これまでの記事
・自然の力、生命の力、肯定の力(1)~動的平衡part.1
<宇宙の秩序>
福岡さんの本を読むと、現代的な教育を受けた僕らは「生命とは何か?」の答えを見つけたような気がしてしまいます。
つまり、「物」と「生き物」とを分けるのは動的な「流れ」を持つか否かなのだ!と。
では、少し視野を広げて、もっと大きなスケールの動的平衡の世界を覗いてみましょう。
シェーンハイマーはマウスの実験で、僕らの体を構成している分子がプラモデルのような静的なパーツではなく、動的な「流れ」を持っているという発見をしました。
ところが、実はそれよりもずっと巨大で画期的な発見を僕らはもともと知っています。
それは「この宇宙そのものが、絶え間ない分解と再構成のダイナミズムの中にある」という事実です。
僕らの体の細胞が絶えず「更新」されていたように、海や空も分解と生成の絶えることのない流れの中にあり、地面だってそこで生きる動植物や微生物たちの働きによって、常に更新され、変化する環境の中でバランスを保っています。
また僕らが普段、完全に静的な「物」として扱っている文明の利器でさえも100年も持てばよい方で、すべてはやがて土に海に還る「流れ」の中の存在であり、どんなに背伸びをしたって自然の循環の一部に過ぎません。
それどころか、地球さえも45億年後には膨張する太陽に飲み込まれて消滅するであろうこともわかっていますし、同時期には僕らの住む天の川銀河が、となりのアンドロメダ銀河と衝突し、粉々に砕け散ってしまうこと、それを材料として、また新しい銀河が生まれるであろうこともわかっています。
このように、この宇宙に存在するあらゆるものが、この消滅と生成の「流れ」の中にあり、それを免れるものはただのひとつとして存在しません。
そして、その動的な流れそのものを「生きている」と言うのであれば、まさしく、この宇宙全体が「生きている」と言えるのです。
つまり、静的な宇宙の中に、動的な「生命」が存在するわけではなく、全体として動的な宇宙の中に、人やネズミといった「大きさの秩序(=生命)」が存在するということであり、僕らが「物」と呼んでいるものも、「生き物」と呼んでいるものも、この動的な流れの同じ円周上にあり、そこに境界線を引くことはできません。
生命が環境の一部であるというヒントは、環境もまた生命なのであるという答えであり、この「物」と「生き物」とを分け隔てる境界線とは、実際には人の心の中にのみ存在する、便宜上の架空のものなのです。
この、「宇宙(自然界)そのものが生きている」という考え方は、大地をアスファルトで覆われ、巨大建造物の日陰で暮らす現代人にとっては、現実味の無い突飛な考え方に思えるかもしれません。
実際ぼくらは普段食べているものも、使っている道具も「どこでどのように造られ、どこにいくのか」も知らないのです。
ところが、自然の循環の中で暮らしていたかつての日本人にとって、これはごくあたりまえの考え方でした。
なにしろ食べるものも、生活に使う材料も全て身近な自然から取ってきて、また全て自然に還す、という完全循環型の暮らしをほんの150年前まではしていたのですから、そんな生活では人と自然、物と生き物とに線引きをする、ということの方がよっぽど強引で理に適わないのです。
この、森羅万象を大宇宙と相似形の小宇宙と考え、「万物に神が宿る」と考える東洋思想、日本人の考え方は、人と自然と神様とを分断し、順位づけした西洋近代文明=迷える現代人の、失くした心の最重要ピースなのです。
⇒西洋文化における自然と神様の位置づけ
<万物皆兄弟>
信じられないことですが、僕らの体を構成する60兆個と言われる細胞は、元はといえば、たった一つの細胞が分裂を繰り返してできたもの、つまり、元ひとつの兄弟なのです!
そして、元をひとつとする兄弟だからこそ、それぞれの細胞同士が完璧にシンクロし、無言のままに連携プレーを取り合い、人体という小さな宇宙の秩序を保つことができているのです。
そして同じように、僕らの暮らす宇宙もまた、元をたどればほんの小さな1点であることが様々な観測結果によって証明されています。⇒ビッグバン仮説
信じられないことですが、僕らが見ている、人も食べ物も、石も車も、全ては同じ材料でできた元を同じとする兄弟なのです。
だから、この宇宙に存在するあらゆるものが、目には見えぬネットワークによってつながり、知らず知らずのうちに互いに連携プレーを取り合っていたとしても不思議なことではないのかもしれません。
(続く…)