ヒューマン・コード男
私は三十になったばかりの女子。職業はシステムエンジニア。不規則な生活をどうしても脱却できない。
私の悩みの一つに、お肌の調子がある。
もう一つの心配がる。それは、結婚。
親が最近、特にうるさいのだ。
深夜、崩れるようにアパートに帰り着く。部屋の明かりは点いている。
「ただいま。まだ起きてたの」
「おかえり。ご飯食べた?」
「まだ」
「シチュー食べる?」
「食べる」
玄関まで出迎えてくれたのは同棲中の彼だ。とてもやさしい。しかし、結婚の「け」の字を匂わすと、途端に態度がよそよそしくなる。どうするつもりなのだろうか。
私にはもう一つ心配な事がある。それは、彼が二つの事を同時に出来ないという事だ。
その事実に気づいたのはある朝だった。
「冷蔵庫のパンと牛乳、出して」
「分かった」
テーブルに出てきたものは牛乳だけ。
「パンは?」
「ああ、パンね」
一時が万事この調子なのだ。
生活に支障があるかというと、そうでもない。リストを見ながらなら、難解な事も処理する事は出来る。
病院には何度も行ったが、特に異常というレベルでは無いとの診断が下る。
彼はどういう症状なのか、何かヒントになるものが無いかと、休日の度に、私たちは図書館に通った。
ある時、彼がページを凝視している事に私は気づいた。
「何か、気になるところがあるの」
私はページをのぞき込む。
それは、パソコンプログラムの本だった。私には慣れ親しんだ言語だが、素人の彼には、理解できるのだろうかという疑問がわいた。
「読めるの」
彼は黒縁メガネを持ち上げて、一心不乱に読み進めている。顔を上げた彼はまっすぐな目で私を見る。
「僕、同時に計算出来ないの知ってる」
「知ってるよ」
「このプログラムを読んだら、出来るような気がしてきた。試しに問題出してみて。なるべく難しい問題でお願いします」
私は、彼が見ていたページのプログラム計算式を出してみた。自分でも答えはすぐに分からない問題だ。
私が問題を言い終わった瞬間、彼は答えを言った。
「ちょっと待って。確かめるから」
私はあわてて取り出したスマホで計算する。
「合ってる」
「でしょう。僕、マシン語の通りの処理が出来る気がする。君の仕事で扱ってるプログラム見せてよ」
私は鞄からPCを取り出して彼に見せる。そのプログラムは、複数のPCからの情報を受け取り、連動させて制御する難解なプログラムだった。
「これ、僕出来るよ」
「出来るの?」
「うん、他のPCからの情報も処理出来るし、制御も出来る。しかも、もっといいのが書ける気がする」
「あなたこの世界で食べていけるわ」
私は彼の手を両手で包み込んだ。
部屋に帰った私たちは、早速プログラムを書き始めた。言葉でしゃべるよりもプログラムコードで話し合った方が、はるかに分かりあえる気がした。
夢中で書いたコードはその年の暮れにゲームとして発売され、メガヒットを飛ばす。
私は続編のプログラムを書きながら、とある「たくらみ」をくわだてる。
ある夜。食事をしながら彼が首をかしげる。
「ねえ、不思議なコードがあるんだけど消してもいい?」
「だめ、どうしても残しておいて」
私は、密かにプログラムを細工している。
目に入ったプログラムは実行せずにはいられないという、彼の体質を利用するものだ。
「私との結婚を彼が決意するプログラム」
今、完成を迎えようとしている。
私は手のふるえを押さえることが出来なくなっている。
パソコンの画面はリアルタイムで表示されていて、隣の部屋にいる彼も見ているはずだ。
あと少しで書き上がる。あと一文字。あと少し。エンターを押そうとした時……
静かにドアがノックされる。
「ちょっといいかな」
「はい」
平静を装うのが精一杯。私の声はうわずる。
「ねえ、何か細工してるでしょう」
心臓をきゅっとつかまれる感覚が私を襲う。
「何もしていないわ」
私は彼の顔を見ることが出来ない。
「僕、二つの事を同時に出来ないの知ってるよね」
「うん、知ってる」
「僕、悩んでいたんだ。どうやって食べていこうかって。でもプログラムで食べていける自信ができた。だから……」
彼はポケットから小箱を取り出して蓋を開ける。シンプルな指輪がひっそりと小箱に収まっている。
「僕と結婚してください」
「喜んでお願いします」
私はあふれ落ちる涙と共に彼の手を握った。
