瞳孔拡散薬/これから白内障の手術をするかたは読まないでください。
1
純白のパーティションカーテンがシャーっという金属音とともに引き開けられた。
丸顔のまだ幼さののこっているナースがバインダーを小脇にかかえてベッドサイドに近寄ってきた。
「木村さん。これ読んでおいてください」
入院案内と注意事項が箇条書で連なっている。文字がかすんでよく見えない。白内障のためだ。下段の新宿女子医科大学病院というゴジック体だけはぱっと目にはいった。
「どう、なにか質問ありますか」
病棟の端まで巡回してもどってきたナースの胸元には『百々百子』とプラスチックのネームカードが付けられていた。さきほどはなにも添付されていなかった。ただ白いだけの白衣の胸元だったのに。わたしは、カード上の文字を凝視していた。そんなことをしても視野が鮮明になるはずはない。ナースの顔もチカチカ白く光っていて、さきほどと同一人物かどうかも定かではない。なんて読むのだろう。
「かんがえてもらう時間はいくらでもありますよ」と赤いホッペでほほえんだ。他のナースに尋ね『百々』の読みを一刻もはやく知りたくてナースステイションに出向いた。年寄りはセッカチなのだ。だがわたしは「ホショクにでかけていいですか」というじぶんの声を聞くことになった。先ほど読んだ『入院案内』に捕食に出る人は、看護師に断って下さい、と明記されていた。
むろんわたしのジョークはつうじるわけがない。同音の『補と捕』との転換ミスだ。だれもそれにまだきづいていないのだ。説明してもオヤジギャグはやはり全く無視された。
「プレデターって映画を見た? WOWOWでもやったけど。あのシュワちゃんがでる、侵略ものの映画……」
「いそがしいから、映画もテレビも見ないわ」
しわがれた中年のナースの声がにべなく応える。
捕食に出かける。吸血鬼にでもなって、あるいはゾンビのようにひとを捕らえて食するといったブラックユーモアが会話を成立させると思ったのだが……。
異文化コミュニケイションをしている感じだ。世代のちがいか? ともかくこちらが老齢にたっしているのに、それを認めようとしないから、ときおりこうした齟齬をきたすのだ。頭のなかでは、手偏と衣偏がチカチカいれかわって点滅し、哄笑している。「……歌舞伎町まで捕食、補食、ホショク」とつぶやきながら歩きだすと、「お酒はダメヨ、あすは手術ですからね」ときたもんだ。とんでもないジジイだと思っている声が追いかけてきた。
(別にいまさら歌舞伎町で飲み食いしたいという飲食願望があるわけではない)
とわたしはひとり呟いた。ただ、病室でなにもせずにぼんやりとすごしているのに耐えられなかったのだ。
ところが街にでて、立ち竦んでしまった。わたしのほうに向かってくるひとびとに顔がない。恐怖のあまり先に進めない。動けなくなった。人々の顔が胡粉をぬりたくったように白い。眉、目、鼻、口と顔を形作るはずの造作がないのだ。僅かに眼球のあたりと鼻の盛り上がりはわかる。白い能面。白い無表情な顔が迫ってくる。
わたしは先に進むどころか、恐怖のあまりたじたじと後退りしていた。声だけは聞こえる。なにかわたしのことを話しているようだ。
「病気なのかしら、病院からでてきた」
「あんなところで立ち止まったら危ないわ、だれか手をひいてやったら」
「そうよ、よく見えないのかもしれない」
どうやら青ざめた顔をしているらしい。
そうだ。とわたしは気付いた。
瞳孔散大薬のせいだ。まだあの薬がきれていなかったのだ。
でなかったら、アイツラが大挙してわたしを迎えにきたのだ。まだ早すぎると思っていたが、ついに……わたしにもお迎えがきたのかもしれない。そんなことがあるわけない。アイツ。を見る。ようするに、嘲笑されることを覚悟でいう。わたしにはアノ存在を目撃できる能力が在るのだ。
アイツラの闇からの声を聞くことができるのだ。
そのためにどれだけ悲惨な生活をしてきことか。
苦労してきた……とわたしは心のなかで繰り返していた。
今日も遊びに来てくれてありがとうございます。
お帰りに下のバナーを押してくださると…活力になります。
皆さんの応援でがんばっています。
にほんブログ村
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます