愛しい猫ちゃんの死 第二稿
ミュウはわたしの膝で静かに息をひきとった。二十数年前になる。そのときはじめて生活を共にしてきたペットに死なれるのはこんなに悲しいことなのかと思い知らされた。
とぎれとぎれだった鼓動がぴたりととまった。ミュウの背中に置いた手のひらが、冷えていく彼女の体温をつたえてくる。ミュウ。ミュウといくら呼びかけても、優雅な長い尾をぴたぴたとわたしの膝にうちつけて、応えることはもうしない。静かにかたまって冷えていく。息絶えたミュウは急にひとまわりも小さくなった。失禁したり、ふらふらとおぼつかないあしどりでわたしたちの周りをあるいていたミュウの姿はいまでも脳裏に浮かぶ。ミュウは幼くして東京の学校に転校させた息子が飼っていたものだ。それも最初は森山会館の前で拾ってきたのをひそかに小さな段ボールの箱で、わたしちたに内緒で飼っていた。それから18年もわたしたちとミュウは生活を共にした。
庭の東の隅に金木犀の木がある。その根元にうめた。寒がりのミュウだったので、あたたかな毛布にくるんで埋葬した。チャ虎だった。わたしがうろ覚えのお経をはなむけとした。妻はわたしの手をにぎっていた。涙をこらえていた。手がかすかにふるえていた。
リリには一昨年死なれてしまった。わずか、一年八カ月の命だった。三毛猫だった。生後三カ月くらいで、わが家の庭に迷いこんできた。妻によくなつき、もじどおり寝食を共にしていた。妻の寝床にもぐりこんで寝ていた。二階の教室でドングリの実で、妻とよくサッカ―をしていた。妻がドングリを指ではじくとかわいい肉球のある足でハジキかえす。ときにはクワエテくる。長い尻尾をふりながらかけてきてクワエテいたドングリをホトンと妻がさしだした手におとす。あまりよく鳴けなかった。声帯がおかしかったのだろうか。そのリリは死にぎわに「ニャオ」と一声、いかにもメス猫らしいかわいい声で鳴いた。あのときの鳴き声は忘れられない。なぜ死の瞬間に「ニャオ」と鳴けたのだろう。妻に必死で苦しさを訴えたのだろうか。それとも「わたし死んじゃうよ。これでお別れだね。さようなら」というメッセージをこめて鳴いたのだろうか。神様がさいごのさいごにリリの声帯が正常に機能することを許してくれたのだろうか。ドングリの実はいまでも妻の机の上とリリの骨壷のわきにポッンと置いてある。振ってみると、中の実がかわき、かたまり、小さな音をたてる。わたしたちは、その音にリリ魂の囁きをきく。虹の橋でいまでもドングリの実とじゃれあっているだろう。
いま同居しているブラッキ―が老衰した。ゴツゴツに浮き出た背筋。やせ細ってしまった。食欲もなくなった。人間の年齢にすれば、百歳。それなのに、一日になんども外に出たがって奇声をはっしている。いらいらしているような、どこかいたむところがあって部屋にじっとしていられないのか。痴呆症かも――。外を徘徊してきたのをすぐにわすれてしまうのだろうか。とんぼ返りで、すぐにまた外にだせと、いばりだす。ともかくすごい迫力で「ギャオ、ギャオ」と鳴く。小さな体のどこから出るのかと訝るような声だ。ご近所迷惑だろうなとこちらは体が縮むおもいだ。
食べものも、固形餌はほとんどたべず、流動食、牛乳で生きている。わたしの酒のオツマミ、鳥のレバーをよく咀嚼してから、手のひらにうつして差しだすとうれしそうにノドをならして食べている。「死ぬなよ。九番目の命を使って生きぬくのだ。死んでも生きていろよ」と、とんでもない励ましのことばをかけている。
