ある朝、フォーグラ(コルベール・ホテルのビジネスレストラン)に入っていくと、窓際の席のテーブルの上にセブンスターが置いてあるのが目に入った。日本のタバコに吸い寄せられるようにその席に行った。「日本の方ですよね?」と声をかけると、びっくりしたような顔をし、ついで笑顔を見せてくれた。日本大使館の職員と何回か新木場の取引先をお連れしたときを除けば、マダガスカルで私が日本語で話した初めての人である。外国で日本人同士が行き会うと不自然なぐらいに無視するか、笑顔を見せるかどちらかだ。無視される方が格段に多い。私には解せないことである。アメリカ人に出会い、私がアメリカの空軍で一時期仕事をしたと知ると、10年来の戦友のように遇してくれる。
その人は「どうぞ、こちらにお座りになりませんか?」と向かい側の席を示した。私は喜んで座った。ウェイターのアンドレーがコーヒーを持ってきながら「卵二個の半熟両面焼きですね」と念を押した。「それと、ハムステーキも頼む」と追加した。今日は午前中から重労働が予想される。充分に栄養をつけなければならない。料理が来るまでに、我々は自己紹介を済ませた。「名刺を切らして、すみません。私はイトウと云います。イタリーの伊に東と書きます(仮名)」。伊東さんはジャイカから派遣されてきた元漁労長だと説明してくれた。マジュンガに居た時は、専属の通訳がいたからよかったけど、アンタナナリブに戻ってきた途端に言葉に不自由していますと苦笑いしていた。マジュンガでの仕事を一応終えたので、アンタナナリブで二、三日骨休めをしてから日本に帰るのだそうだ。マジュンガに二カ月ほどいたらしい。マダガスカルには年に二回ほど来るとも云っていた。
食事をしながら、彼はとんでもないことを云った。「マダガスカルで女を手に入れるには一銭もかかりません」。私が怪訝な顔をすると、彼は「ホテルの部屋の番号と時間を書いたメモを、めぼしい女の子に渡せばいいのです。6割から7割の確立で来ます。気をつけないとダブってしまうこともあります」と彼は楽しそうに云って笑った。水商売の女の子ではなく、銀行や商店で働いている行員や店員のことを云っていると分って驚いた。
アンセルメ・ジャオリズィキーに会った時に、この話をした。「こんなことって、あるのか?」と聞くと、彼はしばらく考えてから「充分にあると思います」と云ってから彼は説明してくれた。元来マダガスカル人は外国人を好きである。そして特に日本人が好きなようだ。しばらく信じられない顔でアンセルメを見ていた。すると、彼は真剣な顔で「アザファディ(どうかお願いします)、その種のメモを私の家内に渡さないで下さい」と云った。最初は冗談だと思っていたが、彼の顔つきは真剣そのものだった。それでなんとなく理解出来た。私が彼のお宅に招待され、彼の奥さんにお会いしたのはそれが最初であり最後であった。招待を受けた時、フランス人が経営している外国人向けのスーパーマーケットのプリゾニックで、マダガスカルで最も人気のある白のダウンジャケットをアンセルメの奥さんに買っていったのだ。彼女は飛び上がらんばかりに喜び、涙を流しさえした。薄手のダウンジャケットは、私にとってはどうと云う金額ではなかったが、公務員の給料ではかなりの高値であったようである。それに、白のダウンジャケットはアンタナナリブの住民にとって一種のステータスシンボルでもあったようだ。
アフリカでダウンジャケットなど奇異に感じるかもしれないが、彼等は日本人の私が半袖でも寒さを感じないのに、冬(4月ごろから10月ごろまで)にはウールの厚いジャケットを着たり、薄手のダウンジャケットを着たりする。陽が沈んでから気温が下がり、私にも半袖では寒いと感じる日もある。それでもそのようなものを着る必要はなかった。だが、用心のために薄手のセーターと夏用のジャケットを一着、それに公式の場に出るための夏のスーツは持参していた。マダガスカル人の体温は一般に我々日本人よりかなり高い。従って暑さには強く、寒さには弱いのではなかろうか。

フィアナランツィオの山中に黒檀を探しに行く途中で立ち寄った民家。庭に大きな檻があり、そこには原始猿が数匹いた。マダガスカル政府は個人で原始猿を飼うことを禁じている筈であるが、この家では堂々と飼われていた。家人が持ってきてくれたバナナを見せると、一匹が直ぐに近寄ってきて網の間から手を出してバナナを掴んだ。私の手にまだバナナが残っているのを認めると、じっと私の顔を見ながら手を出した。残りのバナナを掴むと直ぐに檻の奥の方に行ってしまい、私は猿に触れることも出来なかった。「この猿どもは飼い主の我々にも慣れないんです。日本の旦那からエサを受け取ったのは驚きです」とジルス・ベドに云ったそうだ。何という種類の原始猿かとジルス・ベドを通して聞いてみたが、ただ「マキ」と云っただけだった。西海岸では猿のことを「ラジャコ」と云い、此の東海岸側では「マキ」と云う。マダガスカル語にそれほど多くの方言はないようだが、「猿」の呼び方にはあった。また、冷たい、或いは寒いを意味する標準語は「マガチカ」だが、東海岸北部では「マガチャカ」と云う。これ以外に、私は方言を知らないが、まだ多くの方言があるのかもしれない。

