ガンジス・河の流れ

インド・ネパール。心の旅・追想

ジャンキーの旅          アシアナ(医療監房)・・・・・13

2013-01-24 | 2章 デリー中央第4刑務所アシアナ

 2回目の二ナの面会は女性らしく差し入れは下着や衣類、洗面用具、食べ物等と精一杯の現金インド・ルピーだった。
「トミー第一刑務所へ戻ってもアフリカンを信用しないで、スリランカ人グループにトミーの受け入れの手筈はとってあるわ」
とアドバイスをしてくれた。
 12時の施錠後二ナから差し入れられた衣類や食べ物を整理していた時、1人のネパール人が近寄って来た。
「少し着る物を分けてくれないか」
彼は半袖シャツ一枚しか持っていなかった。デリー刑務所では収監服のような衣服の支給はない。ぼくも逮捕されたときに着ていた長袖のシャツと薄いインド綿のズボンしか持っていなかった。アシアナに収容されて1週間は過ぎただろう下着の洗濯も身体を洗う道具もなかった。今日やっと下着や冬用のジャンバー等が手に入った。人に分け与える程の余裕はない、断った。
 ネパール人の後姿は淋しそうに見えた。誰も自分のことで精一杯なのだ。ある寒い朝、毛布で身体を覆い外へ出て来たネパール人は模範囚からそれを剥ぎ取られた。毛布をそのように使う事は禁止されていた。デリーに出稼ぎにでも来ていたのだろうか、家族や知人の面会もない、刑務所での生活は彼にとって厳しいものであったに違いない。
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ジャンキーの旅          アシアナ(医療監房)・・・・・12

2013-01-17 | 2章 デリー中央第4刑務所アシアナ
 

 アシアナに収容されて数日が過ぎた。朝のティーが終わって前庭の掃除を手伝っていると事務官からメイン・ゲートに行けと指示された。アシアナのゲートの中から外を見たことはあるが出るのは初めてだ。ゲート前の堀には橋が架けてあり下は小さな水の流れがあった。門を出ると左右に延びる一本道、どの方向がメイン・ゲートなのか分からず戻ろうとすると刑務官が手振りで道を教えてくれた。どうしてメイン・ゲートに行かなければならないのか不安があった。警察に逮捕され刑務所に入った経験は今までない、パールガンジ警察署での取調べは2日間だけでその夜デリー刑務所に護送された。本格的な厳しい取調べはここで行われるのだろうか。そんなことを考えながら歩いて行くと第4刑務所のセンター前広場に出た。大きな鉄扉の左端下に潜り戸がありその前に立ち扉を叩いた。覗き窓が開く
「ジャパニーだ」と言うと直ぐに潜り戸が開けられた。
中に入ったぼくに刑務官は一つの通路を指して「チョロ」と言った。
通路を進むと別の刑務官が中に入れと顎で合図をした。薄暗い部屋の中に入ると前面に金網が見える、注意深く見るとそれは床から天井まで鉄格子に張り付けてあった。警戒しながら部屋全体の状況を判断しょうとしたとき左の方に人の気配を感じた。小さな声で
「トミー」とぼくの名を呼ぶ、初めて聞く声ではない聞き慣れた声だ。声の方に目を向けた。声は少しずつ大きくなり
「トミー、トミー、トミー」
とぼくの名を呼びながら近づいて来るのが分かった。
「二ナ」
そう言ったきりぼくは言葉を失った。二ナの面会だった。1ヤードを隔てた二重の金網の向こう、ニナは身体をあずけた金網を両手で握っていた。涙が頬に流れ
「何故、どうしてなのトミー」
「どうして、どうして、分からないわ」
「二ナ、ぼくの事は心配するな。二度とここへ来てはいけない。君の事は何も喋ってはいない」
二ナにとってぼくとの面会は非常に危険な行為である。ジャンキー・ニナ、ぼくの大切なガールフレンド。
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ジャンキーの旅          アシアナ(医療監房)・・・・・11