私は三十になったばかりの女子。職業はシステムエンジニア。不規則な生活をどうしても脱却できない。
私の悩みの一つに、お肌の調子がある。
もう一つの心配がる。それは、結婚。
親が最近、特にうるさいのだ。
深夜、崩れるようにアパートに帰り着く。部屋の明かりは点いている。
「ただいま。まだ起きてたの」
「おかえり。ご飯食べた?」
「まだ」
「シチュー食べる?」
「食べる」
玄関まで出迎えてくれたのは同棲中の彼だ。とてもやさしい。しかし、結婚の「け」の字を匂わすと、途端に態度がよそよそしくなる。どうするつもりなのだろうか。
私にはもう一つ心配な事がある。それは、彼が二つの事を同時に出来ないという事だ。
その事実に気づいたのはある朝だった。
「冷蔵庫のパンと牛乳、出して」
「分かった」
テーブルに出てきたものは牛乳だけ。
「パンは?」
「ああ、パンね」
一時が万事この調子なのだ。
生活に支障があるかというと、そうでもない。リストを見ながらなら、難解な事も処理する事は出来る。
病院には何度も行ったが、特に異常というレベルでは無いとの診断が下る。
彼はどういう症状なのか、何かヒントになるものが無いかと、休日の度に、私たちは図書館に通った。
ある時、彼がページを凝視している事に私は気づいた。
「何か、気になるところがあるの」
私はページをのぞき込む。
それは、パソコンプログラムの本だった。私には慣れ親しんだ言語だが、素人の彼には、理解できるのだろうかという疑問がわいた。
「読めるの」
彼は黒縁メガネを持ち上げて、一心不乱に読み進めている。顔を上げた彼はまっすぐな目で私を見る。
「僕、同時に計算出来ないの知ってる」
「知ってるよ」
「このプログラムを読んだら、出来るような気がしてきた。試しに問題出してみて。なるべく難しい問題でお願いします」
私は、彼が見ていたページのプログラム計算式を出してみた。自分でも答えはすぐに分からない問題だ。
私が問題を言い終わった瞬間、彼は答えを言った。
「ちょっと待って。確かめるから」
私はあわてて取り出したスマホで計算する。
「合ってる」
「でしょう。僕、マシン語の通りの処理が出来る気がする。君の仕事で扱ってるプログラム見せてよ」
私は鞄からPCを取り出して彼に見せる。そのプログラムは、複数のPCからの情報を受け取り、連動させて制御する難解なプログラムだった。
「これ、僕出来るよ」
「出来るの?」
「うん、他のPCからの情報も処理出来るし、制御も出来る。しかも、もっといいのが書ける気がする」
「あなたこの世界で食べていけるわ」
私は彼の手を両手で包み込んだ。
部屋に帰った私たちは、早速プログラムを書き始めた。言葉でしゃべるよりもプログラムコードで話し合った方が、はるかに分かりあえる気がした。
夢中で書いたコードはその年の暮れにゲームとして発売され、メガヒットを飛ばす。
私は続編のプログラムを書きながら、とある「たくらみ」をくわだてる。
ある夜。食事をしながら彼が首をかしげる。
「ねえ、不思議なコードがあるんだけど消してもいい?」
「だめ、どうしても残しておいて」
私は、密かにプログラムを細工している。
目に入ったプログラムは実行せずにはいられないという、彼の体質を利用するものだ。
「私との結婚を彼が決意するプログラム」
今、完成を迎えようとしている。
私は手のふるえを押さえることが出来なくなっている。
パソコンの画面はリアルタイムで表示されていて、隣の部屋にいる彼も見ているはずだ。
あと少しで書き上がる。あと一文字。あと少し。エンターを押そうとした時……
静かにドアがノックされる。
「ちょっといいかな」
「はい」
平静を装うのが精一杯。私の声はうわずる。
「ねえ、何か細工してるでしょう」
心臓をきゅっとつかまれる感覚が私を襲う。
「何もしていないわ」
私は彼の顔を見ることが出来ない。
「僕、二つの事を同時に出来ないの知ってるよね」
「うん、知ってる」
「僕、悩んでいたんだ。どうやって食べていこうかって。でもプログラムで食べていける自信ができた。だから……」
彼はポケットから小箱を取り出して蓋を開ける。シンプルな指輪がひっそりと小箱に収まっている。
「僕と結婚してください」
「喜んでお願いします」
私はあふれ落ちる涙と共に彼の手を握った。