これまでの記事
・自然の力、生命の力、肯定の力(1)~動的平衡part.1
・自然の力、生命の力、肯定の力(2)~動的平衡part.2
・自然の力、生命の力、肯定の力(3)~あいまいな量子part.1
・自然の力、生命の力、肯定の力(4)~あいまいな量子part.2
・自然の力、生命の力、肯定の力(5)~あいまいな量子part.3
・自然の力、生命の力、肯定の力(6)~元素転換part.1
・自然の力、生命の力、肯定の力(7)~元素転換part.2
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<科学的証明とは?>
科学的に証明されているか否か、これは現代においてそれが「事実であるかどうか」を示す、最も一般的な方法となっています。
では、実際のところ、近代科学的な証明とは何で、科学にはどこまで自然界を「証明」することができるのでしょうか。
科学的証明に必要な条件には、詳しくはリンク先を見てもらうとして、一般的には次のようなものが求められます。→科学的方法Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%91%E5%AD%A6%E7%9A%84%E6%96%B9%E6%B3%95
1. 定量性:量れるかどうか=数字に置き換えられるかどうか
2. 再現性:同じ条件で同じ実験をして同じ結果が得られるかどうか
3. 正確さ:精密な実験器具による正確な実験と測定
第一に、証明の対象が測定できなければ(数字に変換できなければ)話になりません。近代科学的な意味では、比較することも実証することもできないからです。
逆に言えば、数値に置き換えることの難しい「心」や「生命」など観念的なものや総合的なものは近代科学ではうまく取り扱えないのです。
実際に、東洋医学の「気」やその通り道である「経絡」などの概念も、二千年以上の歴史と実績を持ちながら「科学的根拠がない」という理由で、明治の近代化政策以降、医学として認められなくなってしまいました。
第二に、「正確な事実」を立証するために、近代科学は自然界に「誰が何度やっても同じ結果が出る」ことを要求しました。
ところが自然界に「こうすれば必ずこうなる」という再現性のないことは、百姓なら誰でも知っています。
例えば、同じミカンから採った同じくらいの大きさの種を同じ場所から採った土で同じ場所で同じように育てたミカンは果たして同じ形に育ち、同じ数の実を実らせるでしょうか?
そんなはずはありません。なぜなら自然界には全く同じ種も全く同じ土も全く同じ環境も存在しないからです。
逆に言えば、その再現性の無さこそが、生命の生命たる所以であり、ぼくらがこの世界を生きた世界として体感できる理由なのです。
第三に、近代科学が古典的な科学に対してもっとも誇りに思うのは自分達の勝ち取った「正確さ」です。精密な実験器具の発達は近代的な正確な実験を実現させました。
ところが「あいまいな量子」の項で述べたように、究極に正確な測定の実現で解ったのは、皮肉なことに、自然界の持つ本質的なあいまいさ、不正確さだったのです。
そして、その不正確さこそがこの宇宙を創り、保ち、動かしていることが明らかになったのです。
そしてそんな究極の話しを別にしたとしても「正確な測定」に必要な、余計なものの一切無い整った環境条件とは、実験室で人工的に造りだす以外は、自然界にはありえないのです。
では、最新の自然科学を自負する近代科学の扱っている自然とは一体何なのでしょうか?