2013-01-16 | 2章 デリー中央第4刑務所アシアナ



「寝ろ」
と指示を受けていたから眠ろうと努力をするが周囲のざわめきは終わりそうにない。消灯になれば静かになるだろうと思っていたが決まりがあるのだろう2~3ヵ所消しただけで全体の明るさに変化はなかった。皆、眠れないのだろうあっちこっちで話し声が続いていた。
 何故、扇風機を止めないのだろうか、そう思いながら毛布に包まって寝ていたぼくは何やらもぞもぞと動くものを感じた。蚤か、その程度の虫だろう大した事はないと思ったが翌日、英語が分かりそうなインド人に聞いてみた
「ライスだ」と言う、虱か。
蚊、蚤、南京虫、咬みつく蟻、サソリそれに蛭、嫌な虫は一応体験済みだ。虱は初めてだがそれほどの事はないだろうと思っていた。だがこの日から毎夜、虱の攻撃に晒された。身体中赤い斑点だらけになり掻き破った皮膚から汁が出だした。日中、日向に座ってインド人がズボンを裏返し縫い目の部分を爪で潰していた。近寄って見ると白っぽい卵が隙間なく産み付けられていた。それは想像を超えている、あり得ない現実に鳥肌が立ち吐きそうになった。
 ぼくは薬務員に事情を説明し患部を見せ改善と薬を支給してくれるようお願いしたが何もなされなかった。翌日ぼくは事務室に呼ばれ
「お前は外国人だから特別だ」
そんな意味の言葉の後、処方された薬を渡された。ドラッグに溺れアシアナに収監されている多くのインド人は低カーストの出身者だ。一人だけ肌の色がそんなに黒くないインド人がいた。首の皮膚まで症状がでているのを見てぼくは
「薬を貰ってこいよ」
と言ったが奴は首を横に振った。後で奴を見ると何処で手に入れたのか消毒液のようなものを塗っていた。
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ジャンキーの旅          アシアナ(医療監房)・・・・・10

2013-01-13 | 2章 デリー中央第4刑務所アシアナ
 

暫らくすると鉄格子の出入り口に患者が集まり出した。同じベッドの上で横になっていたインド人が
「ジャパニーチョロ」
というように合図をした。出入り口に行くと鉄格子の外に机が置かれ薬務員が座って投薬の準備をしている、座って待っていると最初に名前が呼ばれインド人に背中を押され鉄格子の前に進んだ。立っていると薬務員が手を出せという仕草をした。鉄格子の間から右手を出すと薬が手の平に置かれ、それを全部口に含むと横から水の入ったコップを渡された。飲み終わると
「口を開けろ」
と薬務員は自分の口を大きく開けた。ぼくも口を大きく開け舌を巻き左右に動かし残らず薬を飲んだという仕草をした。
「ベッドに戻って寝ろ」
眩しい裸電球の下で眠る事など出来ないだろう、もう直ぐ十一月だというのに天井の扇風機は回り続けていた。毛布を引き上げ肩まで包み込んだ、眠りは全てを忘れさせてくれる。禁断に入って身体の痛みが一番激しい時なのだが全身を襲う痛みは感じない、薬が効いているのだろう。日中は施設の治療スケジュールがありティー、食事そして投薬と時間の区切りがあって何とか時間をしのぐ事が出来る。夜は何もない。重い身体で眠りに救いを求めようとすると拒否される。遅々として進まない長い夜の時間を耐え続ける苦痛。
睡眠導入剤が処方されていたのだろうか少しまどろんでいた。それを引き戻したのは冷たく震える物をぼくの身体が感じたからだ。
「タンダー、タンダー」
というインド人の声を聞いた。毛布に潜り込んだインド人は温かいぼくの身体に身を寄せた。気味が悪くなりぼくは寝返りを打った。暫く震えていたインド人も温まってきたのか身体の力が抜けて眠りに入ろうとしているようだった。
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ジャンキーの旅           アシアナ(医療監房)・・・・・9

