ガンジス・河の流れ

インド・ネパール。心の旅・追想

ジャンキーの旅      薬物後遺症と心の傷・・・47

2012-09-21 | 3章 デリー中央精神病院・入院記録


 夕方、シスターが笑顔でぼくの病室に入ってきた。何かあったのか、いつもとちよっと違う雰囲気が彼女の周りに漂っている。彼女はぼくの目を見ていたが悪戯っ子が我慢できないといった感じで
「ハッピー、パッピークリスマス」
と楽しそうに弾んだ声で笑った。
「パッピークリスマス」
彼女につられてぼくもつい、そう言ってしまった。ぼくはあまりハッピーな状態ではないが、彼女のからっとした明るさがそう言わせた。彼女はクリスマスの飾り付けをぼくに見せたかったのだろう、どうしても見に来てくれと言ってぼくの傍を離れない。インドはヒンズー教の国だからクリスマスに関心を示さない、この病院で誘えるのはぼくしかいない。
外には点滅する照明で飾られたクリスマス・ツリーがあった。シスター達がそれを囲んで楽しそうだ
「綺麗でしょう」
「うん、とても綺麗だ」
東京で見た飾りとはあまりにも細やかな灯りであるが、ぼくには彼女達の清らかな心の灯火のように見えた。事務室には手作りの色紙で飾らていた。1995年のクリスマス・イブは、彼女達の思い出に大切に記憶されていくのだろう。ハッピー・クリスマス。

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ジャンキーの旅      薬物後遺症と心の傷・・・46

2012-09-19 | 3章 デリー中央精神病院・入院記録
   12月24日(日)(入院して21日)
 
 下痢と歯痛が続いていた、昨夕ドクターに症状を話していたので薬が追加され体調は良くなっている。病院に体重計があったので計ってみた、50㎏ちょうど。入院する前と比べて2㎏増えて順調に回復している。スタッフによって低下していた消化器系が活発に動いている証拠だ。保釈された夜、鏡に写った自分の身体を見て情けなかった。薬物は恐い。
 偽名を使うというマリーの意見だが、どう考えても無理だ。日本ではすべての情報がコンピューターで管理されている。アフリカでは可能だろうが、偽名でパスポートを作るなんてとんでもない話だ。彼女は日本の現状を知らない。
 マリーは度々、Bさんが暗にぼくのネパール行きを進めているような言い方をするがどういう事なのか。Bさんは直接ぼくに逃げろとは言えない、マリーを通してぼくに伝えているようにも思える。単なる彼女の作り話なのだろうか。ネパールへ行けばパスポートでもトラベル・ドキュメントでも大使館は交付する事が出来る。2度も問題を起こし、これからも厄介な問題を起こす可能性のあるぼくに、どういう形であろうとインドから消えて貰いたいと思っているのかもしれない。
 1月2日に出発すれば15日までは100パーセント安全だと思っている。ぼくが1度、出頭をキャンセルした時、その週の木曜日に裁判所に行ったがまだ動きはなかった。
 問題はそれ以前にある、無事に印・ネの国境が抜けられるかだ。国境で捕まったら全てはそれで終わりだ。100パーセント成功するという保障はどこにもない。何度もバックパックを背負って通ったスノウリの道はぼくを通してくれるだろうか、どうなるのか誰にも分からない。ぼくは1度インドのイミグレの前を通り過ぎた事がある、見逃してしまいそうな小さな事務所だ。そのままインドに入って行けば密入国になる。パスポートとビザを持っていたぼくは引き返し事務所で入国のスタンプを押して貰った。
素通りするぼくに気づかなかったのか、故意に通したのか、ノープロブレムのインドでは何が起こるか分からない。
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ジャンキーの旅      薬物後遺症と心の傷・・・45

2012-09-16 | 3章 デリー中央精神病院・入院記録

南インド、ミナークシ寺院 奥の院ダンシング・シバ

    12月23日(土)(入院して20日)
 
