何日か前の日記でも紹介したこども環境学会2010大会[広島]の、国際シンポジウムに出かけました。
「平和を築くこどもたちの感性と力~広島からのメッセージ~」としてナスリーン・アジミ氏の基調講演の後、3人のパネリストの方のパネルディスカッションでした。
とてもいい内容だったので、簡単にレポします。
原爆投下後の壊滅的な被害の後、力強く復興を果たした広島。
今現在、世界中で紛争や自然災害による被害後の復興を目指す国や地域から、ヒロシマは「希望の街」と見られています。
何故ヒロシマはこんなに素晴らしく甦ったのか。
そこにはいくつかの理由がありました。
原爆投下によって家屋の80%が倒壊し人口の40%が数年のうちに亡くなり、当時100年間は草木も生えないだろうと言われていたヒロシマ。
その中にあって、勇気を持って立ち上がった人々がいました。
いち早く「平和都市宣言」をして都市計画を進めた浜井市長と当時の賢明な指導的立場の人々。
市の中心部にまず原爆資料館と平和公園を設置するという構想は、当時は反対意見もあったと思われますが、市の中心に平和のモニュメントを据えたことがヒロシマを「混沌」から「秩序」に導いた最大の理由だったと話されました。
丹下健三によって1949年に設計された原爆資料館と平和公園は、原爆投下のわずか10年後にはもう完成していたそうです。
あのニューヨークの9・11テロのグランドゼロでさえ、9年も経ったのに未だに手つかずのままなのに、です。
そしてヒロシマには世界中への呼びかけに応えた人々から、2年間のうちに6000本もの樹木の苗が送られ植樹されました。この緑がヒロシマをここまで美しい街に復興させたということもできます。
そしてまた夢と希望を描きつづけた当時の子どもたちのことも紹介されました。
焼け野原になった何もない校庭で未来のヒロシマを描いたこどもたちの絵がありました。
この話は現在、ドキュメンタリー映画『ヒロシマの校庭から届いた絵』として制作されるそうですなので、詳しくはこちらのホームページをご覧になってみて下さいね。
紛争や災害の被害から街が立ち上がるために、こどもたちの夢と希望がいかに大きなエネルギーを生み出すのかがわかります。
ヒロシマの原爆投下後65年という歳月。
この65年間の街の取り組みについてはあまり語られることはなかったですが、多くの歩みがありここまでの街になったのですね。
いい指導者がいて、緑があって、未来を担う夢を持った子どもがいること。
平和をつくりだすにはたくさんの人の力が必要なんだな、と思わされました。
世界各国で起こっている平和に向けての取り組み。
世界の内戦や紛争は欧米諸国の植民地支配が引き金になって引き起こされてきたことも明らかになってきています。
戦わせることによって利益を得てきた人々。
巨大なマッチポンプ(マッチで火をつけて、ポンプを売るという自作自演の商売方法)のしくみもだんだんとわかってきました。
私たちはこれら歴史の過ちを反省して、これからは非暴力を選ぶことの大切さを学んでいきたいものです。
暴力は決して何も生み出さないものね。
シンポジウムの後、平和公園ウォーキングをし、最後にスタッフのみなさんから被爆樹木の青桐の種をもらいました。
「平和のために木を植える」
私たちは小さなことから、できることから始めましょう。
平和の種は小さくても、やがては大きな樹になるはず。
まずは私から、そしてあなたから。
「世界に広がる 平和の種咲かせよう
私とあなたで 心の手を繋ごう」
(Peppermint Leaf『心の手を繋ごう』マリ作詞・作曲より)