僕たちは野菜が腐って当然と思っていたように、人間が病気になるのも当たり前のことと思って暮らしていますが、ふと考えてみると、自然界には病気というものが無いような気がします。
サバンナの象や、山奥のクマが病気で苦しんでいる姿はどうにも想像できません。
悲しいかな、人間と人間が飼う動物、人間が作る作物だけが病気にかかり、苦しみながら生きて、苦しみながら死んでいくのです。
<東洋医学の考える「病気」>
野菜が病気にならないための秘訣は肥料を余分にやらないこと、自然のもつ完璧なバランスを人の手で崩さない、ということでした。
これは実は東洋医学の考え方とも全く一致します。
東洋医学ではあらゆる病気の起こる原因を「バランスの不和」で考えます。
逆に言えばバランスの整った食生活をしていれば基本的に病気にはならない、と考えます。
「聖人は既病を治すのではなく、未病を治す」
これは、中国最古の医学書『黄帝内経』の言葉ですが、東洋医学には病気になる前の状態「未病」という考え方があり、医者の役割とは「病気を治す」ことではなく、「病気にさせない」ことで、「患者を病気にしたら医者の責任」という言葉があるくらいです。
病人が増えれば増えるほど儲かってしまう、西洋現代医学に爪の垢でも煎じて飲ませてあげたいものです!
野菜の病気症状が、土や取り込んだ余分なものの浄化作用だったように、人間の病気症状もまた体のバランスを整えるための大切な浄化作用だと言うことができます。
そして病気とは「どこかのバランスが崩れてますよー」「余分なものが入りましたよー」という体からの重要なサインです。
だから病気を「敵」としてとらえ、そのサインを無視して切り取ったり、薬で無理やり抑えようとしたりして、その原因に目を向けない西洋現代医学のやり方は、長期的にみるとあまり賢い方法とは言えないのかもしれません。
というか、洋の東西問わず、患者が治ってしまっては困る、薬の依存者になって繰り返し手術をしてもらいたい、というお金が主役の現代社会の仕組み自体がおかしいのですが…。
そして、西洋医学では不治の病とされている病気でも、東洋医学の考え方で言えば単なるバランスの不和に過ぎません。癌だって全然不治の病じゃないのです!
そもそも生活習慣病の原因は生活習慣にあるのだから、それを治さずして治るわけがないのです。
病気じゃないのが生き物としての当たり前の状態で、病気は「生活を悔い改めなさいよ」という自然界からのメッセージ、死に至る病はその最後通告です。
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ちなみに、この<東洋医学>に対する<西洋医学>、<東洋文化>に対する<西洋文化>という考え方は実は誤りだということに最近気が付きました。
というのも僕には物事をバラバラに考えて根源を見ない、わざわざ人間を苦しめているような、「西洋的」な考え方がどうにもこうにも不自然極まりなく思えて、どうしてそんな考え方が生まれたのだろう?西洋には東洋的な全体で見る考え方は無いのだろうか?と思っていたら、実はちゃんとあったのです!
ところが西洋では特定宗教が政治的権力を持ってしまい、土着の思想や宗教、自然こそが母であり、父であり、神であるという自然崇拝(アミニズム)信仰が徹底的に弾圧、排除されてしまい、「人間」とその本質である「自然」とが切り離されてしまった。
そうして築きあげられたのが、西洋から始まる人類の目覚ましくも破滅的な迷走の近代史だったのでした。
(その宗教では、この世界を「神の支配する人間界」→「神に似せて造られた人間の支配する自然界」のピラミッド構造であると捉え、人間の身に起きる様々な病や災いを、神の教えに背いた罰であったり、人類が生まれながらに持っている『原罪』に依るものであると説明します。そしてそれは、今でも世界で最も信者数の多い宗教です。)
だからほんとは東洋的と呼ばれている「自然の中の人間」の考え方がもともとの人類共通の考え方であって、西洋的と呼ばれているのは一時代的にそこに生まれた異端の考え方で、今たまたま世界を席巻しているだけのようです。
「東洋~」を「伝統~」、「西洋~」を「近代~」と読み替えてみると解りやすいかもしれません。
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<腹八分目の医者いらず>
ではその健康のための正しい食生活とは何か?