 夕方になってマリーが来た。ばくは昨日考えたことを詳しく彼女に説明した。裁判所への出頭日は26日と1月2日だ。退院後、直ぐに出発するより準備もあるので1週間後の方が良いだろうと意見は一致した。同行してくれるネパール人はフィリップスに頼んで捜してもらう、彼への連絡はマリーがする。退院後、直ぐネパール人に会えるよう手配を頼んだ、心当たりがあるらしい。
「カトマンズでパスポートを作る時、偽名を使った方がいいよ」
彼女のアドバイスだ。以前、ネパールへ逃げた奴が同名でパスポートを作り、カトマンズでネパール警察に逮捕されたらしい。捕まった奴はデリー中央刑務所へ護送された。高い金を払って保釈され無事ネパールに着いて、刑務所へ逆戻りしたのでは堪ったものではない。ネパールはインドの一部と考えておいた方が良い。
 1月4日、カトマンズに着いたらスンダルに会い、直ぐ警察署へ行き盗難証明書を発行してもらう。デリー裁判所による逃亡者の新聞告示はたぶん2週間以後になると思われる。告示があった時には別名でパスポートを作りビザを取っておけば心配はない。しかしあまり長くカトマンズにいるのは危ないかもしれない。最近、2ヶ月の間に3名がネパールへ逃亡している。以前の国境は甘かったが国境警備は厳しくなっているだろう、予測できない問題がありそうだ。
 マリーは偽名を使えというが、そんな事が簡単に出来るのだろうか。名前や生年月日と本籍の確認が出来なければ大使館はパスポートを交付しないだろう。彼女の話ではネパール・ジャッジ(とマリーは言った、イミグレの事務官の事か)がどこでビザを収得したか、どこから入国したかを確認するらしい。ビザの発行記録と入国記録を調べるのか、これはまずい。ビザは外国語学校の手続きのときカトマンズで収得しているが有効期限は切れている。入国記録だが密入国した場合は入国記録は残らない。パスポートが手に入ってもビザがなければ出国は出来ない。次々と難しい問題が出てくる。いろいろ考えていると心臓がどきどきしてきた。今から、そんな気の弱いことでは何も出来ないぞ。何だか今夜も眠れそうにない、上手くいくと良いのだが。

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ジャンキーの旅      薬物後遺症と心の傷・・・44

2012-07-24 | 3章 デリー中央精神病院・入院記録
 1週間、遅らせて出発するという案を考えてみよう。国境の町スノウリは抜けられると思っている、インドからネパールへ1本道だ。もし通りでヒンディー語なりネパール語で話し掛けられた時はどうする、外国人であることを見破られる危険性がある、どうしてもネパール人の助けが必要だ。1月3日に裁判所へ出頭して、その日の夜行列車で国境へ向かう。1月4日ゴラクプール着、夕方まで時間を潰し暗くなって国境を抜ける。1月5日朝にはカトマンズに着く。次の出頭日は1月10日だろう、これをキャンセルする。インドの日本大使館からネパールの大使館へ連絡が入るのは10日以降になる、その時点でぼくは既にパスポートを入手している。この計画がベターだ。そうするとデリーには1週間滞在することになる。夜行列車の切符の手配もある。信頼できるネパール人の助っ人を探さなければならない、1週間は準備するに丁度良い日数だ。ぼくにとって最後のデリーになるかもしれない。
 病院には1度くらい通院して安心させておいても良い。とにかく早くマリーに会って正確な出頭日を確認したい、それによって逃亡日を決める。出頭したその夜に出発するのが一等良いだろう。よし、先が見えてきた、これでいける。前方に何かしら薄日が差してきた、もうひと頑張りだ。

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ジャンキーの旅      薬物後遺症と心の傷・・・43

2012-07-20 | 3章 デリー中央精神病院・入院記録
 少し身体が動くようになるとスタッフをやりたくなる。100gくらい持ってカトマンズへ逃げようか、スタッフが切れたらどうする、デリーへ買出しには行けない。また1ヶ月禁断に苦しむのか、中毒だな死ぬまで止められないかもしれない。しかしカトマンズで新しいパスポートが手に入ったとしても安全ではない。超大国インドはネパールを自国の一つの州くらいにしか考えていない。インド警察の捜査はカトマンズに及ぶだろう。ネパールを早く出国しなければならない。やはり退院したら直ぐネパールへ逃亡し帰国するしかスタッフを断つ方法はない。
 夕方、ドクターの往診があった。退院の件は概ねドクターの了解を得た。26日にBさんの面会がある、ドクターとぼくの3名で話し合って最終的な退院日が決まるだろう。年末は大使館も忙しいのではないだろうか、だとすれば27日の退院が有望だ。直ぐ出発すれば正月はカトマンズで迎えられるかもしれない、そうなると良いな。来年1月3日が裁判所出頭日のようだが、これをキャンセルする。裁判所か警察から大使館へ連絡が入るのは何日頃になるだろうか。まだ問題は残っている、パスポートの件もある。
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ジャンキーの旅      薬物後遺症と心の傷・・・42

2012-07-18 | 3章 デリー中央精神病院・入院記録
   12月22日(金)(入院して19日)