というわけで、今度はミカンの種を可能な限り粉々にしてみましょう。
あるいは、燃やしてしまっても構いません。
そうして元タネは、死んで単なる原子の集まりになると、環境を整えられた試験管の中で科学法則通りのほぼ100%の定量性や再現性を見せるようになります。
つまり、近代科学がその成立の際に扱った対象は、生きた自然(生命)でなく、死んだ自然(物)だったのです。
ところが、近代科学の扱う範囲が自然界全般にわたるにつれて、植物や人体に対する薬の効き目など、再現性の乏しい生命自然現象に広く対応するために
4. 統計的、客観的にみて確かだと言えるもの
という昔ながらのあいまいな証明方法が必要になってきました。
結局のところ科学の近代化も、自然界というお釈迦様の手のひらの内側の出来事だったというわけなのですが、この時点で、当初の近代科学が掲げた「誰にとっても100%の事実」の目標はあって無いようなものになってしまいました。
なぜならこの方法では、ある人から見れば統計的に客観的に確かであると言える出来事でも、別の人から見ればそうでないということがおきてしまうのです。
で、実際「科学的に証明された事実」の歴史を振り返ってみると、誰もが証明していたものが後に間違いだと解ったもの、個人的には証明されていたのに何十年も認めてもらえずにいたものなど、科学的事実は時代と共に絶え間なく更新されていることがわかります。
そして、それぞれの科学的事実は、それぞれの時代の人々にとっては確かに揺るぎない事実だったのです。
そう考えると、今信じられている科学的事実こそ絶対の真実である、という人の考え方はかなり保守的なのかもしれません。
そして、科学的事実とは結局のところ、その時代に多くの人に信じられている事実、「時代の定説」に過ぎないといえるのかもしれません。
<自然科学から物理科学へ~分析という手法>
このように近代科学が、無限の複雑さを持つ自然界を有限な数式の中に収めるためにとった方法が、自然界をバラバラにして調べる「分析」という方法です。
ところが「生きている」とは、その”つながり”や”関わり合い”そのものであり、バラバラにした時点で、そこに転がっているのは死んだ自然でしかないのです。
そして、部分的な働きをどんなに正確に数式化したところで、それは実験室の外でも部分的にしか役にはたちません。
近代科学は、部分への正確な理解と引き換えに、全体の繋がりやバランスへの理解を失って、目先だけの解決や、問題を先送りにすることしかできなくなってしまったのです。
もし時間がある方は、ためしに肥料や栄養学の考え方のもとになっている元素分析の方法を見てみましょう。
→元素分析、植物の元素分析
実は科学者たちは、実験によって、自然界が物質元素の組み合わせのみで成ることを「発見」したわけではなく、はじめから自然界が物質元素のみで成ることを前提とした実験手法(=近代科学的手法)によって、そのことを「証明」したに過ぎないのです。
そして元素革命から200年後の2003年、“世界は元素でできている”どころか、物質元素(原子)が宇宙全体に占める割合は4%ほどに過ぎないことが最新の観測で「科学的に証明」されてしまいました。
村山 斉著『宇宙は何でできているのか(2010年、幻冬舎新書)』p.44より
(”測定できない96%”に対する科学者のネーミングセンスが光ります。)
http://www.gakushikai.or.jp/magazine/archives/archives_875.html
このように、近代科学の成り立ちや手法を冷静に振り返ってみることで、それが自然作用のうちの「物理法則」としての一面だけに特化したものであり、自然を自然のまま見ることができないのに、自分が”最新の自然科学”だと思っている自意識過剰気味の新入りであることがわかってしまいました。
近代科学自体は間違いではないのですが、近代科学だけが唯一の正しい自然界の見方であると考えることは間違いなのです。
そして、生命のもつ可能性や永遠や無限といった数字の外側の概念に目を閉じ、宇宙自然界を有限な法則の中に収めようとする旧式の物理科学には、閉塞していく、終わりに向かう未来しか予測することはできません。
そればかりか、自然界が単に物の集まりであるという前提で生まれた近代科学は、その理論の有効性を示すために大地や人体から生命力を奪う、という本来の科学の目的とは逆の事をしているのです。
つまり、自然界から生命力を奪うことで、人類は自然界をコントロールできるようにはなった。
ところが、環境の生命力を奪うことが、その環境の一部である人類の生命力をも奪うという、あたりまえのことには気が付かなかったのです。
そもそも、そのすべてのはじまりは、人と自然とが別個のものである、という考え方に由来しているのです。
<人、自然、神の分極~人類の近代化>
古代、まだ科学も哲学も宗教も芸術もあらゆる「智」が一つだった頃、自然界とは人知を超えた無限に深遠なものであり、それを人の手でコントロールしようとすることなどバカげていると思われていました。
ところが、時の支配者が自然界の営みを唯一の神の手によるものであると説明するようになり、それを強要するようになると、人々が自然界に対して抱いていた畏敬の念は唯一の神に対するものへとすり替えられ、本来季節の変わり目などの、自然への感謝や祈りの祝日だったものも、経典上の登場人物の記念日などに置き替えられてしまいました。