それは一言にまとめるなら「自然に生きる」ということで、つまりそれは「楽」に生きるということです。
人間にとって一番いい状態は、ちゃんと人間が「楽」に感じるようにできているのです。
暴飲暴食を抑えることは「楽」に生きていくための重要なポイントです。
必要以上に取り過ぎた栄養分は転じて万病のもとになります。
食べ物を分解することに体のエネルギーが持っていかれてしまう上に、残った過剰な栄養分は体の大きな負担になってしまいます。これは土に含まれた食べ残しの肥料分が土壌を汚染するのと同じ理由です(詳しくは別の項「メダカの飼い方にみる土壌の酸性化」にて書きます)。
実際穀物中心のバランスのとれた食事をとれば、本当に驚くほど少ない量でも人間はちゃんと健康に生きていけるし、逆に病気にもならないのです。(詳しくは、別の項「玄米一粒の革命」にて書きます)。
ちなみにモンゴル出身の馬頭琴奏者、ハスロー先生いわく
「わたしの故郷には何にもないけど、だ~れも病気しないよ」
とのことです。
<過ぎたるは及ばざる如し~余分に与えず、余分に求めない>
無肥料栽培のことを実家で母に話したら
「じゃあ、あなたたちは無肥料栽培ね!」
と、言って笑っていました。
無肥料栽培とは「余分に与えない」こと。
そしてまさに僕等兄弟(自分+妹1)は余分に与えられずに育ったのでした!
(と、言ってもろくな食べ物が与えられなかった、という意味ではなく、「甘やかされずに育った」という意味です。)
うちは決して裕福な方ではなかったけれども、もともと親が無欲な人たちなので、一般的な感覚からすれば貧乏の部類に入る暮らしぶりだったのかもしれないのだけども、それを不自由に感じたことは一度もありませんでした。
それどころか、そういう家庭に育ったお陰で、幸せがお金の量じゃないことを小さい頃から知っていたし、大人になってからも「無きゃ無いで平気なんだ」と知っているので、とても人生を楽に過ごせています。
この世で一番恵まれているのは欲のない人だ、と年を重ねれば重ねる程思います。
そして、そんな相沢家では家族が病気になるということがほとんど無いのです。
だから僕も今までの人生でほとんど薬を飲んでいないし、病院に行くこともほとんどありません。
馬鹿はなんとやら。気楽に生きるのが一番なのかもしれません。
さて、よく誤解されるのですが、自然農法とは畑を放置する農法ではありません。
余計な手を加えない、とは野菜自身の力を信じて「甘やかさない」ということです。
肥料も与えず、土も耕さない。なぜなら、それらはもともと野菜が自分で出来ることだからです。
野菜が自分でできることは極力手を出さない、その上で日陰になっていたら雑草をどけてあげたり、寒そうにしていたら枯れ草を敷いてあげたり、虫が湧いてしまったらその理由を必死で考える。
常に野菜の声に耳を傾けて、野菜がどうしてほしいのかを考え、愛情をたっぷり注ぎます。
あくまで畑の主役は「野菜」だということ。
自分の所有物と思って、自分が育てているなどという驕りを持って育てず、人間が脇役に徹して育てれば、野菜はちゃんと主役としての風格を携えます。
そうやって野菜自身の力を信じて、育つように育つままにまかせてやれば、野菜は伸び伸びと生命力たっぷりに育ち、やがて思いもよらないような立派な実をつけてくれたりもします。
野菜は肥料を与えられなければ自分で手に入れようと、自分の力で生きる力を身につけます。
僕ら人間もすべてが過剰に足りている世の中で、物質的な便利さに頼って生きることで、人間本来の力をどんどん失っているのかもしれません。
自然農法で育てた作物は病虫害や冷害などで周りの畑が壊滅的な被害を受けている時でも、何事もなかったかのように元気に生育しているそうです。
甘やかされた野菜や家畜は、環境のちょっとした変化にも対応できなくなり、何かのきっかけであっという間に全滅してしまいます。それは、人間にも同じことが言えるのかもしれません。
心を澄ませば、自然界はいつでも僕らにメッセージを届けてくれているのです。
ほうれん草初収穫!!9月末に種まきしたのんびり屋さんをやっと収穫です!
大きくなった葉っぱから摘んでゆきます。なんだか野草を摘んでいるみたい。
よくも立派に…(泣)
ゆでただけのほうれん草をつまみ食いしたら、あまりの甘さ、美味しさにびっくり!手前味噌ですが、こんな美味しいほうれん草を食べたのは生まれて初めてでした。写真もう食べて減ってます。