2013-01-10 | 2章 デリー中央第4刑務所アシアナ
 夕方6時施錠された。患者は全員病棟にいる。病棟の真中を巾2ヤードぐらいの通路があり両サイドに10台のベッドがあった。患者数はベッドの数だと20名だが約半分のベッドにはぼくのように2名で共有している所がある。それとベッドの間を寝床としている患者も10名程いる。はっきりした数は分からないが大体40名ぐらいの中毒患者が入所しているのではないだろうか。ベッドの上で横になっても眠れる訳ではないうつ伏せになって周りを見ていた。ベッドの上に座ってぼんやりしている者、横になって動かない者、人が集って賑やかなベッドがある。どうして手に入れたのかバナナや菓子類を皆で食べていた。そんな人が集った別のベッドの方からインドの歌が聞えてきた。通路に毛布を敷きその真中に歌い手が座っていた。あぐらを組んだ膝元にアルミ製で直径40cmぐらいあろうかオイル缶の蓋のような食器が伏せて置いてあった。インドの打楽器タブラを代用しているのだろう歌に合わせ時に激しく打ちつけた。インドの民謡だろうか生で聞くのは初めてだが中々の歌い手だ。興に乗ったインド人達は手拍子をとり通路に出て踊り出した。足はリズムをとり両手は頭の上で指を鳴す。歌が終ると次の歌い手が指名されその彼がまた雰囲気を盛り上げた。病棟内でこんな大声を出し打楽器を鳴らして大丈夫だろうかと心配になったが事務所からは何の注意もない。そんな大らかなインドが好きだ。

(建築はイギリス統治時代ではないだろうか? ヤードだとぼくのイメージと寸法が合う)
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ジャンキーの旅           アシアナ(医療監房)・・・・・8

2013-01-09 | 2章 デリー中央第4刑務所アシアナ
 水浴が終った者から莚を敷き始めた、午後のティータイムだ。ティーはゆっくりとだが全部飲んだ。アシアナに入所して2日目、次は何をするのか全く分からない。見よう見まねで彼らの後について行くしかない。皆と一緒に玄関フロアーに座って待っていると午後の投薬が始まった。粉薬はない。薬は患者名が書かれたプラスチック・ケースに用意されていた。薬剤師から渡されたケースを薬務員はカルテの薬名と照合し一個ずつぼくの右手の平に置いていった。5~6種類のカプセル、錠剤は大きく飲み難かった。ぼくの後から投薬を受ける患者達の薬の量は段々少なくなった。回復に向かっているのだろう。投薬が終ると前庭にカーペットを広げたような形で莚を敷き適当な場所に皆座っていた。暫らくするとマダムが玄関に現れ見回すと一人の患者に何かひと言いった。彼は急いで玄関に入り椅子を持って出て来た。置かれた椅子にマダムはゆっくりと腰を掛け別の患者を指名した。彼は前に出て皆に向かって
「メロ・ナム(私の名前は)・・・」
と自己紹介し何かを喋り始めた。恐らくどうしてスタッフをやり始めたのか、その時の生活はどうだったのか、逮捕されアシアナで治療を受けスタッフをやめる事が出来た、二度と薬物はやらない。マダムを前にして更生した自分を嘘でも良いから表現しなければならないのだろう。したたかなインド人中毒者がその程度で悔悛し更生するとは思えないが。それが終ると患者の間から質問が出され質問がなくなると彼は次の患者を指名した。このミーティングは中毒治療の一環である。1日5回の水浴と投薬はアシアナの長い治療経験によるものだろう。
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ジャンキーの旅           アシアナ(医療監房)・・・・・7

