館林ロストシティーランブラーズ・フォークソングシングアウト

フォークを歌って43年の坂を今登坂中。世間に一言あってこそフォーク。軟弱アコースティックミュージックにシングアウトだ!

岡田京子コンサート。

2016-07-05 05:46:07 | 笠木透さんのこと。
音楽・・・やってるのかぁ?

と、あきれてる方々多しと、拝察。

やってるさ・・・

と、時々、我が音楽。



音楽の師匠のコンサートがあった。
すでに84歳・・・・だが、音楽、わけても、日本人の民族的音ともいうべき、日本音階については、情熱的だ。

ここ大泉町で行ってきた、小さなコンサートは20年以上に及ぶが、相変わらず、彼女に会いたくてやってくる人たちは絶えない。



伴奏をさせていただいて・・僕も長いが、いつも緊張するのであった。



彼女のコンサートは、いつも3曲程度だ。

だが、その曲の1つ1つを、かみ締めるように味わい、その歌が何を伝えようとしているのかなど、お客さんと一緒に考え、その歌には、どのように声を出したらよいかなどと、知らず知らず考えながら、皆で1つの高みを作ってゆくようなことだから、1曲が30分に及ぶこともある。

詩人、永井和子さんの「1本の柏の木」そして、僕も初めて聴く、岡田京子作詞・・そう作詞作曲の「幼い日の記憶」、笠木透作詞・岡田京子作曲の「1本の大きな木と夏の雲」の3曲だった。
彼女の作詞!!!これは、驚きだ。
彼女を知っている人たちは、「詩を作れ」といい、それに彼女が音を重ねる・・・そんなことに慣れていて、「そういう岡田さん書かないのか?」と思っていたからね。

軍医だったお父様・そうした事から満州で暮らした彼女の自伝的歌は、さすがであったが、笠木さんの曲も驚きと共に、僕は始めて聴き・弾くこととなったのだ。



1000曲ははるか超えて、作詞し続けた笠木透であったが、言ってみれば「雑花塾」関連以外で、音源や楽譜が出回るものはほとんど無いといって良いだろう。

だが、つまり、作られたが、歌われる機会があまりに小さかったり、歌い継ぐアマチュアが知らなかったり(その曲にめぐり合う機会がなさすぎ・・)で、世に出ない彼の曲は、果てしないように改めて思った。

実に良い曲だったなぁ・・・




かなり直接的な表現で、現実の矛盾や、理不尽に声を上げるような曲もある。

だが、僕は彼の詞が、寓話的で、比喩的な、包み込む広さがある歌が好きだったし、今も好きだ。
ロストでは、好んで・選んで、そんな彼の歌を歌ってきた。

どうだろうこの曲・・・

1番2番と、如実的に季節が歌われ、やがて彼は夢を見る・・・・

4番や5番の黒い雨や白い灰の夢を見る・・・やがて、彼自身が「夢だったんだね」と、まだ生きていることにほっと胸を撫で、「そんな夢が現実になら無いように」と、聴く人に祈らせる・・・


かれの真骨頂だな。


岡田京子のペンになる笠木さんの歌も結構多い。

歌い継いでゆくのは、俺の仕事かなぁ・・・・ロスト!


じっくり、師匠、岡田京子のコンサートだった。
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岡田京子・安達元彦・・笠木透を歌う。

2015-07-01 06:37:36 | 笠木透さんのこと。


6月21日・・・・週末3連荘のコンサートは、日曜のこちらが〆であった。

僕の音楽の師匠、岡田京子さんと、なんとまぁ安達元彦さんのジョイントコンサートであった。

どちらも、笠木さんとは縁深く・亡くなるまで深い関係で、笠木さんと音楽を深め合ったお二人であった。



「岡田京子・安達元彦・・笠木さんを歌う」は贅沢で、この時期無ければならないコンサートだ。

新進気鋭のクラシックの作曲家は、笠木さんに出会いドロップアウトする・・・同じように、方向の違う作曲家であった師匠の岡田さんも、笠木さんに出会い「民族の音」を探し求めることになるのだった。

笠木さん・安達さん・岡田さん・・・その長いキャリアで、互いに刺激し合いながら、多くの名曲を作り上げたのだった。







岡田さんは、彼の死後、笠木さんの奥様から送られてきたという1曲を、参加した皆が歌えるまでにするステージだった。

2014年8月24日の笠木さんの詞のようである。
死を意識した彼が、自分のことを歌ったのだろう・・・「なんという歌だろう!」と、こみ上げるものがあって、困ってしまったのだった。

居なくなることを、このようにきっぱりと書いて、僕は死ねるだろうか?

詞に寄り添う岡田さんのメロも、すさまじかったなぁ・・・名曲だよ。

終演の後、岡田さんにこの曲について感想など話した。その時彼女は「今まで私の作った曲で、最高の出来だと思っている」と言っていたなぁ。




2部は安達さんだ。

僕とロストのアバウト新藤も、打ち合わせなしの伴奏は必至であった・・・

名曲「カタクリの花」「私に人生と言えるのもがあるなら」「川のほとり」「若狭の海」「春と修羅より」・・どの曲も安達さんの流れるようなピアノで素晴らしかった。(彼はピアニストと紹介されると、僕は作曲家ですと言うのだが、でも、すごいピアノ弾きだよな)

「笠木さんはフォークソングになるという表現をよくしました。」
「歌がメディアなどである時期大量に出回ることではなく、人から人へ伝えられて(民謡)フォークソングになってゆくということです」
「ギターをかかえて、歌えばフォークソングではないのです」
などと、合間の話も秀逸・・・

見事に笠木さんのフォークソングを歌ながら、あっという間の時間は過ぎて、アンコールであった。



さて、終演後・・・

打ち上げ前・・・・なにやら岡田さんが別室にこもっていると思いきや、こんなお姿で現れた!



友人の形見の和服らしい・・・

「私は、死んだら、これ着せてもらうの」・・・だそうだ。

いわくのある、大事な品らしい・・・・

今度会ったら、いわれを聴こう!!



打ち上げでの、とりとめない話も楽しいのだ。

「今度、ロストと僕はやりたい・・」との安達さんの話は・・・・聴かなかったことにしておくのだ。

それにしても、お二人、ますますの活躍を期待するなぁ・・・見事に現役の、すばらしい音楽であった。

つたなくも、ご一緒出来てし・あ・わ・せ!


これを糧に、僕らロストも、もっと豊かに!だな。



PS・・・・5年目?6年目?種から育てた「月桃(ケットウ)」に何と!花芽が付いた!!!!!!!!!!!!!!!!!近々に咲くかも?!うれしいったらないなあ!
     後日・・アップできたらうれしいなぁ・・・・!
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笠木透お別れコンサートIN中津川。

2015-04-11 07:09:14 | 笠木透さんのこと。


彼のホームグラウンド中津川にやってきた。その文化会館。
40年以上もの彼の音楽・・その折々、彼と音楽つくりに携わったプロ・アマ、10を超える個人・グループが、彼の死を追悼し、彼の作った歌をうたったのだった。



恵那山を見たかったが、曇り、時々細い雨で見ることは出来なかった。また、機会もあろう・・・
中津川の流れは、見ることが出来た。長野と岐阜の県境の山、恵那山を源に木曽川に流れる川だ。
彼の山や川・・・それらは、慣用句のように彼の詩には登場し、それらに寄り添う花や木々もこの地であったろうと、うれしくなった。
「彼の詩の中の花」・・・そんな語りもやりたいものだなぁ・・・



6:30集合出発・・会場に着いたのは11時半を少し回っていた。
開場は1時、まずチケットを受け取り・どこか観光がてら昼飯・・などと考えていたが、すでに長い列が出来ていたのに驚き・・・飯どころではないと並ぶ。
合間に、師匠岡田さんに挨拶。



