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「シビアウェザーと農業」
中学生になって、授業で環境問題というのを人類が抱えていることを知りました。
気になって調べていくうちに、すでに現時点で、人類のこの大量消費のライフスタイルは行き詰まっていて、先が見えている。どのみち、いつかどうにかしなくてはいけない状況であることがわかってきました。
その時のメモや参考文献などを振り返ってみると、今言われていることと驚くほど変わっていません。
「今動かなくては取り返しのつかないことになる」は、20年以上も前、その時すでに言われていて、こうなることはわかっていたのです。
そんな「未来の無い未来」の事実を知った当時の私は
「これは大変だ!テストのための役にもたたない勉強なんてやっている場合ではない!
何よりも最優先で、みんなで考えて行動しなきゃだめだ!」と大騒ぎ。
ところが不思議なことに、同級生も先生も世の中の大人たちも、その事実を知らされておきながら平気な顔をしているのです。
これは、私にとって全く理解のできないことでした。
「きっと誰かがなんとかしてくれる
新しい技術が出来てなんとかなるだろう
そういう難しいことは、頭のいい人達が考えてくれるから自分には関係ない」
そんな空気が、確かにそこにはありました。
これは環境問題だけでなく、あらゆる物事に対して、社会全体が自分の未来を人まかせにしているのです。
みんな切り立ったガケに向かって突き進む暴走列車に乗っている。なのに楽しそうに”変わらぬ日常”を送っている。
知らぬが仏、どころか知っているのに仏状態。
自分はそんな境地になれるほど「大人」ではありませんでした。
そしてまわりがそんなだから、より一層危機感は募るわけです。自分が何とかしなきゃ!!
と、思いつめていた矢先、世界各地で、自然保護を訴える人たちのテロが起き出します。
あまり知られてはいませんが、その時期、日本で起きた、世界を震撼させた大事件も、同じような考え方の人たちが起こしたものだったのです。
それらを見て、急速に冷めていく部分がありました。自分がこのまま進もうとしている方向は、なにか違う。
そして卒業アルバムに、想いを込めた一言を書き残し、高校に入ってからはぴたりと口に出さなくなりました。
世間に対する諦めの気持ちと、結局はすべて自然のやることだ、という気持ちと共に、自分の中でしまっておくことにしたのです。
そして、結局はあの時思っていたとおりになったのです。
そして、今や私は、家族を持ち、息子を授かり、次世代の暮らす社会を作っていくべき、責任ある年齢に達しているのです。
自分は、やっぱりこの事実に向き合わなくてはいけないんだ。もう一度向き合う時期がきたんだ!
と、思っていた矢先、あるニュースが飛び込んできました。
グレタ・トゥーンベリさんの国連気候行動サミットでの演説のニュースです。
続く…