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眠れない。
こんな事はこれまでの35年生きて来て初めてだ。
もう2ヶ月にもなろうか。
あらゆる快眠に関する民間療法を試した。
ぬるめの湯に長くはいる。
バランスの良い食事。
適度の運動。
万全の準備をして、早めに横になる。
眠れない。
ごろごろと寝返りをうつ。
眠れない。
諦めて起きる。
キッチンの暗がりの中、酒を飲む。
たばこを吸う。
布団に潜り込む。
夜明けが近づく。
何も考えまいと努力するが、仕事の事を考える。
焦りからますます眠れない。
目覚まし時計のアラームが鳴った。
頭の中心がチリチリする。
顔を洗い、髭を剃り、通勤電車の殺人的な混雑に向かう。
フラフラのまま仕事をする。
夜は眠れないのに、日中に睡魔が襲う。
まるで浜辺に押し寄せる波のようだ。
このままじゃあダメだ。
俺は次の日、有休を使い仕事を休んだ。
病院に行こう、そう思ったからだ。
眠れない。
明け方、睡魔に襲われたが、寝てしまうと病院に行けないかもしれないという不安が頭から離れない。
身支度をして、夜明けと同時に玄関の扉を開けた。
眠い。
不眠症なのに眠いとは…。
電車とバスを乗り継ぎ、ネットで調べておいた病院に到着した。
午前の診察が始まるまで、まだ1時間もある。
玄関ロビーの見える駐車場のフェンス。
コンクリート部分に腰を下ろした。
自然と瞼も落ちてくる。
闇夜の中、車を走らせていた。
山道のカーブを曲がる。
危ない。
こちらに迫る車のヘッドライト。
幻覚のような覚えのないイメージ。
よろよろと立ち上がり、受付に向かった。
「きょうはどうされましたか?」
そこにいたのは先生らしくない先生。
まず白衣を着ていない。
黒ハイネック、黒スラックス、黒めがね、オールバック。
たばこを吸っている。
現代の医療人としては珍しい。
心療内科。
初めて受診する。
「眠れないんです」
「ほう、それは何時からですか」
「もう、2ヶ月になります」
「それはいけませんね。心当たりはありますか」
「それが無いんでです。先生、眠剤か何か手っ取り早く眠れる薬を処方してくれませんか」
「いやいや、安易な治療は長引く可能性があります。
どうです。カウンセリングの延長で催眠療法をやらせてもらえませんか」
「催眠療法ですか」
「そうです。その不眠の原因が無意識下にあるかもしれないという事です。どうですやってみませんか」
押し切られる様に長椅子に横になった。
「あなたは、だん、だん、眠くなる」
たばこのヤニのにおいを感じながらそのせりふを聞いた。
悪魔的な響き。
ストンと意識が落ちた。
病室のベットで俺が寝ている。
どうして自分の姿を上から見下ろしているのか見当もつかない。
両腕、のど、下半身。
あらゆる場所から管が生えている。
心電図の音が無機質に鳴っている。
よほどの重傷だ。
その横で美しい女の人が座っている。
呆然と生気のない視線が宙に泳いでいる。
「あの患者はあなたですね。」
先生がいつのまにか横にいた。
「はい、そのようです。どういう事でしょうか?」
「そういう事です。あなたは眠らなければなりません。2ヶ月前、事故に巻き込まれました。それ以来、意識は戻っていません」
「どういうことですか?私は起きています」
「ここは、あなたが見ている夢の世界です。あなたが眠ればあちらの世界のあなたが意識を取り戻します」
「私はどうなりますか」
「消えて無くなります」
理解しかねる話だ。
「でも具体的にはどうするんですか。眠れないんですよ」
「私が眠らせます。あなたが決心さえしてくれればね」
先生の目が邪悪に光る。
(怖い。でも僕には付き合っている女性はいない。
あのベットサイトに座っている女性。
あちらの世界の本当の俺には待っている人がいる)
「もともと眠りたくて今日、ここに来ました。お願いします先生」
「承知しました」
キラリとナイフが光る。
「ここは…どこだ」
あの病室。
「あ、あなた!」
「なんだか、何ヶ月も眠れなかったような気がするな」
「あなた、痛いところは無いの?事故に巻き込まれたのよ。2ヶ月の間、眠りっぱなしだった…」
「そうか、こうやって生きているという事は、なにか大いなる意志を感じるな…」