 体調が良くないのは分かるけど、もう少し状況を良く考えてくれよ。明日23日~25日まで大使館は休館になる。年内に大使館が通常勤務をするのは26日~28日の3日間だけだ。その間に退院する事が出来なかったら年明けの1月5日までの入院が確実になる。あと2週間もこの病院に足止めされるなんて、思っただけで本当に頭がおかしくなりそうだ。症状の回復は65パーセントぐらい、欲しい薬は痛み止めと睡眠薬だ。退院したインド人のように通院しても良い。インド人の話では食事なしの大部屋で、1日の入院費が千ルピーの請求だったらしい。ぼくは特別個室だからもっと高い金額になる、無駄な出費だ。大使館が開いている最終日の28日の退院でドクターの許可を得なければならない。
 午後、事務室へ行った。
「大使館のBさんへ電話をしたい」
シスターは迷っている。ドクターの指示がないと勝手に出来ないのかもしれない。
「Bさんと大切な話しがある。電話を掛けなさい」
ぼくの強い態度にシスターは受話器を取り上げた。
Bさんは電話に出てくれた。だが彼にとって好ましい電話ではない様子が電話口から感じられる、だがぼくは引くわけにはいかない。年内の退院についてはドクターから良い感触を得ている、それと退院後のぼくの計画について話したい事があると伝えた。
「退院後のぼくの計画」
この言葉はBさんを動かした。26日の面会の約束を取り付けた。Bさんの面会まで後3日ある、その間に逃亡計画を作り上げなければならない。
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ジャンキーの旅      薬物後遺症と心の傷・・・41

2012-05-07 | 3章 デリー中央精神病院・入院記録

  
  12月21日(木)(入院して18日)
 
 アユミはもういない。冷たい隙間風がぼくの病室に吹く、また一人ぼっちになった。それで良い、そうして生きてきた。
 退院したインド人が外来で来ていた。前庭の椅子に座り頻りに生欠伸をしている。禁断から完全に回復していないのだ。夜、眠れないのだろう、ぼくには良く分かる。
 アシアナで薬物治療を受けた50日間、ぼくは眠っていない。恐らくこの話は誰も信用しないだろう、どこかで必ず眠っているはずだと。身体の痛みは禁断の初期から日数と共に変化する。初めは膨らはぎ、次は腰それから背中の痛みになる。1人の時は辛い、ベッドの上に丸みのある薬ビンを置き、仰向けに寝て痛い部分を押し当て転がる。最後に肩にくるがもしこの痛みがなかったら眠れただろう。
 アシアナのベッドで目を瞑り眠ろうとすると右肩と首の付根が疼きだす。左右の手を替えては揉み解す。楽になるのはその時だけで、手を放すとまた疼きだす。我慢が出来なくなると水浴場へ行き、汲み置きの冷水を肩に流す、冷たさが肩の疼きを麻痺させる。震える身体を毛布で包む。身体が温まる前に眠りたい、温まるとまた肩が疼き始める。諦めて周りを見ると同じ様なインド人が天井を見詰めている、お互いの目が合うと黙って合図を送る。眠れないのはぼくだけではない、ぼくは少し安心する、眠れる奴は幸せだ。刑務所内のアシアナでは薬物治療はしてくれるが睡眠薬まではくれない。
ぼくは病院の文句ばかり言っていたが、良く考えてみると精神病院は楽だ。痛みを感じないで眠れる。眠っている8時間は何も考える必要はない。
 子供の頃のぼくを思い出していた。若い父や母と姉がいた。兄弟で遊んだ小川、あの頃は楽しかった。

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ジャンキーの旅      薬物後遺症と心の傷・・・40

2012-04-25 | 3章 デリー中央精神病院・入院記録
 病院で働いているインド人の運転手と掃除人それにコックのラウラシカが勝手にぼくの病室に入って来る。ぼくが眠っていようがお構いなしだ。奴ら3人でテレビの人気番組を見ては騒いでいる、奴らに暇な時間が多過ぎるからだ。インドにはカースト制度がある、それが彼らの仕事を限定する。トイレや病室の汚物等を掃除するのは、そのカーストの者で他の仕事をしてはならない。食事を担当するラウラシカは食事以外の仕事をしてはいけないのだ。インド人の入院患者の食事は家族が毎日、持って来る。ティーは朝と午後の2回、全員に届けられる、が病院食を食べているのはアユミが退院した今ぼく1人だ。今日も奴らがぼくの病室に入ってくると直ぐテレビのスイッチを入れた。ラウラシカはコックで食事の匙加減を握っている。ぼくは奴に少し借金があるし必要なタバコやビリ等の買い物を奴に頼むしか方法がない。出来れば奴との摩擦は避けたいと我慢してきたが、今日は頭に来た。テレビの電源コードを引き抜き
「チョロ、チョロ、チョローイ」
と3人とも追い出してやった。後はどうとでもなれ、とぼくの鼻息は荒かった。
 12~3才ぐらいの女の子が母に連れられて入院してきた。夕方まで子供に付き添っていた母親は家庭の用事もあるだろう、子供に良く言い聞かせて帰ろうとする。廊下を駆けて母を追う少女はナースに引き戻された。泣いて泣いて、何度も何度も母を追った。引き裂かれた少女の心。ぼくは悲しかった。曇り空、ちょっと肌寒い1日だった。
 夜8時を過ぎた。アユミは今頃ニューデリー国際空港で搭乗手続をしているのかもしれない。明日の朝は日本か、若いという事は良いことだ、まだ何でも出来る。それに比べこのおっさんは後、何年生きていられるのだろうか、何が出来るというのか。良い事は自分で引っ張り込む、そう思って生きていれば好転するかもしれない。もう1度、退院の件ドクターに頼んでみよう。あぁ、それにしても歯が痛い。スタッフをまたやるだろうな、やりたいな、素面でいると辛すぎる。ネパールへ逃げてパスポートを作る、ビザが取れたら心が落着くだろうな。そしたら粉がなくてもやっていけるかもしれない、早くそうなりたいな。
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ジャンキーの旅      薬物後遺症と心の傷・・・39

