ニョニョのひとりごと

バイリンガルで詩とコラムを綴っています

日記 青森の朋友たちが「60万回のトライ」を観に行ってくれました。

2015-03-23 14:32:10 | 日記
  





  2011年7月10,11日と生まれ故郷を探しに平川市碇ヶ関を訪ねた私は、花岡さま、黒滝さま、および支所の皆さまのおかげで生まれ故郷を探すことができました。あの日の感動は今も消えることがありません。

  あれから5年近い月日が流れましたが、恩人たちとの交流はずっと続いていました。秋になれば故郷を忘れないようにと津軽リンゴを送って下さり、どくだみ茶や栗やお米まで送って下さった方々!




  今回コマプレスの案内で「60万回のトライ」が青森で上映されるという嬉しいニュースを得た私は早速青森に連絡を入れました。年度末の決算などお忙しい中、4名の方々が青森まで足を運んでくださいました。







  今回の監督たちとの対面及び、映画鑑賞のため青森県女性同盟の林委員長がご尽力くださったこと決して忘れません。

  夏か秋に青森を訪問する時皆さんにじかにお会いしてお礼を申し上げたいと思います。

  花岡さん、黒滝さんも大変良い映画を見ることができたと有難いメールとこの2枚の写真を送ってくださいました。本当に有難うございます。こうして少しづつ雪が解けて行けば嬉しいなと思っています。

  花束まで準備して下さって本当に有難うございます。

  今日はとても嬉しい日になりました。

  追伸

  コマプレスのパク・サユ監督が写真とメールを送ってくれました。





  舞台の上にあがって頂いて、私とどこで繋がったのかという話をしていただいたそうです。なんかすごく恐縮しています。


  又サユさんが私の生まれ故郷の駅の写真も撮って送ってくれました。懐かしいです。








  有難うサユさん、トンサさん。


  それから青森の皆さん、本当にありがとう。生まれ故郷に帰ってきたような喜びを感じた日になりました。
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日記 姜輝鮮朝鮮舞踊研究所の練習風景を観に行ってきました。

2015-03-23 00:24:10 | 日記

姜輝鮮朝鮮舞踊研究所の練習風景を観に行ってきました。





リハーサルは29日、本公演ー第33回発表会は31日の6時半、クレオ大阪中央で開演ですが、司会進行を務めるにあたり、子供たちの表情が見たくて行って参りました。



すべての作品に朝鮮舞踊の心と歴史を感じました。素直で、一生懸命な子供たちの姿に練習なのに何回涙したか知れません。


踊りはうわべの美しさだけではありません。民族の魂、民族の心が込められなければ…


2歳から30年間通った方も出演されます。おしめも外せなかった3歳の時から通って今回独舞を踊る方もいます。





15歳の時に先生と舞踊の世界で巡り合って50年の歳月を共にしました。今からワクワクしています。










御年70歳を迎えられた今も舞踊一筋の人生をひたすら歩んでおられる先生を尊敬します。


 新しい物も良いですが、人生の年輪が凝縮された本物の舞台を是非皆さんに見ていただきたいですね。



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我が家の春とお弁当シリーズ10回目(最終) 孫弁当35,36,37,38(232回目)

2015-03-21 13:15:37 | グルメ
 2,3日、春のような陽気が続きました。我が家にも春を呼ぶ花たちが新芽をつけ、アーモンドの花は恥ずかしげに花びらを広げ始めました。





 今から5年前、末息子の15回忌の日に大阪城公園の植木市で苗木を購入し、育てているものです。








  前の家から持ってきた花たち





  前の家の同じ長屋の田中さんが、6年前株分けしてくださった弁慶草が今年も新芽をつけました。秋にピンクの小花を咲かせます。





  夏に真紅の大きな薔薇を咲かせます。3年前の秋に孫の家の近くのおばぁさんに、咲き終わった薔薇の枝を一本いただいて育てました。

  まさかその並びに引っ越すことになるとは・・・


2階の小さなベランダにも春が訪れました。新芽が一杯つきました。





 右側の姫リンゴの木は7年前、夫の還暦の日に「共に40年」というファミリーコンサートを開いたとき、京都の詩人金里博さんがお祝いに持ってきてくださった木です。毎年花を咲かせ可愛い実をつけます。でも酸っぱい・・・


3月17日 孫弁当35






3月18日 孫弁当36





3月19日 孫弁当37





3月23日 孫弁当38(通算232回目)1人はお誕生会なのでお弁当いらず、細かく刻んでスファの離乳食にしました。





  4月からはお弁当が三つになりますが。お弁当シリーズはこの10回目で一応終わろうと思います。

  いつの日か又腕を磨いて皆様にお会いいたしますね。長い間見て下さって有難うございます。
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「新たな出発」をして5年の月日があっという間に過ぎ去りました。

