2023年6月のブルーマウンテ
ンズ2日目。ギネス認定世界
一急勾配の鉄道レールウェイ
で、ジャミソンバレーの谷へ
岸壁の間の200mを降下
今でこそ観光アトラクション
ですが、この線路は19世紀に
鉱山のために造られました。
すべての始まりは「カトゥー
ンバの父」と称されるジョン
・ノースでした。鉱山経験の
あったノースはジャミソンバ
レーで640エーカーを手に入
れ、カトゥーンバ鉱山を設立
し1878年に試掘を始めます。
(※ジョン・B・ノース)
1879年には石炭200kgの塊
を高さ200mの絶壁の上まで
人力で運ばせ、同年のシドニ
ー万博に展示して、州政府か
らシドニーを中心とするニュ
ーサウスウェールズ鉄道への
石炭供給契約を獲得します
政府のお墨付きとなったら、
山師は資本家に大出世。銀行
がこぞって融資をしたのでし
ょう。ノースはすぐさま石炭
運搬用の貨物レールウェイ建
設に着手。シドニーの土木技
師ノーマン・セルフが設計に
あたり工事が始まりました。
元からあった自然のトンネル
を拡張し、平均の傾斜を44度
に保つために岩壁を爆破して
軌道を確保。谷の下から上に
向けて単線が建設されます。
(※拡張された今のトンネル)
1882年単線完成。下の矢印
の左がノース本人だそう。
蒸気で起動するトロッコを稼
働させ、地上から219m下の
炭鉱へのアクセスを確保して
1883年に炭鉱が創業開始。
(※今も残るノースの炭鉱跡)
1883年。周囲の木材を枕木
に複線化が進められました。
同年の年間石炭産出量4万㌧
1884年。複線化が完了し年間
産出量5万㌧に。従業員56人
1888年には半年で6.5万㌧を
産出。従業員は83人と当時
としては破竹の勢いだったの
でしょう。往時の再現があち
こちにあり判りやすいです。
炭鉱からレールウェイまでは
馬が大活躍し“仲間”として大
切にされたそう。御者も鉱夫
の大事な仕事の1つでした。
馬が亡くなると手厚く弔われ
たそうです。常に危険と隣り
合わせの過酷な仕事ゆえ、結
束は非常に強固だったよう。
町の少年たちは14歳になると
父について炭鉱に入り、1つ
ずつ仕事を覚えていったそう
です。しかし、トロッコの操
作は危険で指を失うことも。
坑道の空気の移動を確保する
ために火もたかれ(酸欠になら
ないものなのか←理科音
痴)夏の苦しさはどれほどか
(※今も明かりを灯した坑道跡)
ジャミソンバレーが産出した
のは石炭だけでなく、さらに
下の地層に油頁岩があること
が判り、産出が始まります。
油頁岩とはオイルシェール。
現在はシェールガス採取の技
術が確立され、頁岩の間から
天然ガスを抜き取るそうです
が、当時はプラスチック状
の油頁岩そのものを採掘して
は運び出していたそうです。
そのためにジャミソンバレー
のあちこちをトロッコが走り
(※これも蒸気で起動??)
鉱物資源はレールウェイ下に
運ばれ絶壁を上がりました。
(※下から見るとこの角度)
その後はトラムでカトゥーン
バ駅、そこからは貨物列車で
シドニーへと運ばれました。
最盛期1893年の年間産出量
は油頁岩2.7㌧、石炭4,263㌧
従業員165人に達したそう。
(※当時をしのぶこんな演出)
石炭産出量の激減と従業員の
多さにシェール産出の難しさ
が感じられ、これ以降は収益
性が低下していったもよう。
ジャミソンバレーでは計40ヶ
所の鉱山ができ、最後の炭鉱
の閉山は1930年代でした。
今は人工物も見当たらない、
見渡す限りのユーカリの樹海
取りつくせばそれで終わる、
鉱山の栄枯盛衰を感じます。