2012-04-19 | 3章 デリー中央精神病院・入院記録


   12月20日(水)(入院して17日)

 以前から薬の量を減らしてくれるようドクターにお願いしていたが昨日から薬の量が半分になった。そのせいだろうか昨夜は寝ようとベッドに横になると歯が痛み肩と首の付根が疼き出した。痛みは一晩中続き眠れない、薬を減らすのはまだ早かったようだ。早く退院したいぼくはドクターの問診に
「順調に回復している。2~3日中には退院したい」と答えた。
身体の動きは少し良いようだがまだ肩の痛みは取れていない、当然だろう入院して17日しか経っていない。ピーターが言っていたが長い時は2ヶ月以上、痛みと不眠が続き気が狂いそうだったと。いつ終るともしれない禁断症状が続くと神経が擦り切れてしまう。
 ぼくは退院したら自分の意志で自由に生きたい、と粋がってみても大使館に首根っこを押えられている。何て馬鹿な事をしてしまたのだろう、大使館口座を使うなんて。日本では今頃ぼくの引き取りの為の親族の説得が行われているのかもしれない。ドクターはぼくの入院期間を最低1ヶ月間と考えているようだ。それは大使館との話し合いによるものだろう、だとすれば退院は年を越して来年1月初旬になる。今年の正月は刑務所で過した。その時、来年の正月はどうしても娑婆で迎えたいと強く願った。9月23日、釈放されたにも関らず2ヶ月足らずでこのざまだ。そろそろ何か良い事があっても罰は当るまい。
 歯の痛みが続いている。きつい痛みが左目の奥まで感じる、今夜も眠れないだろう。12月だというのにモスキートが沢山いる。小さな鼠がちょろちょろ走り回って陽の当らない寒々とした病室だ。
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ジャンキーの旅      薬物後遺症と心の傷・・・38

2012-04-12 | 3章 デリー中央精神病院・入院記録
   12月19日(火)(入院して16日)

 スタッフをやっていた時は感じなかったが、こうしてスタッフを断って現実に戻っていくと何かしら孤独感に囚われる。日本に帰っても待ってくれる人もいない、自分の家庭も自分の部屋も残っているものは何もない。孤独の淋しさを思う。どうしてこんな歳まで生きてしまったのか、そして又これから先、何年生き続けなければならないのか。毎日同じ事ばかり書いている、同じ事ばかり考えている。精神病院のベッドの上でぼくは苦しむ。
 入院して16日目になる。禁断からの回復は50パーセントぐらい、後2週間で抜け切れるのか。これからどうするかは、その間に考えよう、粉をやるのかどうか今は何とも言えない。ただここまで苦労して粉を断ってきたのだから切り抜いてしまいたい。
 今日は久し振りに身体を洗った。気分は少し良いのだが自由のない病院生活にストレスが溜まる。ドラッグをやっていれば淋しさなど感じない、スタッフは少しずつ人間を殺していく。刑務所に収監された11ヶ月間はそれがあったから耐えられた、スタッフをやり続ければ日常の苦悩など感じないですむ。粉が脳を破壊しているのをぼくは知っている。毎日少しずつ殺していくのならそれはそれとして今の自分に相応しいようにも思える。『人間失格』のダダイズムか。病院での1日がだらだらと過ぎ去って行く。やはり粉をやるしかないのか、現実を直視し苦悩しながらも強く生きていく、それだけの気力がぼくにあるだろうか、ある様には思えない。しかしどうしてこんなに重く暗い日々が続くのか、いつまで。
 アユミは昨日から外出していた。グリーンGHに置いてあった荷物の整理や、大使館と帰国のための話し合いがあったようだ。明日、20日夕方のフライトで帰国することが最終的に決まった。アユミとぼくは最後の夕食をした。言葉は少ない。タバコを一服すると彼女はぼくの部屋から出て行った。廊下にアユミの足音がする。アユミの旅はここに終った。
 
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