2013-01-07 | 2章 デリー中央第4刑務所アシアナ
 

午後3時の開錠時間が分かるのだろうか、出入り口に収監者が集り監房の外を覗いている。鉄格子の扉が開けられ外に出てもこの病棟の周りを歩く事ぐらいしか出来ない。乾燥し赤茶けた外周、あるのは井戸と水浴槽だけ。彼らが監房の指示で作らされたのだろう小さな花壇。
 開錠されると鉄扉の前にいた者達は急ぐようにして外に出て行った。見ると彼等は水浴槽で楽しそうに水浴びをしていた。聖なる河ガンジスで沐浴する時、男性は腰巻を着用しなければならない。ここでは全員素っ裸である。黒い肌に二握りもありそうな黒いペニスをさらけ出していた。ヒンズー教の シバは創造と破壊の神である。シバ神の化身がリンガつまりペニスである。気候の厳しいインドでは強い生命力を持った者しか生き残る事は出来ない。寺院に祭られたリンガを前にして女性達は強い生命を授かりたいと祈る。創造の源、強く大きいペニスは誇らしげに見えた。
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ジャンキーの旅           アシアナ(医療監房)・・・・・6

2013-01-04 | 2章 デリー中央第4刑務所アシアナ
 前庭に莚を敷き始めた。朝と同じように中通路を挟んで壁側と向かい合うように各1列。やけに親切なインド人がいた。
「メロ・ナム・サンジ」
おれの名前はサンジだと自己紹介をした。ぼくのことを皆はジャパニーと呼ぶ。食器プレートとコップふたり分を持って来てジャパニーここに座れと自分の隣を手で叩く、莚を引っ張って行ってサンジの隣に座ると食器とコップをぼくの前に置いてくれた。食器プレートは横長方形40×30cm位、12時施錠前に食事を終らせなければならない。11時半頃には食事が運び込まれた。プレートを前に置いて待っていると模範囚がバケツをさげて素早くお玉一杯のサブジとダルを食器に入れていく、プレートにはそれぞれ入れる場所が決まっている。主食は好みによってライスかチャパティを選ぶがライスとチャパティのハーフ・アンド・ハーフもあるようだ。それは前もって模範囚に希望を伝えておかなければならない。全員に食事が行き渡るとヒンディ語で何を言っているのか分からないが日本風に言うと「いただきます」で食事が始まる。目の前の食事を見ただけでまったく食べられそうになかった。横で忙しそうに食べているサンジに食べられないから欲しいだけ取ってくれ
「アイ・キャント・イート。カナ・トラ・トラ」
と訳の分らない英語とヒンディ語で説明をした。ぼくの食事はほんの少しだけ残してサンジのプレートに移されたがそれでも少し残った。
「ノープロブレム」
サンジはこの言葉だけは知っているのか英語でぼくを慰めてくれた。ぼくはインド人が食べ物を残しそれを捨てるという場面を想像出来ない。ましてここ刑務所内においては皆、空腹なのだ。今朝ぼくがトーストを食べられないで隣の人にあげたのをサンジは見ていた。やけに親切なサンジは食べきれないぼくの昼食を狙っていた。別にぼくは構わない夕食も無理だろう。4日間何も食べていない身体は持ち堪えることが出来るのだろうか。鉄格子をガンガンと打ち鳴らす金属音がした。昼食後の散歩をしていた収監者達は病棟へ向う。入口で頭数のチェックが行われていた。各々自分のベッドや寝場所に戻った。暫らくの間ざわめいていたが昼食後の軽い眠りに囚われたのだろう静かになった。天井でゆっくり回る扇風機の羽根を見ていた。何かを考えようとしたが何も浮んで来ない。絶望の壁を通り過ぎ生きる可能性の糸口さえ見失ってしまうと思考は停止してしまうのかもしれない。
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ジャンキーの旅           アシアナ(医療監房)・・・・・5

