これまでの記事
・自然の力、生命の力、肯定の力(1)~動的平衡part.1
・自然の力、生命の力、肯定の力(2)~動的平衡part.2
・自然の力、生命の力、肯定の力(3)~あいまいな量子part.1
・自然の力、生命の力、肯定の力(4)~あいまいな量子part.2
<すべてはひとつ ~色即是空 物心一如 梵我一如~>
今まで物理学、科学の世界では、「現象」とそれを「観測する」ということを、別のものとして考えてきました。人は自然界を外側から観ている、自然現象とは別の存在だととらえていたのです。
量子論が画期的だったのは、現象とは観測者がいてはじめて成立するもので、ありのままの、あらかじめ用意された自然現象なんてものは存在しない、観測者も観測現象の一部であり、そこに境界線をひくことはできない、という新しい認識を物理学に持ち込んだことでした。
自分が影響を与えない「ありのままの自然」なんて存在しない。
自分の周りで起きていること、
自分に対して起きていること、
すべては自分の一部であって「自分」と「自分以外のもの」を分け隔てる境界線は存在しない。
古代、人は物と心、物質と精神は同じ一つの「モノ」の別の状態であり、そこに境界線は引けないと考えました。
そして、この世界、森羅万象とは何か?という果ての無い問いかけに対して、自分の内側の世界と、自分の外側の世界とが同一である、という極めてシンプルな答えに辿り着きました。
振ったサイコロの目にも、めくったカードの絵柄にも、そこには単なるランダムや偶然を超えた「何か」が存在する。
その「何か」を感じ取れるようになった時、人生というギャンブルの面白さは「そこ」にあるのです!
<ありえないことなんてありえない>
あいまいであることから導かれる自然界の持つ本質の一つが「無限の可能性」です。
そのことを現実的に示すものの一つにトンネル効果というものがあります。
これは絶縁体の中の電子がごくまれに絶縁体の外へとすり抜けてしまう現象で、実際にこのことを利用したトンネルダイオードなる電子部品もあるそうです。
信じられないことですが、これは壁に向かって投げたボールが壁をすり抜ける可能性が「全く無い」のではなく「ほとんど無い」だけであることを示しているのです。
可能性が「ゼロ」なのか、ゼロに限りなく近くても「ゼロでない」のかの間には、実に「無」と「無限」との差があるのです。
*トンネル効果について、Wikipediaで解りやすく説明されていました。→(11/25追記)
さて、この自然界では、科学的に説明のつかないとされる不思議なことが数多く目撃されています。
そのようなことに「科学的根拠が無い」とか、「科学的に言って絶対有り得ない」等と言っている人は、科学について、義務教育に毛が生えた程度の知識しか持ち合わせていないことを暴露してしまっていると言えます。
可能性”0”が存在しないこと、この世界に「ありえないことなんてありえない」ということは科学的にとっくに明らかになっていて、この世界は”科学的に言って、何が起きてもおかしくはない”のです。
そもそも科学法則なんていうものは、先に自然界があって、その中から人間が法則性を見つけてきて、便利に使っているだけであって、その逆ではありません。自然界が人間の考える法則に、必ずしも従ってくれるとは限らないのです。
量子論が明らかにした自然界の真実。
この世界はAという入力をした時にBという出力がされる、というような機械的なしくみではない。
Aという入力をした時、ほとんどの場合はBだとしても、それ以外である”可能性”を必ず残す。
そして、この機械的な正確さでは持ち得ない”可能性”こそが「生きている」ということなのです。
<和をもって尊しとす>
量子論確立の中心的存在となったニールス・ボーアは、量子論が明らかにしたこの世界の根本的な仕組み、相反するものが同時に存在することで、互いに補い合っている仕組みに「相補性」と名付けました。
そして、その相補性の世界観を表すシンボルとして、東洋の太極図を用い、自分の紋章にもこの太極図を取り入れました。
ものが波と粒子の相補性からなるように、電子と陽子、時間と空間、月と太陽、男と女、生と死、この世界は陰と陽の相反する二要素の補い合いで成り立っています。