それらの宗教は、世界を神の支配する人と、人の支配する自然界の上下関係のピラミッド構造であると教えました。
また、世界を絶対的な何かと何かとの対立であると教え、万象を善と悪に、人々を信者と非信者に、あらゆるものの間に境界線を引き、人と自然、人と人とを切り離し、人生のあり方を自立から依存へと変えてしまいました。
宗教は、死後の世界やこの世界(宇宙)の仕組みなど、誰にも確かめることのできないこと、つまり間違いを指摘することのできないことを真実として捏造し、失うことを恐れる人々の無知に付け込み、神(教祖)に従順な人々をつくります。
人が「誰にでも証明できる確かなもの」を求めるようになったのには、そんな宗教による支配や搾取の歴史背景もあるのかもしれません。
政治(法律)と宗教(神の教え)が結びついたとき、大ウソを堂々と民衆に強要させ、生活をコントロールすることなどたわいもないのです。
この話を他人ごとのように聞いている人がいたら、日本が神の国の大日本帝国を自称して戦争をしていたのがほんの60年ほど前の出来事であることを思い起こしていただきたいのです。
そんな独自の唯神教政策を行うようになるより以前、「自然」と「絶対の神」とをすり変える宗教は、歴代の日本の統治者にとっても悩みの種で、結局は鎖国という苦肉の策をとらざるを得ないほどでした。
そうしていろいろあって、今や僕ら日本人も1500年前にローマで設定された西暦(AD、主の年に)という時代の中に生きているのです。
<木を見て森を見ず>
あらゆる“近代的なもの”の抱える欠点は、“木を見て森を見ず”の一言で言い表すことができます。
目先のおびただしい数の問題に気を取られて、それらが全体として抱える根本的な問題点や解決法を見出せずにいます。
僕らはこの世界が、無数の独立して存在する、個別のものの組み合わせで出来ていると教わってきて、無意識にそういう目で物事を見てしまいます。
ところが実際には、個別のものは全てが繋がっているために、それぞれが別々に存在しているのではないのです。
木の本性は森であり、森の本性は木なのです。
この『個は全であり、全は個である』という全く当たり前の世界観を取り戻すことで、旧くも新しくもない本来の時代へと、いつでもどこでも誰にでも踏み出すことができるのです。
すべてが一つの世界観は、楽観的な思い過ごしでも、現実味の無い夢想でも何でもなく、むしろ「自分」と「自分以外」で成る世界こそが非科学的な思い過ごしなのです。
自分の体、人生の本性が宇宙全体であると気づくことで、すべては無くなり、すべてが現れるのです。
(いつかどこかに続く…?)
・自然の力、生命の力、肯定の力(1)~動的平衡part.1
・自然の力、生命の力、肯定の力(2)~動的平衡part.2
・自然の力、生命の力、肯定の力(3)~あいまいな量子part.1
・自然の力、生命の力、肯定の力(4)~あいまいな量子part.2
・自然の力、生命の力、肯定の力(5)~あいまいな量子part.3
・自然の力、生命の力、肯定の力(6)~元素転換part.1
・自然の力、生命の力、肯定の力(7)~元素転換part.2
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<科学的証明とは?>
科学的に証明されているか否か、これは現代においてそれが「事実であるかどうか」を示す、最も一般的な方法となっています。
では、実際のところ、近代科学的な証明とは何で、科学にはどこまで自然界を「証明」することができるのでしょうか。
科学的証明に必要な条件には、詳しくはリンク先を見てもらうとして、一般的には次のようなものが求められます。→科学的方法Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%91%E5%AD%A6%E7%9A%84%E6%96%B9%E6%B3%95
1. 定量性:量れるかどうか=数字に置き換えられるかどうか
2. 再現性:同じ条件で同じ実験をして同じ結果が得られるかどうか
3. 正確さ:精密な実験器具による正確な実験と測定
第一に、証明の対象が測定できなければ(数字に変換できなければ)話になりません。近代科学的な意味では、比較することも実証することもできないからです。
逆に言えば、数値に置き換えることの難しい「心」や「生命」など観念的なものや総合的なものは近代科学ではうまく取り扱えないのです。
実際に、東洋医学の「気」やその通り道である「経絡」などの概念も、二千年以上の歴史と実績を持ちながら「科学的根拠がない」という理由で、明治の近代化政策以降、医学として認められなくなってしまいました。
第二に、「正確な事実」を立証するために、近代科学は自然界に「誰が何度やっても同じ結果が出る」ことを要求しました。
ところが自然界に「こうすれば必ずこうなる」という再現性のないことは、百姓なら誰でも知っています。
例えば、同じミカンから採った同じくらいの大きさの種を同じ場所から採った土で同じ場所で同じように育てたミカンは果たして同じ形に育ち、同じ数の実を実らせるでしょうか?