ブラッキ―の死期を冷静にうけとめられればリアリストだ。わたしは九つ目の命を使って生きぬいてよ、と励ます。呼びかける。少しでも、明るい未来を期待しているロマンチストだ。美人薄命であったリリが、いまも虹の橋でドングリをころがして遊んでいるとイメージしているのだから徹頭徹尾ロマンチストだ。
膝の痛みに耐えきれず上都賀病院で診察をうけた。足をひきずり、痛みに耐えて、マダ、マダダ。まだ頭はタシかだ。小説はかける。ボケない限り、かきつづる。究極の高等遊民、ロマンチストだ。
ても――さすがに、日々衰弱していくブラッキ―のことをみていると悲観的なことばかりかんがえ現実的になってしまう。
……別れの日のちかいブラッキ―とのいままでの交情をおもい、わたしは妻と静かな晩秋の日々をすごしている。
二年前にはリリとの別れがありました。そのときの悲しみをカミサンとまとめた作品があります。ぜひ読んでください。角川の「カクヨム」に載っています。下記の題名で検索してください。すぐ読めます。
「愛猫リリに捧げる哀歌」
猫愛/
猫のスリスリ/
むくむくの毛並み/
猫とのサッカ―/
リリの病/
闘病/
看病/
ペットロス/
猫を愛するみなさんへ。ペットロスに悲しむあなたへ。
麻屋与志夫 木村美智子
この作品は、先住猫ブラッキーとリリ、わたしたち夫婦の楽しい思い出。リリは一年と八カ月で他界。その間の様子を記録したブログを編集したものです。わたしたちはペットロスにおちいり、とくに、妻は涙、涙の日々をおくっています。なんとか、この悲しみからぬけだそうと、もがけばもがくほど、悲しみは深まるばかりです。猫、大好きなみなさん。ペットロスで苦しんでいるみなさん。猫との生活の楽しさ、死なれた時の悲しさ。わたしたちと共有してください。
ブログ「猫と亭主とわたし」木村美智子+「田舎暮らし」麻屋与志夫より編集。
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ミュウはわたしの膝で静かに息をひきとった。二十数年前になる。そのときはじめて生活を共にしてきたペットに死なれるのはこんなに悲しいことなのかと思い知らされた。
とぎれとぎれだった鼓動がぴたりととまった。ミュウの背中に置いた手のひらが、冷えていく彼女の体温をつたえてくる。ミュウ。ミュウといくら呼びかけても、優雅な長い尾をぴたぴたとわたしの膝にうちつけて、応えることはもうしない。静かにかたまって冷えていく。息絶えたミュウは急にひとまわりも小さくなった。失禁したり、ふらふらとおぼつかないあしどりでわたしたちの周りをあるいていたミュウの姿はいまでも脳裏に浮かぶ。ミュウは幼くして東京の学校に転校させた息子が飼っていたものだ。それも最初は森山会館の前で拾ってきたのをひそかに小さな段ボールの箱で、わたしちたに内緒で飼っていた。それから18年もわたしたちとミュウは生活を共にした。
庭の東の隅に金木犀の木がある。その根元にうめた。寒がりのミュウだったので、あたたかな毛布にくるんで埋葬した。チャ虎だった。わたしがうろ覚えのお経をはなむけとした。妻はわたしの手をにぎっていた。涙をこらえていた。手がかすかにふるえていた。
リリには一昨年死なれてしまった。わずか、一年八カ月の命だった。三毛猫だった。生後三カ月くらいで、わが家の庭に迷いこんできた。妻によくなつき、もじどおり寝食を共にしていた。妻の寝床にもぐりこんで寝ていた。二階の教室でドングリの実で、妻とよくサッカ―をしていた。妻がドングリを指ではじくとかわいい肉球のある足でハジキかえす。ときにはクワエテくる。長い尻尾をふりながらかけてきてクワエテいたドングリをホトンと妻がさしだした手におとす。あまりよく鳴けなかった。声帯がおかしかったのだろうか。