主催者の配慮で12:30には開場・・・席を確保し、近くのコンビニで飯を買って、ロストの昼飯であった。
わし・・おにぎりを作ってきたので、実に役に立った。



笠木さんのおかげで仲良くなった岡山・福島・茨城・千葉・石川・長野・岐阜などなどの仲間にも挨拶が出来て・・・



バスで乗り付ける一団もすんばらしかった。



会場には献花台も設けられ、彼を偲んだ・・・どうも、彼の気配が会場に漂ってはいたが・・・・



彼の朋友だろう、初期の名曲を一緒に作った、田口氏のブログに、亡くなってすぐ、この写真がアップされ、追悼の文が載った。
会場には笠木さんの写真・作品などのギャラリーがあったが、そこでまた、この写真に出会えた。

♪あのころわたしは若かった あのころわたしはなんでも出来た
   雨や波や雲やさかまく嵐の ただ中にただ中にとびこんで わけもわからずぶつかっていった♪

                           --時は流れて・笠木透作詞・田口正和作曲ーー

この歌が聞こえる写真で、すっかり気に入ってしまった僕であった。



発売後、すぐに完売の会場は、上手い言葉が見つからないが、あふれ出る気に満ちていた。

笠木さんの音楽の出発点だった、アマチュア。すでにその時代から今も歌い継がれる「名曲」が生まれんだよな。「彼とはたくさん遊んだ」「その遊びも、豪雨の中の登山になったり、激流をゴムボートで下ったりでした」などと・・・・・そういえば笠木さん「世間で無駄と思われていることこそ価値がある」などと言っていたなぁ。「偉大なる遊び」などとも・・・常識という価値観に対し、非常識の中に、次の時代の指針になる「新しい価値観」が生まれるということだなと理解し、僕もそこら、学んであそんでばかりいるのだった。

丁々発止渡り合うプロのグループになってからのメンバー達の演奏も、聴きごたえ十分だった。すべて、彼の作詞のもの・・・改めて、名作詞家でもあったなぁ。ここに坂庭さんが居たらなぁ…と、身に染みて思った次第だった。



出演者の中の有名人T氏のステージ・・・彼は今どうしているのだろう?と、興味はあった。フィールドフォークが生まれた時代、彼と彼のグループもそこにいた。笠木さんの初期の名曲を全国区にしたのは彼らでもあったと思う。僕もしばらくは彼らを「追っかけ」のように、関東でコンサートがあれば出かけた。

その彼のステージ。目を覆うばかりだった。

人間国宝やら、有名な人物と、彼や笠木さんが居た話などするのだが、結局自分の自慢話じゃないか・・・
考えると彼は、昔から「時事」やら「政治」はすりぬけるように避けてきた。
フォークソングの生い立ち、その紐帯には、「トピカル」なものを歌うDNAがあるのだ。それは、庶民の権力への抵抗でもあった。

無性に悲しかったなぁ。

トリは笠木さん亡き後の「雑花塾」だ。

笠木さんに頼らないこのチームを初めて聞いたような思いだった。
見事だった。笠木さんがピート・シーガーへの追悼、そしてその志を受け継ぐ決意など表現した最近の曲「メープルシロップ」には体が震えた。
何度かほかの場所で聴いたが、改めて、歌い継がれ・・これは、フォークソングになるな!と、思った次第。

現役の、今の笠木さんが降りてきそうな、快演だった。彼らは、笠木さんの死などものともせず、歌い続けるだろう。その確信は、僕を確実に鼓舞してくれた。



終盤になり、笠木さんとともにある時期生きた、全国のアマチュアたちが、名を呼ばれ、ステージに上がった。
そこに、館林ロストシティーランブラーズも呼ばれ、ステージに上げてもらった。
うれしく・誇らしくもあった。

ステージは数曲彼の名曲を、出演者・会場が一体になって歌い終わった。



終わって、終わりたくなく、アンコールの拍手は鳴りやまなかった・・・・やがて、スタンディングオベーションの中、名残を残し、終演となった。


さて、僕らロスト・皆、感激し喜んでいたが・・・改めて、これからが問われるぜ!


