りないとも思っていた。
自然、もっと身近にいうと身体の問題は、古くて新しい問題なのだと思う。