山の中に入って行く筈であるのに、平らな道がどこまでも続いていた。

平らな道どころか、草原に出てしまった。道を間違えたわけではないようだ。ジルス・ベドは「知り合いの家に寄りたいのですが、宜しいですか?」と私の了承を求めた。悪いわけがない。

可愛い娘さんを連れて出迎えてくれた。色は黒いが、メリナ族に違いない。この辺りでは非常に珍しい。多くの人がアンタナナリブに住みたがるのに、彼か或いは彼の祖先が、どのような事情で逆にアンタナナリブから出てきたのであろうか。興味のあることだった。而し、彼は英語が話せず、話せるのはマダガスカル語とフランス語だけであった。



彼のお宅でも「マキ」を飼っていた。檻はあるが、出入り自由で放し飼い状態であった。家人がエサを与えると檻から出てくるが、人間に友好的な態度は示さなかった。私は近寄り、熱心に猿たちを見ていたが、彼等は完全に私を無視していた。ジルス・ベドが説明してくれた。猿たちは決して逃げようとはしないが、人間の膝に乗ったり、甘えたりするようなことは全くないそうだ。

家の中に招き入れられ、美味しい紅茶を頂いた。奥さんもメリナ族のようであったが、東洋人の血が混ざっているようにも感じられた。ジルス・ベドとはフランス語とマダガスカル語で話していたので内容は全く理解出来なかったが、非常に親しそうであった。

道を少し走ると、またすぐに草原に出た。その先に海に注ぐ大きな川が見えた。巨大な川幅は、それが湖であるかのように見える。・

いよいよ山道に入ったと感じたが、非常に緩やかな登り坂だった。そして、走りも非常に緩やかになった。先を歩く村人をこちらから除けさせてまで先を急ごうとしないのがマダガスカル流なのであろうか。


上の二枚は上野動物園で撮った「ワオキツネザル」(輪尾狐猿)である。太い尾に輪の模様のある原始猿である。
アンタナナリブのチンバザザ動物園(Tsimbazaza Zoo、マダガスカル編1をご参照願いたい)で見るより、上野動物園で見る方がずっと近くで見られる。チンバサザ動物園では、お客は芝生の上に座って見ていた。芝生の向こうには池があり、その向こうの島で猿たちは放し飼いになっていた。私の見た限り、数種類の猿が一緒に暮らしていたようだった。
その人は「どうぞ、こちらにお座りになりませんか?」と向かい側の席を示した。私は喜んで座った。ウェイターのアンドレーがコーヒーを持ってきながら「卵二個の半熟両面焼きですね」と念を押した。「それと、ハムステーキも頼む」と追加した。今日は午前中から重労働が予想される。充分に栄養をつけなければならない。料理が来るまでに、我々は自己紹介を済ませた。「名刺を切らして、すみません。私はイトウと云います。イタリーの伊に東と書きます(仮名)」。伊東さんはジャイカから派遣されてきた元漁労長だと説明してくれた。マジュンガに居た時は、専属の通訳がいたからよかったけど、アンタナナリブに戻ってきた途端に言葉に不自由していますと苦笑いしていた。マジュンガでの仕事を一応終えたので、アンタナナリブで二、三日骨休めをしてから日本に帰るのだそうだ。マジュンガに二カ月ほどいたらしい。マダガスカルには年に二回ほど来るとも云っていた。
食事をしながら、彼はとんでもないことを云った。「マダガスカルで女を手に入れるには一銭もかかりません」。私が怪訝な顔をすると、彼は「ホテルの部屋の番号と時間を書いたメモを、めぼしい女の子に渡せばいいのです。6割から7割の確立で来ます。気をつけないとダブってしまうこともあります」と彼は楽しそうに云って笑った。水商売の女の子ではなく、銀行や商店で働いている行員や店員のことを云っていると分って驚いた。
アンセルメ・ジャオリズィキーに会った時に、この話をした。「こんなことって、あるのか?」と聞くと、彼はしばらく考えてから「充分にあると思います」と云ってから彼は説明してくれた。元来マダガスカル人は外国人を好きである。そして特に日本人が好きなようだ。しばらく信じられない顔でアンセルメを見ていた。すると、彼は真剣な顔で「アザファディ(どうかお願いします)、その種のメモを私の家内に渡さないで下さい」と云った。最初は冗談だと思っていたが、彼の顔つきは真剣そのものだった。それでなんとなく理解出来た。私が彼のお宅に招待され、彼の奥さんにお会いしたのはそれが最初であり最後であった。招待を受けた時、フランス人が経営している外国人向けのスーパーマーケットのプリゾニックで、マダガスカルで最も人気のある白のダウンジャケットをアンセルメの奥さんに買っていったのだ。彼女は飛び上がらんばかりに喜び、涙を流しさえした。薄手のダウンジャケットは、私にとってはどうと云う金額ではなかったが、公務員の給料ではかなりの高値であったようである。それに、白のダウンジャケットはアンタナナリブの住民にとって一種のステータスシンボルでもあったようだ。
アフリカでダウンジャケットなど奇異に感じるかもしれないが、彼等は日本人の私が半袖でも寒さを感じないのに、冬(4月ごろから10月ごろまで)にはウールの厚いジャケットを着たり、薄手のダウンジャケットを着たりする。陽が沈んでから気温が下がり、私にも半袖では寒いと感じる日もある。それでもそのようなものを着る必要はなかった。だが、用心のために薄手のセーターと夏用のジャケットを一着、それに公式の場に出るための夏のスーツは持参していた。マダガスカル人の体温は一般に我々日本人よりかなり高い。従って暑さには強く、寒さには弱いのではなかろうか。