そのリリは死にぎわに「ニャオ」と一声、いかにもメス猫らしいかわいい声で鳴いた。あのときの鳴き声は忘れられない。なぜ死の瞬間に「ニャオ」と鳴けたのだろう。妻に必死で苦しさを訴えたのだろうか。それとも「わたし死んじゃうよ。これでお別れだね。さようなら」というメッセージをこめて鳴いたのだろうか。神様がさいごのさいごにリリの声帯が正常に機能することを許してくれたのだろうか。ドングリの実はいまでも妻の机の上とリリの骨壷のわきにポッンと置いてある。振ってみると、中の実がかわき、かたまり、小さな音をたてる。わたしたちは、その音にリリ魂の囁きをきく。虹の橋でいまでもドングリの実とじゃれあっているだろう。
いま同居しているブラッキ―が老衰した。ゴツゴツに浮き出た背筋。やせ細ってしまった。食欲もなくなった。人間の年齢にすれば、百歳。それなのに、一日になんども外に出たがって奇声をはっしている。いらいらしているような、どこかいたむところがあって部屋にじっとしていられないのか。痴呆症かも――。外を徘徊してきたのをすぐにわすれてしまうのだろうか。とんぼ返りで、すぐにまた外にだせと、いばりだす。ともかくすごい迫力で「ギャオ、ギャオ」と鳴く。小さな体のどこから出るのかと訝るような声だ。ご近所迷惑だろうなとこちらは体が縮むおもいだ。
食べものも、固形餌はほとんどたべず、流動食、牛乳で生きている。わたしの酒のオツマミ、鳥のレバーをよく咀嚼してから、手のひらにうつして差しだすとうれしそうにノドをならして食べている。「死ぬなよ。九番目の命を使って生きぬくのだ。死んでも生きていろよ」と、とんでもない励ましのことばをかけている。
ブラッキ―の死期を冷静にうけとめられればリアリストだ。わたしは九つ目の命を使って生きぬいてよ、と励ます。呼びかける。少しでも、明るい未来を期待しているロマンチストだ。美人薄命であったリリが、いまも虹の橋でドングリをころがして遊んでいるとイメージしているのだから徹頭徹尾ロマンチストだ。
膝の痛みに耐えきれず上都賀病院で診察をうけた。足をひきずり、痛みに耐えて、マダ、マダダ。まだ頭はタシかだ。小説はかける。ボケない限り、かきつづる。究極の高等遊民、ロマンチストだ。
ても――さすがに、日々衰弱していくブラッキ―のことをみていると悲観的なことばかりかんがえ現実的になってしまう。
……別れの日のちかいブラッキ―とのいままでの交情をおもい、わたしは妻と静かな晩秋の日々をすごしている。
二年前にはリリとの別れがありました。そのときの悲しみをカミサンとまとめた作品があります。ぜひ読んでください。角川の「カクヨム」に載っています。下記の題名で検索してください。すぐ読めます。
「愛猫リリに捧げる哀歌」
猫愛/
猫のスリスリ/
むくむくの毛並み/
猫とのサッカ―/
リリの病/
闘病/
看病/
ペットロス/
猫を愛するみなさんへ。ペットロスに悲しむあなたへ。
麻屋与志夫 木村美智子
この作品は、先住猫ブラッキーとリリ、わたしたち夫婦の楽しい思い出。リリは一年と八カ月で他界。その間の様子を記録したブログを編集したものです。わたしたちはペットロスにおちいり、とくに、妻は涙、涙の日々をおくっています。なんとか、この悲しみからぬけだそうと、もがけばもがくほど、悲しみは深まるばかりです。猫、大好きなみなさん。ペットロスで苦しんでいるみなさん。猫との生活の楽しさ、死なれた時の悲しさ。わたしたちと共有してください。
ブログ「猫と亭主とわたし」木村美智子+「田舎暮らし」麻屋与志夫より編集。
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