「政府、住民の安全顧みず。過剰介入も批判」
6月10日、朝日新聞の一面の見出しだ。
当時の菅総理ら官邸の対応に関する、事故調査委員会の厳しい「報告書」に関する記事である。それにしても,菅氏はなんと人望のない総理だったのだろう。元閣僚の誰一人として「報告書」を批判せず、菅氏の弁護もしない。
それどころか遠回しに、足を引っ張るような談話を発表する元大臣がいる。私にしても菅氏に好感を持つ訳でないが、それでも委員会のこの「報告書」と、マスコミの報道姿勢には疑問を抱く。
事故発生後の対応のまずさが指摘されれば、そうかと思うが、それだけでは不十分で、設計段階での専門家たちの慢心や、まるで機能しなかった原子力保安院と、原子力安全委員会、あるいは、原発を国家戦略として推進して来た経済産業省等々、重要な反省点が他にも多々ある。
重大事故の総括を、菅氏への個人攻撃のような次元の低い内容で終わらせようとする杜撰さにつき、マスコミがひと言も触れないのはどうしたことか。カレル・オルフレンの著書を読んだばかりなので、いっそうそう思う。
オランダの新聞記者である彼は、極東特派員として日本に滞在し、「民は愚かに保て」という著書の作者でもある。
日本は民主主義国家でなく、自由主義陣営の国でもなく、国家権力を握っているのは官僚組織とそれに組み込まれた巨大マスコミで、国民は彼らの巧妙な情報操作に騙されているというのが彼の主張だった。
こんな見方をする新聞記者もいるのかと、いやな気持ちになり、先日彼の著作を読了したが、今回の調査委員会の「報告書」と新聞の記事とを重ねると、オルフレンの主張が、むげに否定できなくなる。
選挙で選ばれた国民代表の政治家も、官僚の持つ権力に対抗できない。官僚組織の権益を侵害しそうな政治家は、彼らと手を結むマスコミによって抹殺される。金銭にまつわるスキャンダルのみならず、政治家たちのあらゆる情報を握っている官僚組織は、何気ない素振りでマスコミにリークし、国民を大騒ぎさせ、政治家を失脚させる。
私は今日まで、というより今でも、日本は自由主義国家の一員で、立派な民主主義の国だと思っていた。
露骨な報道統制で、国民に偏った情報しか与えない全体主義国国を軽蔑し、その国の人々を憐れんでいたが、日本も似たような国だったかと失望しそうになる。
露骨にやるか、巧妙にやるかの違いがあるだけで、私たちが操作された情報しか得ていないのだとしたら、他所の国のことなど笑っておれない。
財務省、総務省、法務省、経済産業省・・と、明治以来構築されたきた官僚組織では、優秀な官僚たちが法の運用を独占し、どんな巨大な企業でも生殺与脱の権を握られている。
だから官僚たちは、今でも官と呼ばれ、民間人の上に位置している。
こんなことは周知の事実だが、他国の人間からみると、やはり異常な状態だったのだろうか。そうして思えば、政治家の地位の軽さと、官僚たちの身分の堅固さには、天地ほどの開きがある。
大臣はちょっとした失言で首が飛ぶが、官僚たちは、多数の国民を犠牲者にするような失政をしても、桁外れの税金の無駄遣いをしても、責任を取った者など誰もいない。
しつこいマスコミに責められることもなく、攻撃もされない。まずもって彼らはニュースの画面に顔を出すことさえない。
国会中継の大臣たちは、官僚の作る回答なしでは答弁も出来ない無能さだから、オルフレンの言うように、政治家など官僚の手の中の駒に過ぎないということか。今太閤と呼ばれた田中角栄でさえ呆気なく葬られたのだから、菅氏など、吹けば飛ぶような政治家だと、高笑いしている官僚の姿が見えるような気がする。
突然ちやほやされだした大阪の橋下市長にしても、伏魔殿のような官僚機構に邪魔だと思われたら、気まぐれなマスコミによって半年も経たないうちに、悪意と中傷の報道で息の根を止められるに決まっている。
で、何か妙案があるかと思案するが、たかだか定年定職者の「気まぐれ手帳」だし、あるはずがない。