そんなはずはありません。なぜなら自然界には全く同じ種も全く同じ土も全く同じ環境も存在しないからです。
逆に言えば、その再現性の無さこそが、生命の生命たる所以であり、ぼくらがこの世界を生きた世界として体感できる理由なのです。
第三に、近代科学が古典的な科学に対してもっとも誇りに思うのは自分達の勝ち取った「正確さ」です。精密な実験器具の発達は近代的な正確な実験を実現させました。
ところが「あいまいな量子」の項で述べたように、究極に正確な測定の実現で解ったのは、皮肉なことに、自然界の持つ本質的なあいまいさ、不正確さだったのです。
そして、その不正確さこそがこの宇宙を創り、保ち、動かしていることが明らかになったのです。
そしてそんな究極の話しを別にしたとしても「正確な測定」に必要な、余計なものの一切無い整った環境条件とは、実験室で人工的に造りだす以外は、自然界にはありえないのです。
では、最新の自然科学を自負する近代科学の扱っている自然とは一体何なのでしょうか?
というわけで、今度はミカンの種を可能な限り粉々にしてみましょう。
あるいは、燃やしてしまっても構いません。
そうして元タネは、死んで単なる原子の集まりになると、環境を整えられた試験管の中で科学法則通りのほぼ100%の定量性や再現性を見せるようになります。
つまり、近代科学がその成立の際に扱った対象は、生きた自然(生命)でなく、死んだ自然(物)だったのです。
ところが、近代科学の扱う範囲が自然界全般にわたるにつれて、植物や人体に対する薬の効き目など、再現性の乏しい生命自然現象に広く対応するために
4. 統計的、客観的にみて確かだと言えるもの
という昔ながらのあいまいな証明方法が必要になってきました。
結局のところ科学の近代化も、自然界というお釈迦様の手のひらの内側の出来事だったというわけなのですが、この時点で、当初の近代科学が掲げた「誰にとっても100%の事実」の目標はあって無いようなものになってしまいました。
なぜならこの方法では、ある人から見れば統計的に客観的に確かであると言える出来事でも、別の人から見ればそうでないということがおきてしまうのです。
で、実際「科学的に証明された事実」の歴史を振り返ってみると、誰もが証明していたものが後に間違いだと解ったもの、個人的には証明されていたのに何十年も認めてもらえずにいたものなど、科学的事実は時代と共に絶え間なく更新されていることがわかります。
そして、それぞれの科学的事実は、それぞれの時代の人々にとっては確かに揺るぎない事実だったのです。
そう考えると、今信じられている科学的事実こそ絶対の真実である、という人の考え方はかなり保守的なのかもしれません。
そして、科学的事実とは結局のところ、その時代に多くの人に信じられている事実、「時代の定説」に過ぎないといえるのかもしれません。
<自然科学から物理科学へ~分析という手法>
このように近代科学が、無限の複雑さを持つ自然界を有限な数式の中に収めるためにとった方法が、自然界をバラバラにして調べる「分析」という方法です。
ところが「生きている」とは、その”つながり”や”関わり合い”そのものであり、バラバラにした時点で、そこに転がっているのは死んだ自然でしかないのです。
そして、部分的な働きをどんなに正確に数式化したところで、それは実験室の外でも部分的にしか役にはたちません。
近代科学は、部分への正確な理解と引き換えに、全体の繋がりやバランスへの理解を失って、目先だけの解決や、問題を先送りにすることしかできなくなってしまったのです。
もし時間がある方は、ためしに肥料や栄養学の考え方のもとになっている元素分析の方法を見てみましょう。
→元素分析、植物の元素分析
実は科学者たちは、実験によって、自然界が物質元素の組み合わせのみで成ることを「発見」したわけではなく、はじめから自然界が物質元素のみで成ることを前提とした実験手法(=近代科学的手法)によって、そのことを「証明」したに過ぎないのです。
そして元素革命から200年後の2003年、“世界は元素でできている”どころか、物質元素(原子)が宇宙全体に占める割合は4%ほどに過ぎないことが最新の観測で「科学的に証明」されてしまいました。
村山 斉著『宇宙は何でできているのか(2010年、幻冬舎新書)』p.44より
(”測定できない96%”に対する科学者のネーミングセンスが光ります。)
http://www.gakushikai.or.jp/magazine/archives/archives_875.html