2015-03-18 19:58:49 | 詩・コラム



  2010年4月1日「新たな出発」をして5年の月日が流れました。

  昨日、今年の卒業生からのプレゼントを頂きました。初2,3年の時期、毎日2時間半一緒に過ごした子供たちが3分の2います。

  色紙の文と写真を見ながら、5年前再出発した日のことを思い出しました。新報に掲載された随筆です。日本語の訳は2年後にしました。長いですがよろしかったら読んで下さいね。



(5年前の写真)

随筆
     「新たな出発」
                     

 2010年4月1日、この日は特別な日になった。28年間通った故郷の家のような東大阪朝鮮中級学校での教員生活を《卒業》し、大阪朝鮮第4初級学校の学童指導員として、新たな出発をしたからである。

 胸いっぱいに希望を抱きウリハッキョの門をくぐった愛らしい新入生たちと園児たちを見ながら知らぬ間に笑みがこぼれた。

 私が第4初級学校で働くことになったのは偶然だけど必然であったのかも知れない。それは、40余年前私が歌舞団員であった若かりし頃,カヤグム(伽耶琴)の指導員として初めて配属されたところが此処、第4初級学校であったからである。

 2年足らずの短い間だったけれど学生たちと過ごしたその日々を、今もはっきり覚えている。生まれて初めてカヤグムの練習をしていて指先に水ぶくれができたと大騒ぎをしていた幼い子供たちの指に絆創膏を貼ってあげながら、今は痛いけれどこの水ぶくれが乾いて固くなる頃には、必ず上手になっているよと、なだめながら練習を続けた日々.

何ヶ月間も練習して遂にカヤグム併唱曲を舞台にあげ、拍手喝采を浴びた学芸会、カヤグム独奏コンクールに出演する学生を連れ、たった二人で東京まで行った日のこと、時には少年団のキャンプにもついて行き子供たちと一緒にカレーを作ったり、先生たちが釣ってきたタコを調理して食べたり笑い声が絶えることのなかったキャンプの思い出┅

その頃カヤグム部に属していた一人の教え子がその後、3人の娘さんの母になり、夢のように私の目の前に現れ、思いがけない再会をした日のこと、その娘さんたちに国語(朝鮮語)を教え高級部に送ったのも、すでに10年も前のことだ。

 学童保育を受け持った理由はそれだけでは無い。14年前まで末の息子が通っていた<じゃがいも学童保育所>が第4初級から5分とかからない場所にあったのだ。障害のある子も無い子も、朝鮮の子も日本の子も共に過ごす学童保育所があったお蔭で重度の重複障害を抱えていた私の息子にも放課後行く場所ができたし、私も教員生活を続けることができたのだ。

 養護学校に通っていた末息子は、下校後10年間をこの学童保育所ですごした。通学バスの停留所まで迎えに行き、学童保育所に預けた後また職場に戻り、仕事を続けた日々、私が仕事でやむなく迎えに行けなかったときは学童の指導員たちが迎えにいってくれたし、彼らが忙しいときは、地域の青年同盟の人たちが交代で迎えに行ってくれた。学童指導員たちと青年同盟の人たちが助けてくれなかったとしたら教員生活を続けることはできなかったはずだ。

 定年退職を迎えた日、家族や周りの人たちは、これからはゆっくり休めば良いと云ってくれたが私はやるべきことをやり切れなかったという想いを拭いきれないでいた。まさにそんな時、学童指導員を募集しているという話を聞いたのだからこの偶然にどれほど感謝をしたかも知れない。

 これはまさしくお星さまになった末息子が感謝の気持ちを忘れず、僕の分まで恩返しをしてくださいと願っているように思え喜んで引き受けたのだ。

 初級部低学年の学童保育参加生33名!

 過ぎ去りし日、じゃがいも学童の指導員たちが私の息子を本当の弟のように見守ってくれたように、私もこの子供たちを実の孫のように見守って行こう。おやつは何にしょうかなぁ?朝鮮の昔話は何から聞かせようかなぁ、宿題もちゃんと点検してやらねば、私が大好きなドッチボールも一緒にしなきゃあね。

 新たな出発をした私の胸は、青春時代に帰ったように、ひたすらときめいている。

     作 2010年4月1日 (訳 2012年1月9日)





수필
         [ 새 출 발 ]

                     
2010년 4월1일,이날은 특별한 날이 되였다.28년간 다닌 고향집같은 히가시오사까조선중급학교를 ≪졸업≫하고 오사까조선제4초급학교 학동보육지도원으로 새출발하였기때문이다.

 가슴가득 희망을 안고 배움의 꽃대문에 들어선 어여쁜 신입생들과 원아들을 보느라니 저절로 웃음꽃이 피였다.

