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ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『太平洋戦争 - 上』 - 2 ( ドイツと日本陸軍 )

2021-11-22 12:37:50 | 徒然の記

    1.  『日清戦争』   工学院大学教授 松下芳雄

   2.  『日露戦争』   東京大学教授 下村冨士夫

   3.  『第一次世界大戦』 早稲田大学教授 洞富雄

   4.  『満州事変』   武蔵大学教授 島田俊彦

   5.  『中国との戦い』  評論家 今井武夫

   6.  『太平洋戦争(上)』 早稲田大学助教授 大畑篤四郎

   7.   『太平洋戦争(下) 』 早稲田大学助教授 大畑篤四郎

 読書計画も、あと二冊となりました。今井氏と大畑氏の著作は、同じ時代を扱っていますため、内容が重なります。著者が違うと、視点が異なりますので、同じ事柄でも印象が変わります。

 「満州事変と、その後の中国に対する軍事行動が、」「世界列国の反発を招いて、日本は侵略者の烙印を押された。」「昭和8年、国際連盟を脱退し、日本は極東の孤児となった。」

 今井氏は満州事変について、もう少し丁寧に説明していましたが、大畑氏は簡単に片付けています。

 「極東で日本が、中国大陸への武力侵略を続けているのと並んで、」「ヨーロッパではナチス・ドイツが、再軍備宣言、ラインランド進駐など、」「次々とベルサイユ体制打破を、実行していった。」

 「世界の現秩序に挑戦した、この東西の反逆児が、」「防共の名のもとに手を組んだのが、昭和11年の〈日独防共協定〉である。」

 ナチスドイツと並べて語るトーンに、日本を犯罪国家として描く意図が感じられる気がします。私の理解では、大東亜戦争は「世界秩序の破壊」でなく、自衛のための戦争です。ドイツにしても、第一次世界大戦の敗戦の結果、過大な賠償金を要求されたと言う事情がありました。

 「元々〈防共〉は広田内閣にとっても、外交上の一枚看板であった。」「広田は中国に対し、〈防共提携〉を要求しているが、」「この提携を列国との間に広め、これによって国際的孤立を脱却するとともに、」「外交のイニシァティブを、なるべく軍から政府の手に回復していこうと言うのが、彼の大きな狙いであった。」

 「しかし現実には、日独防共協定の交渉は、軍のイニシアティブによって進められ、」「ドイツ駐在陸軍武官の大島浩と、リッペンドロップとの間で、」「正規の外交ルートを無視して進められたもので、それをのちに、」「政府の方針として決定、承認したものであった。」

 この意見も私には新しい視点です。ドイツとの連携を主張し、強引に押し進めたのは松岡外相と聞いていますが、氏の著書ではほとんど語られません。学者次第で歴史が書き換えられるという、一つの例と言う気がします。

 「問題の立役者大島武官は、初め対ソ情報入手のため、」「ドイツとの協力を使命の一つに課せられていたが、やがて大使館や外務省にも知らせず、」「ドイツ側と、防共協定の交渉を行っていたのである。」

 「彼は、大隈内閣・寺内内閣の陸相、大島健一中将の長男で、」「陸軍屈指のドイツ通であり、ドイツ語の会話力は、」「ドイツ在留邦人の中でも、並ぶ者がなかった。」「ドイツの政界、軍部に非常な信頼があったが、」「それだけにまた、ドイツの利益は、日本の利益であると考えるようになったところがあった。」 

 日本が国際連盟を脱退した昭和8年に、ヒトラーが政権を獲得しています。大畑氏の説明では、この時から日本の陸軍とのつながりが始まったとし、当時のドイツ大使だった小幡酉吉 (  ゆうきち ) 氏の談話を紹介しています。

 「ナチが政権を把握すると、日本の軍人が、ナチの言うことを無条件に信用し、」「次第に接近して行き、ナチと日本軍人が結びつき、」「ドイツ人のような日本軍人が、出て来るのではなかろうか。」

 ドイツ大使だった時の談話か、退任した後のものなのか、氏は時期を書いていません。

 「それでなくとも日本軍人の中には、ドイツ贔屓が多いのに、」「この上ドイツ心酔者が多くなってきては、国家のために大変なことになる。」「できるなら、ドイツグループ以外の軍人を、」「大使館付武官や、補佐官に持ってくるようにしたい。」「またナチとの連絡も、陸軍側ばかりにせず、」「大使館の書記官が努めてナチと接近し、連絡を緊密にしていかねばならない。」

 小幡氏の名前を初めて聞きますので、調べてみますと次のような経歴の持ち主でした。

  ・1933(昭和8年)5月に、外務省を依願退官した。

  ・1934年(昭和9年)7月から、1940年(昭和15年)4月まで貴族院議員。

  ・その後枢密顧問官となり、制度が廃止される昭和22年5月まで務め、同年8月9日に死去。

 今日からすれば、重要な二人の談話だと思いますが、世間でほとんど取り上げられていません。さらに氏は、当時のドイツ大使館上田首席秘書官の談話も、紹介していますが、スペースの都合で、次回の報告といたします。

 「ナチスとともに、17年間、超党派で、」「侵略計画を立てたと、言いたかったのだろうが、」「そんなことはない。」

 賀屋興宣氏がこう言って、東京裁判の不合理性を批判しましたが、もしかすると小幡氏は、ウエッブ裁判長やキーナン検事の「共同謀議説」を肯定している学者なのでしょうか。今は判断がつきませんので、このまま読んでいきたいと思います。

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