このように、近代科学の成り立ちや手法を冷静に振り返ってみることで、それが自然作用のうちの「物理法則」としての一面だけに特化したものであり、自然を自然のまま見ることができないのに、自分が”最新の自然科学”だと思っている自意識過剰気味の新入りであることがわかってしまいました。
近代科学自体は間違いではないのですが、近代科学だけが唯一の正しい自然界の見方であると考えることは間違いなのです。
そして、生命のもつ可能性や永遠や無限といった数字の外側の概念に目を閉じ、宇宙自然界を有限な法則の中に収めようとする旧式の物理科学には、閉塞していく、終わりに向かう未来しか予測することはできません。
そればかりか、自然界が単に物の集まりであるという前提で生まれた近代科学は、その理論の有効性を示すために大地や人体から生命力を奪う、という本来の科学の目的とは逆の事をしているのです。
つまり、自然界から生命力を奪うことで、人類は自然界をコントロールできるようにはなった。
ところが、環境の生命力を奪うことが、その環境の一部である人類の生命力をも奪うという、あたりまえのことには気が付かなかったのです。
そもそも、そのすべてのはじまりは、人と自然とが別個のものである、という考え方に由来しているのです。
<人、自然、神の分極~人類の近代化>
古代、まだ科学も哲学も宗教も芸術もあらゆる「智」が一つだった頃、自然界とは人知を超えた無限に深遠なものであり、それを人の手でコントロールしようとすることなどバカげていると思われていました。
ところが、時の支配者が自然界の営みを唯一の神の手によるものであると説明するようになり、それを強要するようになると、人々が自然界に対して抱いていた畏敬の念は唯一の神に対するものへとすり替えられ、本来季節の変わり目などの、自然への感謝や祈りの祝日だったものも、経典上の登場人物の記念日などに置き替えられてしまいました。
それらの宗教は、世界を神の支配する人と、人の支配する自然界の上下関係のピラミッド構造であると教えました。
また、世界を絶対的な何かと何かとの対立であると教え、万象を善と悪に、人々を信者と非信者に、あらゆるものの間に境界線を引き、人と自然、人と人とを切り離し、人生のあり方を自立から依存へと変えてしまいました。
宗教は、死後の世界やこの世界(宇宙)の仕組みなど、誰にも確かめることのできないこと、つまり間違いを指摘することのできないことを真実として捏造し、失うことを恐れる人々の無知に付け込み、神(教祖)に従順な人々をつくります。
人が「誰にでも証明できる確かなもの」を求めるようになったのには、そんな宗教による支配や搾取の歴史背景もあるのかもしれません。
政治(法律)と宗教(神の教え)が結びついたとき、大ウソを堂々と民衆に強要させ、生活をコントロールすることなどたわいもないのです。
この話を他人ごとのように聞いている人がいたら、日本が神の国の大日本帝国を自称して戦争をしていたのがほんの60年ほど前の出来事であることを思い起こしていただきたいのです。
そんな独自の唯神教政策を行うようになるより以前、「自然」と「絶対の神」とをすり変える宗教は、歴代の日本の統治者にとっても悩みの種で、結局は鎖国という苦肉の策をとらざるを得ないほどでした。
そうしていろいろあって、今や僕ら日本人も1500年前にローマで設定された西暦(AD、主の年に)という時代の中に生きているのです。
<木を見て森を見ず>
あらゆる“近代的なもの”の抱える欠点は、“木を見て森を見ず”の一言で言い表すことができます。
目先のおびただしい数の問題に気を取られて、それらが全体として抱える根本的な問題点や解決法を見出せずにいます。
僕らはこの世界が、無数の独立して存在する、個別のものの組み合わせで出来ていると教わってきて、無意識にそういう目で物事を見てしまいます。
ところが実際には、個別のものは全てが繋がっているために、それぞれが別々に存在しているのではないのです。
木の本性は森であり、森の本性は木なのです。
この『個は全であり、全は個である』という全く当たり前の世界観を取り戻すことで、旧くも新しくもない本来の時代へと、いつでもどこでも誰にでも踏み出すことができるのです。
すべてが一つの世界観は、楽観的な思い過ごしでも、現実味の無い夢想でも何でもなく、むしろ「自分」と「自分以外」で成る世界こそが非科学的な思い過ごしなのです。
自分の体、人生の本性が宇宙全体であると気づくことで、すべては無くなり、すべてが現れるのです。
(いつかどこかに続く…?)