まだまだ、うかつに死ねないぜ!いっちょう、やったるか!


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蒸した魚はうまくね~よ。

2015-04-05 08:05:55 | 笠木透さんのこと。


安い宿の、朝のバイキングもそうだが・・・

この弁当のシャケ・・・・

蒸したシャケなんぞ、まず、うまくね!


魚は、焼いてないとねぇ・・・蒸したら、うまみが、皆逃げちゃうわけさ。







先生!おっしゃる通りです!




弁当の話なのだが・・・・横道にそれるのは、このブログの属性で・・・それは、どうしようもない、書き手なのであった。



さて

焼かれて、旨く・・旨く死ぬ。


彼の、「お別れコンサート」では、涙がしばらくは尽きたに違いないほどであった。(まだ、もう少し、生きていて欲しかったようぅ)

彼を冠した、コンサートの、このまま帰れない満席の会場の皆の欲した、スタンディングオベーションには、驚きながら、その中に居た僕であった。





童   謡


お父さんが死んだら

顔に白い布をかけた

 

出来上がった食事の支度に

白いふきんがかけられるように

みんなが泣くから

はあん お父さんの味はまずいんだな

涙がこぼれるほどたまらないのだな

と わかつた

 

いまにお母さんも死んだら

白い布をかけてやろう

それは僕たちが食べなければならない

三度のごはんみたいなものだ

 

そこで僕が死ぬ日には

僕はもつと上手に死ぬんだ

白い布の下の

上等な料理のように さ

 

魚や 鶏や 獣は

あんなにおいしいおいしい死に方をする


ーーーー石垣りん「表札など」所収ーーーーー





我も、旨く焼かれたいものだ・・・・・


すごい人が、亡くなってしまったのだ。


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文化で戦う・・・笠木さんの言葉。

2015-03-08 06:59:03 | 笠木透さんのこと。


今回も長いでよ・・・興味少なき方は、流し読み・・お願いします。


さて、「文化で闘う」

かっこいい文句だが、実は、僕は実態をつかめないでいる。

いや、深い確信・・というべきか・・・・・僕の中で、発酵しきれていないのだ。

よるすべなく、文化運動に関わってきたから、せめて文化で闘うのか?

歌しか歌えないから、歌で戦うか?

そんなうすっぺらで、何の力になるのか?

「文化で闘う」・・・・・・次回に続く(のかぁ?)



などと、前回書き放ってしまい・・・もんもんと数日が過ぎ・・やがて、花粉で思考力がなお更落ちて、今日に至るなり。

この笠木さんの言葉は、「お前たちも自分の歌は自分でつくれ!」と、同程度の、難解なものだが、この言葉を聞いて十数年・・掴みたいものであった。
「もっと論議したかったなぁ・・・」と、笠木さんを思うたびに、無念なのであった。

「歌しか歌わない」と、時に一緒に行動を共にする、左翼陣営の方々に陰で言われながら、30年以上地域で歌い続け、その実践で言葉をねじ伏せてきた。

我がロスト・・・監督のツブクは良くしゃべる。歌より長いと、お叱りを受けるほどしゃべる。だが、ほかのメンバーは体育会系アツコ以外は(彼女も好んではしゃべりたがらない)実にシャイで、ステージはあまり好きじゃなくて、まして、人前でMCするなんぞはもってのほかなのだった。たぶん、僕以外がステージでしゃべるのを聴いた方はすくないだろう。

だが、言わずにおれない社会の事態に、歌うことで表現できる喜び・・・それが、ロストを愛しみ・ここで歌えることの喜びにつながっているのだ。
「歌わずにいられない」事態に、歌えることを抱きしめているのだった。