2012-12-29 | 2章 デリー中央第4刑務所アシアナ


朝、鳴き声を聞いた鳥だろうか高い塀の上の有刺鉄線に羽根を休めさえずり、飛び去っては戻って来た。前庭から見た空は高い塀と病棟の建物に囲まれ狭い。あの6月の熱で切裂くような研ぎ澄まされた青はない、10月終りの少し優しい空は晴れていた。右の方に小さな黒い影のような物が目に入った。高い空を飛んでいる一羽の鳥か?じっと見ているとゆっくりと動いている。鳥じゃないだろう高度が高過ぎる飛行機・・・
「飛行機?」
と思いながら再びそれを見るとぼくは起き上がった。高度を上げているジェット機じゃないか、少し前10時の投薬があったのだから今10時半頃だろう。ロイヤル・ネパール・エアー、デリー発カトマンズ行き、フライト・タイム10時。25日朝、薄暗い留置場の天井を見つめながら10時の飛行機に乗れるのだろうか、エアーチケットはどうなるのか、そんな心配をしていた。今ぼくはここアシアナにいる。見上げる空に3日前ぼくが乗る筈だったジェット機が高度を上げながらカトマンズへ向って飛んでいる。あれはカトマンズ行きに違いない。高度とスピードを上げながらジェット機は左の空に小さくなって消えた。
 青い空だけが残った。もう考えるのはよそう、この巨大な組織の壁の前でなすべき事は何もない。生きている今を、生きてしまっている今を自ら拒否することはない。生きることの厳しさがぼくの生を拒否するのならそれはそれとして良しとするしかない。
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ジャンキーの旅           アシアナ(医療監房)・・・・・4

2012-12-21 | 2章 デリー中央第4刑務所アシアナ
午前中の陽射しはそんなに強くはない、前庭に莚を敷いて横になる。バラックの中にはベッドの数よりも収監者の方が多く、かなりのベッドには二人ずつ寝ていた。そこからあふれた者はベッドの間のコンクリートでしか寝る場所がなかった。ぼくは一人のインド人とベッドを共有することになった。昨夜も眠れなかったに違いないのだが強い身体の痛みは感じなかったし、ベッドの上を転がったり通路を動き回った事もなさそうだ。ひどい疲労感と頭の中にガスが溜まったような不快感はあるが涙も鼻水も流れてない。下痢をしてない、これは4日間何も食べていないからかもしれない。時々、脳内を切裂くように光る稲妻も今のところはない。
何度も粉を断った事があるがその苦しさに死んだ方がましだと思ったこともある。スタッフをやり始めた頃、あるジャンキーから
「1ヶ月やったら1ヶ月粉を断つ。長く続けると切り抜けるのが大変だ」
と教えられてそうしていた。粉が手に入る場所では絶対に粉は切れないそれが出来ない遠くの町へ移動した。北インド、ヒンズー教の聖地リシケシで何度か粉を切った。デリーから200km、禁断がどんなに苦しく粉を欲しがっても8時間バスに乗ってデリーまで粉を買いに行くことは不可能だ。そのうち1ヶ月やって1ヶ月苦しむのは得策ではない、1年やって苦しむのは1回だけその程度ならまだ現実への回帰は可能だろうと思った。
逮捕されて25日と26日は私服のポリから1日1回、粉を与えられていた。完全な切りに入ったのは27日から、今日で2日目だ。一番苦しい時なのに前庭に莚を敷いて横になりぼ~とデリーの青い空を見ている。アシアナのようなドラッグ中毒者専門の施設で治療を受けるのは初めてだ。どういう薬を使っているのか、どのくらいの日数で抜けるのか、完全に抜け切るには粉を使った年月だけ必要だと聞いた事がある。考えてみれば何ヶ月掛かろうと何年掛かろうと
「大使館が言う、ミニマムで10年の刑」
より長い事はないだろう。どの道この刑務所からは出られないのだ。日中、40度を超える熱暑のインドの夏を10回も生き延びて出所の日を無事迎えられる事など有り得ない。明日から先の事を自分で考える必要など何もないのだ、自分では決められないのだから。だったら全て施設に任せて治療を受けていれば良い、中毒から抜け出せるかもしれない、費用はインド政府が支払う。長いスタッフ中毒の治療から何とか解放されたからといって自由になるという訳にはいかないのが欠点だが。
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