そしてこの陰陽説と、前出の五行説とを組み合わせて宇宙万象を表す「陰陽五行説」を建国の骨組みとして造られたのが”大和”の国、「日本」です。
(太極図)
<あいまいな日本人>
世界中見回してみても、日本人ほど「あいまいさ」を重んじる文化は無いかもしれません。
というよりは、明治に急ごしらえで近代化、西洋化された為に、中身が昔ながらの自然の循環の中にいた頃のままな所があって、そのギャップが余計にそれを強調させるのかもしれません。
日本人は、とかく白黒はっきりさせるということが苦手です。
それどころか、白と黒の間、これはよく言われるグレーゾーン=灰色ということではなく、白でもあって黒でもある、というような絶妙な所にこそものの本質があり、最も美しい一点であると考えます。
その0と1の間の絶妙な感じ、数字で割り切れない0と1の重ね合わせ状態は、自然界を機械的にとらえる西洋文化の人にはなかなか伝わりきれません。
その日本人のあいまい好きは、同じ楽器が大陸の西と東でどのように変化していったかを見ると、よく解ります。
これは、震災直前のブログ「カンカラ三味線作り」の続きで書こうと思っていたことなのですが、弦楽器でも管楽器でも、西洋にいくにつれて、より正確で美しい音を目指してどんどん改良されていき、その分楽器の構造としては複雑になっていきます。
ところが日本人は、大陸から渡ってきた楽器を、わざわざ音を安定させるための機構(フレット)を取っ払ってしまったり、わざわざノイズが増えるように工夫したりして、あげく日本の笛にはわざと音がずれるものまであったりして、”正確な音階”が信条の西洋音楽からしたら、実にミステリーでクレイジーです。そして、日本人の手にかかると、楽器はどんどんシンプルになってゆきます。
さらに、不安定になる代わりに、弾き手による微妙なさじ加減、力の入れ具合、個性によって無限の音作りができるようになるのです。
特に尺八は、その音作りの無限さにしても、演奏できる倍音成分の周波数の広さ(自然界の音は耳には聞こえない様々な音から成っており、人はそれを体で聴き、無限量の情報を手に入れている)にしても飛びぬけて世界一で、さながら江戸時代のスーパーシンセサイザーです。
西洋人が尺八の音色の多彩さに、内部構造を調べようと割ってみたところ単なる竹の筒でたまげた、なんていうエピソードもあるそうです。
かたやフルート、かたや尺八。
かたやギター、かたや三味線。
外交においては、優柔不断、はっきりしない、と悪い所ばかりに思われがちですが、これからの時代、日本人のお得意の「あいまいさ」こそが新たな時代の価値観を切り開いていくのかもしれません。
<あいまいな量子まとめ>
ここまでのことを読んで「理解できない」「信じられない」と感じたなら、それはごく真っ当な反応だと思います。
なぜならここで書いたことは、僕らが学校で教わった「物の仕組み」とは大きく異なるからです。
僕らは「モノ」はどこまでいっても「物」であり、この世界が静的な部品の組み合わせの機械仕掛けである、という、物の理を誤解していたころの旧い時代の物理学で、すっかり教育されてしまっているのです。
それは、自然界を造り変え、社会の部品としての人生を送るのには好都合かもしれませんが、あるものをあるがままに見る、人本来の「生きた」人生を送る為には余計な知識と言えます。
それでも量子論は、何人かの人のいろんな書き方を読んでみて、はじめて理解できる(というよりは事実として受け入れる)類のものだと思いますので、ご興味を持たれましたら是非ネットや書籍を通していろいろ読んでみて下さいませ!
きっと物理学と、この世界が、もっと好きになると思います。
あいまいで、自由で、いい加減で、不思議な主人公「量子」と、量子でできた”不思議な世界”のお話でした。
『よくわかる量子力学』 夏梅 誠、二間瀬 敏史:著 <ナツメ社>
オビの文面が、物理学の本とは思えません(^_^;)
『図解 相対性理論と量子論』 佐藤勝彦:監修 <PHP研究所> *クリックで拡大
これは解りやすい!物理学の歴史と人類の常識を覆した2大理論をコンパクトに解説!表紙もかっこいい!
『エレガントな宇宙』 ブライアン・グリーン 著 <草思社>
ニュートン力学→相対性理論→量子論、そして究極の統一理論「ひも理論」まで、近代物理学の歴史をエレガントに総ざらい!
(続く…)