ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『満州事変への道』 - 4 ( 馬場氏と塩田氏が語る、二つの幣原氏 )

2018-04-11 19:42:46 | 徒然の記

 知らない訳ではありませんが、ここまでハッキリ書かれますと無視出来なくなります。

 前置きなしで、氏の意見を紹介します。

 ・世に現憲法は、マッカーサー憲法とも呼ばれるが、戦争放棄を明記した前文と、九条に関する限り、発案者は幣原であったことをマッカーサーも当の幣原自身も認めている。

 ここで氏が、幣原氏の『回顧録』の一文を紹介します。

 ・私は図らずも内閣組織を命ぜられ、総理の職に就いたときすぐ頭に浮かんだのは、あの野に叫ぶ国民の意思をなんとかして実現すべく、努めなくちゃいかんと固く決心したのであった。

 ・それで憲法の中に、未来永劫戦争をしないようにし、政治のやり方を変えることにした。

 ・つまり戦争を放棄し軍備を全廃し、どこまでも、民主主義に徹しなければならんということは、他の人は知らんが私に関する限り信念からであった。

 ・軍備に関しては、少しばかりの軍隊を持つことは、日本にとってほとんど意味がないのである。

 ・外国と戦争をすれば、必ず負けるような劣悪な軍隊ならば、誰だって軍人となって身命を賭するような気にはならん。

 ・軍隊を持つとだんだん深入りして、立派な軍隊を拵えようとする。

 ・戦争の主な原因は、そこにある。中途半端な、役にも立たない軍備を持つよりも、むしろ積極的に軍備を全廃し、戦争を放棄してしまうのが一番確実な方法と思うのである。

 この一文を紹介した後、氏は昭和26 ( 1951 ) 年の5月に米国の上院で行われた、マクマホン議員と、マッカーサー元帥の議論を紹介しています。質問者がマクマホンで、答えているのが元帥です。

 「ところで将軍、戦争というものは、なくならないものですかね。」

 「実は私も、そのことを言おうと思っていたんですよ。それは、戦争を全面的に放棄することです。」

 軍事外交委員会でのやりとりだと氏が説明していますが、翻訳も拙く、まるで中学生の放送劇を聞いているようで、紹介するのがバカバカしくなります。

 「現に日本に、その偉大な例が見られます。日本人たちは、自分の意思で、戦争を放棄することを、憲法に盛り込みました。」

   「ときの首相の幣原という人ですが、私のところへ来て言いました。」

 「私は長い間、この信念を抱いてきたのですが、世界平和のためには、戦争する権利を全面的に放棄するしかありません、とね。」

  「彼は私に、軍人である貴方にこれを話すのは、非常に躊躇したのですが、」「私は思い切って、今草案されつつある憲法に、戦争放棄の条項を盛り込むよう一生懸命努力してみようと思うのです、とね。」

 「私は立ち上がって、その老人と握手せざるを得なかった。そして私は彼に、それは人類が取りうる、最も建設的な手段だと勇気づけました。そして彼ら日本人は、本当にこの条項を盛り込んだのです。」

 この議論に「ねこ庭」が不信感を持つには、それなりの理由があります。

 朝鮮戦争の勃発が昭和25 ( 1950 ) 年 ですから、昭和26年は戦争の最中です。しかもマッカーサー元帥は昭和26年( 1951 ) 年の4月に、中国軍を殲滅させるため原爆を投下すると言って大統領に逆らい、トルーマンから解任されたばかりです。

