田舎住まい

吸血鬼テーマーの怪奇伝記小説を書いています。

朱の記憶(2) 麻屋与志夫

2008-11-15 08:57:29 | Weblog
 日本橋を渡るころからのめりこんでいた世界があった。 
 なにか起こりそうだ。未来への漠とした予感。
 過ぎこしかたがよみがえるのかもしれない不安。
 そうした世界にこれからわたしはじぶんの存在をゆだねようとしている。

 銀座方向からきて、橋を渡りきって左側に日本橋川に沿ってゆったりとした半月型の建物がある。鈍色の粘つくような水の流れに沿っているために外壁も弧をえがいていた。
 旧帝国繊維の本社である。
 わたしは、わざわざその建物の正面玄関までいってみた。
 玄関といっても長い建物の手前に入口があるだけだった。
 そしていまは大栄不動産株式会社の名が定礎にきざまれていた。
 妻は不審そうに佇んでいる。
 わたしの唐突な行為を、橋を渡り切った地点から、凝視しているだけだった。

「いまここで別れたらもう会えないことになるわ」
 あのとき――半世紀以上もまえのことだ。
 K子は日本橋の中央の里程元標のところまでわたしを送ってきた。
 わたしは、せっかく勉学のため上京したのに。
 病がちな父の看病のために帰省を強いられていた。

 日本橋の本社に栄転するまではK子は鹿沼工場で事務員をしていた。
 わたしの家は町の西の隅でロープ工場を経営していた。
 帝国繊維とは、繊維関係の同業だった。下請けなどもさせてもらっていた。
 亜麻を主原料として消防用のホースをはじめ麻布やズック、などを製造している 大企業には及びもつかない。
 それでもなにかと用事をつくっては父の代理を装って東側の台地の裾、黒川の向こう岸まで長い時間かけてでかけていった。
 あの頃からすでに病弱な父は外出しなかった。
 あまり距離があるので、隣町まで歩いたような錯覚がした。
 それでも、K子に会いにいった。
 彼女は細面で色白の顔に黒い瞳が光っていた。
 笑うと白い歯が清潔に光かり、すごく健康的なのになに、なにかの拍子にさっと憂いが顔をかすめる。
 するとわたしはなにかまずいことをいったのかと不安になる。
 彼女と会っているとわたしはいつもどきどきしていた。
「どうしたの」とすこし首をかしげてわたしをのぞきこむときの優しい慈愛にみちた表情。母のいないわたしは年上の彼女に母の面影をもとめていたのかもしれない。
 そうした、終戦後のある午後。
 名古屋の大原製綱の社長の添え書きのある名刺をもってMが尋ねて来た。「亜麻布を世話してあげてください」と名刺には書いてあった。
 当時はわたしの田舎でなくても女流画家はめずらしかった。カンバスは亜麻布。 ともかく帝国繊維の工場がある。製造元があるのだからいくらでも入手できた。
「信じられない。あるところにはあるものね。それもこんな大きな布が、格安で。信じらない」
 よろこびのことばを連発した。Mはしまいに感きわまって涙をこぼしていた。





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