薄弱ながら「文化で戦う」姿では、あろう・・・・


「文化」を哲学すれば

「人間が作り出した生活の仕方(くらしの仕方)。それに結びつく価値観のあり方の総体が文化。」だ。

衣食住・・・その1つ1つの多様性と、風土と相まった「生活の・くらしの」ありようのようなものだ。


ーー文化と科学・芸術ーー

それはまた、科学と芸術の協力で「あり方」が成り立っても居る。

くらしのしかたは、人とモノ、そして人と人が大きな要素だ。
風邪を引いたら医者に行く・腹が減ったら蕎麦屋へ・汗をかいたらシャワーがいいね・さて、俺が死んだら坊主にお経をあげてもらうのか・と、文化という生活の仕方が現れる。


ーー文化と政治・経済ーー

この文化に、政治や経済が影を落とし、恣意的に文化に乱入したり、操作したり、経済の中の立ち位置が、文化に影響を落とす。

ここに、笠木さんの「文化で戦う」の芯があると、僕は思っている。

政治の作るプロパガンダ。危機をあおり「欲しがりません勝つまでは」という、非人間的暮らしを甘受してしまった歴史が、政治が作るベクトルの最たるものだったろ。そして、経済はまた、その貧困やら、今ある豊かさのためなら「原発も受け入れてしまう」人間らしい暮らしのゆがみを作るのだろう。

だからこそ、僕らは、時代に生きる人間の生活のありよう・・・・・その価値観を、常に「より人間らしいものに」してゆく努力が必要なのだ。
その努力が、文化を創る、文化で挑むことなのだと思う。

子供に安全で、安心な食材を選び、心意気で味付けした「おかあさんの(おとおさんでもよい)料理」が文化なのだと思う。

武器はいらない・・・歌で・絵画で・劇で・活字で・・・・手にかなう「文化で」ゆがみに挑むことは、長く・苦しく・「何も変わらない」と時に絶望さえするような行動に違いないが、命には優しいのだ。そして、命にやさしいから、受け入れられ文化になってゆくのだと思う。憎しみを生まないから受け入れられ、文化になってゆくのだと思う。文化で戦うが、受け入れられ育ち、文化になってゆくのだと思う。

さて、その「歌」。


「弱者の歌」は弱者が作る・・・これが笠木さんの歌なのだが、作るのは難しい・・・

既成の歌を歌う・・・その時点で、すでにある仕上がった「商品としての歌」をめぐって、人前で歌うことは結構勇気が居る。
プロの、その元歌に比較され、「下手だ」とくる・・・
確かに、自分で作った歌なら、誰も知らないから、ウマイも下手もないわな。

僕は、既成であれ、自分の作った歌でもどちらでもよいと思っている。

「一人ひとりが、自分の心や考えを表現し伝えるために、歌や踊りや楽器、詩や文学や演劇、映像や絵画などを楽しみながら吸収する。そのことが個人の自立を促し、人間としての成長も助けてくれるのだと思います。人を育む力こそ芸術や文化の持っているすばらしいところだと学んだのです。」(笠木透・CDブック「ひとつだけの村」P197)

非暴力で人種差別に抗議し、何か月もバスを使わず歩き続けた・・たくさんの人々が歩き続けたことで、差別に打ち勝った。モンゴメリー・バスストップ・・・マーティン・ルーサー・キングのワシントン大行進・・アパルトヘイトを白人を受け入れることで乗り越えた、ネルソン・マンデラ。
こうした極近い、昨日のような歴史に学べば、文化で戦うということが、少しわかったように僕は思うのだった。


文化は多様性を認め、尊重することが属性にあると思う。
だからこそ、知らなかった食べ物に、知らない地域で出会い、感激したりするのだ。
違うことを認める・あなたを尊重するから、僕も尊重してほしい・・・

文化で戦う・・・勇ましく、かっこいいが、腹を据えないとな!

なんせ、「歌った以上、そのように、生きなければならないからねぇ・・・」。


さて、おお与太の笠木さんは、これにて終了・・・・・

もしかしたら「外伝」で、「最近の笠木さんの歌は難しいのよね」「昔の歌のほうがよかったわ」・・・僕らの音楽会をいつも協力してくれるたくさんのおばあ達の言葉について、書くかも?
いや?これは、地雷かもしれないな・・・
書かないかも・・鴨。


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