 その同じ年の5月に米国の議会で、このように呑気な問答を果たしてするのでしょうか。

 氏の著書が出版されたのは、昭和47年ですが、当時の学者たちの本には、かなりいい加減なものが混じっています。

 根拠の一つとして「ねこ庭」は、塩田潮氏の著書『最後のご奉公』を考えています。この本は幣原元総理の伝記で、中に書かれている吉田元総理の言葉を紹介します。

 ・戦争放棄の条項を、誰が言い出したかということについて、幣原総理だという説がある。

 ・マッカーサー元帥が米国へ帰ったのち、米国の議会で、そういう証言をしたということも伝えられておって、

 ・私もそのことを質ねられるが、私の感じでは、あれはやはり、マッカーサー元帥が先に言い出したことのように思う。

 ・もちろん総理と元帥の会談の際、そういう話が出て、二人が大いに意気投合したということは、あったろうと思う。

 さらに塩田氏は、マッカーサー元帥が解任された後、幣原氏が総司令部を訪ねた折、ハッシー大佐からこの話を持ち出された時、口にした言葉を紹介しています。

 「元帥が、憲法第九条の発案者が私であると述べたことについては、正直に言って、迷惑している。」

 塩田氏の『最後のご奉公』は平成4年の出版ですから、馬場氏が著書を出した時には知られていなかった事実です。

 幣原氏の『回顧録』の言葉が事実だとしても、幣原氏は持論を述べているだけで、憲法の条文とのつながりについて具体的に語っていません。塩田氏の紹介する青字の言葉が事実だとすれば、馬場氏の意見は捏造になります。

 幣原氏の『回顧録』の言葉が、憲法九条の条文を語っているのだとすれば、戦後最悪の遺産を国民に残した宰相として、記憶に残さなくてなりません。馬場氏の語る幣原氏の言葉と、塩田氏の語る幣原氏言葉のいずれが事実なのかまだ解明されていません。
 
 息子たちに伝えたいのは、学者の言葉を鵜呑みにしてはならないということです。もし贈る言葉があるとすれば、平凡な言葉しかありません。

  「自分の国を愛せない人間の言葉を、信じてはいけません。」

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『満州事変への道 』- 3 ( 若い教授の、反日左翼迎合著書 )

2018-04-11 15:33:15 | 徒然の記

 馬場氏は、もはや「敗戦思考」の迷惑老人としか呼べなくなりました。

 ・田中に内在した国際関係のイメージは、日本の封建時代のそれに等しかった。

 ・列強はすべて封建諸侯のように、限りない権力と領土拡大を目指す、飢えた狼のようなものであり、ロシアもその例外ではない。

 ・近い将来、ロシアが氷結しない港を求めて、満蒙の地へ朝鮮へと、南下してくることは必然である。この体勢を見れば、満韓交換を意図した日露協商などは、無意味である。

 ・ロシアが一段と強大になり、南下してきた暁には、日本は、アメリカやイギリスに仲介を乞うという、恥をさらさねばならないであろう。

 ・シベリア鉄道がまだ単線で、それも全部完工されていない今、ロシアに一大打撃を与えねば、手遅れになってしまう。というのが、田中の主張であった。

  氏は、田中氏の外交感覚が時代遅れのものであると酷評します。

 ・危険を犯し体を張り、死神の口に飛び込んでいくのは、ヤクザが単身敵の中に切り込み、果てはさあ、殺せと、地面に大の字に転がるのに等しい。

 ・潔く見えても、武勇のはき違えであり本来の武士道ではない。それはドン・キホーテ的行動であり、田舎侍のそれであって、洗練された武士のとる行動でなかった。

 氏の肩書は津田塾大学の助教授で、本を出版した当時は30代の若者です。

 ・この田中の行動と合わせて、われわれが想起したいことは、昭和の軍国主義者たちもまた、理性を超越した日本の精神主義を信じ、太平洋戦争に猛進して行ったことである。

 列強がアジアを侵略していた当時、田中氏の思想は果たして時代遅れだったのでしょうか。断言するほどの知識を氏は持っていたのだろうかと、そんな疑問が生まれます。

 戦後に再評価された幣原氏を誉め、軍の指導者を酷評すれば、人道的平和主義の学者に認められる・・それだけの著書ではなかったのかと思えたりします。米国を後ろ盾に、流行の「東京裁判史観」で田中氏を切り捨てるのですから楽な話です。