 내가 제4초급학교에서 일하게 된것은 우연이지만 필연이였는지도 모른다.그것도 그럴것이 40여년전 내가 가무단에서 활동하던 애젊은 처녀시기 가야금소조지도원으로서 처음 배치된 학교가 바로 이곳 제4초급학교였기때문이다.

 2년남짓한 짧은 기간이였지만 학생들과 지낸 그 나날은 지금도 기억에 생생하다.난생처음 가야금을 다루다가 손가락에 물집이 생겨 울며불며 하던 어린 학생들에게 반창고를 붙여주면서 지금은 아파도 이 물집자욱이 마르고 딴딴하게 굳어질 무렵이면 반드시 잘 다루게 될거라고 달래주며 련습을 계속하던 일。

 몇달간을 련습하여 끝내 가야금병창곡을 무대에 올려 박수갈채를 받은 학예회,가야금독주경연에 나가는 학생을 데리고 단 둘이서 도꾜까지 갔던 일,때로는 소년단야영에도 따라가 함께 카레도 만들고 교원들이 잡아온 문어를 조리하여 먹으며 우스개소리로 밤을 새운 추억들,

그 시기 가야금소조에 속했던 한 제자가 세아이의 엄마가 되여 꿈과 같이 내앞에 나타나 감격적인 상봉을 한 일,그의 딸들에게 국어를 배워주고 고급부로 보낸 것도 벌써 10년전의 일이다.

 학동보육을 맡게 된 인연은 이것뿐이 아니다.14년전까지 막내아들이 다니던 ≪じゃがいも학동보유소≫가 바로 제4초급에서 5분도 안걸리는곳에 있었다.장애를 가진 아이도 건강한 아이도,조선아이도 일본아이도 함께 지내는 학동보육소가 있었기에 중복장애를 가진 우리 막내에게도 하교후 갈곳이 있었고 나도 교원을 계속할수 있었다.

 양호학교에 다니던 막내는 하교후 이곳 학동보육소에서 10년간을 지냈다.통학뻐스정거장까지 마중가서 학동보육소에 맡겨놓고 다시 학교로 돌아가 소조지도를 계속한 나날,내가 학교사업으로 마중 못갈 때는 학동보육소지도원들이 정거장까지 마중가주었고 그들이 바쁠 때는 지부조청원들이 마중가주었다.

 학동보육지도원들과 조청동무들이 도와주지 않았더라면 내가 어찌 교원사업을 계속할수 있었으랴。

 정년퇴직을 맞이한 날 모두들 이제는 편히 쉬라고 해주었으나 내 가슴은 해야 할 일을 다 못한 아쉬움으로 답답하기만 했다.바로 그럴 때 학동보육지도원을 찾는다는 소식을 듣게 되였으니 이 우연에 얼마나 감사를 했는지.이건 분명히 하늘나라에 간 우리 막내가 감사의 마음을 잊지 말고 자기몫도 함께 은혜를 갚아달라고 당부하는것 같이 느껴져 기쁘게 받아들인것이다.

 초급부저학년 학동보육참가생 33명!
 지난날 학동보육지도원들이 우리 아들을 친동생처럼 보살펴준것 같이 나도 이 아이들을 친손자처럼지켜나가야지.

새참은 무엇을 준비할가?옛이야기는 무엇부터 들려줄가?숙제검열도 꼭꼭 해주어야지?내가 즐기는 투피구도 함께 하고…
 새출발을 한 내 가슴은 새파란 청춘시절에 돌아간것처럼 마냥 설레인다.
             
 2010.4.1(작)



(2週間前の写真)

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3月17日、140回目の「火曜日行動」です。

2015-03-17 14:57:30 | 火曜日

3月17日、140回目の「火曜日行動」です。





  140回目の火曜日行動には東大阪中級学校の卒業生たちが大勢駆けつけてくれました。百人力です。


  写真だけアップして記事は夜に書き込みますね。












  府庁前到着です。
















  館山さんが毎日放送の車を説得して移動させてくださいました。





    森本忠紀さんの投稿です。コマッスムニダ!


   「人々の心明るく輝かす春の陽のごと若きら並ぶ  ちゅうき」


   「若きらに伝えたきこと胸のうちまさぐりながら三線鳴らす ちゅうき」















  この車は誰がお願いしても眉一つ動かさず45分間居座り続けました。

















  在米2世の尹さんも参加してくださいました。





















  長崎さん登場です。













  朴先生のアピールが始まりました。




















  京都のウリハッキョで初級部時代を過ごした朴さん。








  教員1年が過ぎました。鄭先生。










  いつもの駐輪場です。
































  帰ってから書き込みますね。
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