 ロシアの南下に危機感を覚え、日本はどうすれば良いかと知恵を絞った田中氏に、「ねこ庭」はむしろ共感を覚えています。

 無謀な戦争ではなく、当時の指導者たちは常に終戦工作を忘れず、米国との外交交渉に努力をしていました。辛くも得た勝利だったとしても、日本に負けたロシアは東アジアでの南下政策を諦めています。

 日露戦争の敗北で、ロシアが矛先を バルカン半島へと向け、これがやがてオーストリアやドイツとの紛争を引き起こし、第一次世界大戦になります。

 田中氏の外交を「単身ヤクザの切り込み」と、学問の名に相応しくない下品な説明の方に、田舎侍の卑しさを見る思いがします。氏がしているのは、大東亜戦争に負けた日本の指導者たちを愚者扱いし、卑屈な「敗戦思考」を国内に広める行為です。

 田中氏について述べた後で、幣原氏外交の説明に入ります。大正13年に、幣原氏が外相に就任した時の演説を紹介しています。

 ・日本と列国は、互いにその正当な権利を尊重し、もって、世界全般の平和維持を計ることを、外交方針の根本主義とする。

 ・いわゆる侵略主義、領土拡張政策は、不可能な迷想である。

 ・およそ国際間の不和は、一国が他国の当然なる立場をも無視し、偏狭なる利己的見地に執着することによって発生するものである。

 ・これに反し、われわれの主張するところは、共存共栄の主義であります。

 ・いまや世界の人心は、この方向に向かい、覚醒せんとしております。国際連盟のごとき制度も、この人心の覚醒に根底を置いております。

 幣原外相の演説を好意的に解説するので、解説がそのまま田中氏への批判となります。

 ・幣原は、偏狭な、排他的な国益を考えたり、他国と無協調に独善的に、国益を追求しようとは思わなかった。

 ・彼には国益優先論はなかったが、もちろん、国益を増進しようとしなかったのではない。

 ・国益は、列国との協調を乱さない限りにおいて追求されるべきであり、個別の国益を超越し、世界の平和を維持すべき義務が、国際社会の一員として、それぞれの国にあることを彼は強調するのである。

 ・このことが幣原外交の、国際主義、協調主義と言われるゆえんである。

 評価できる部分があるとすれば、氏が最後に「両論併記」をしている箇所です。田中氏と幣原氏を並べて語っています。

 ・幣原も田中と同様、日本を愛したことに変わりはなかった。

 ・その愛する日本を、世界史の上でいかに位置づけていくかという点で、彼らは大いに異なっていた。

 ・幣原は、国内的には民主国家としての日本が、経済的に発達し、近代国家として成長していくことを望んだ。

 ・国際的には列国と協調し国際法を誠実に守り、平和国家としてのイメージを築いていくこと、これこそが国家百年の大計であると考えていた。

 ・田中は、日本を世界に位置づけていくためには、日本固有の文化と伝統を守り抜くことであると考えた。

 ・日本が西欧と同じになったり、物まねをしていたのでは、日本が無くなるのみならず、世界史の中に埋没してしまうと考えていた。

 ・日本の国体こそは世界に冠たるものと、信じて疑わなかった。

 二人の元首相が意見を異にしていても、共に国を愛する指導者であったと言っています。微かながら、氏が単なる反日左翼教授でなく、愛国の学者の一面もあるという説明です。

 氏の著書で語られる政界は、自民党以外に国を愛する党がいない現在の日本と違っています。維新の党を除けば反日左翼の野党ばかりですから、国の危機もそっちのけで、実りのない政争を国会で繰り広げています。

 スペースがなくなりそうなので、本日はこれで終わりたいと思います。次回は、著者が賞賛してやまない、幣原外交の欠点について「ねこ庭」の考えを紹介します。

 訪問された方がおられましたら、この退屈なこの「ねこ庭」を読んでいただき感謝いたします

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