フィアナランツィオの山中に黒檀を探しに行く途中で立ち寄った民家。庭に大きな檻があり、そこには原始猿が数匹いた。マダガスカル政府は個人で原始猿を飼うことを禁じている筈であるが、この家では堂々と飼われていた。家人が持ってきてくれたバナナを見せると、一匹が直ぐに近寄ってきて網の間から手を出してバナナを掴んだ。私の手にまだバナナが残っているのを認めると、じっと私の顔を見ながら手を出した。残りのバナナを掴むと直ぐに檻の奥の方に行ってしまい、私は猿に触れることも出来なかった。「この猿どもは飼い主の我々にも慣れないんです。日本の旦那からエサを受け取ったのは驚きです」とジルス・ベドに云ったそうだ。何という種類の原始猿かとジルス・ベドを通して聞いてみたが、ただ「マキ」と云っただけだった。西海岸では猿のことを「ラジャコ」と云い、此の東海岸側では「マキ」と云う。マダガスカル語にそれほど多くの方言はないようだが、「猿」の呼び方にはあった。また、冷たい、或いは寒いを意味する標準語は「マガチカ」だが、東海岸北部では「マガチャカ」と云う。これ以外に、私は方言を知らないが、まだ多くの方言があるのかもしれない。

山の中に入って行く筈であるのに、平らな道がどこまでも続いていた。

平らな道どころか、草原に出てしまった。道を間違えたわけではないようだ。ジルス・ベドは「知り合いの家に寄りたいのですが、宜しいですか?」と私の了承を求めた。悪いわけがない。

可愛い娘さんを連れて出迎えてくれた。色は黒いが、メリナ族に違いない。この辺りでは非常に珍しい。多くの人がアンタナナリブに住みたがるのに、彼か或いは彼の祖先が、どのような事情で逆にアンタナナリブから出てきたのであろうか。興味のあることだった。而し、彼は英語が話せず、話せるのはマダガスカル語とフランス語だけであった。



彼のお宅でも「マキ」を飼っていた。檻はあるが、出入り自由で放し飼い状態であった。家人がエサを与えると檻から出てくるが、人間に友好的な態度は示さなかった。私は近寄り、熱心に猿たちを見ていたが、彼等は完全に私を無視していた。ジルス・ベドが説明してくれた。猿たちは決して逃げようとはしないが、人間の膝に乗ったり、甘えたりするようなことは全くないそうだ。

家の中に招き入れられ、美味しい紅茶を頂いた。奥さんもメリナ族のようであったが、東洋人の血が混ざっているようにも感じられた。ジルス・ベドとはフランス語とマダガスカル語で話していたので内容は全く理解出来なかったが、非常に親しそうであった。

道を少し走ると、またすぐに草原に出た。その先に海に注ぐ大きな川が見えた。巨大な川幅は、それが湖であるかのように見える。・

いよいよ山道に入ったと感じたが、非常に緩やかな登り坂だった。そして、走りも非常に緩やかになった。先を歩く村人をこちらから除けさせてまで先を急ごうとしないのがマダガスカル流なのであろうか。


上の二枚は上野動物園で撮った「ワオキツネザル」(輪尾狐猿)である。太い尾に輪の模様のある原始猿である。
アンタナナリブのチンバザザ動物園(Tsimbazaza Zoo、マダガスカル編1をご参照願いたい)で見るより、上野動物園で見る方がずっと近くで見られる。チンバサザ動物園では、お客は芝生の上に座って見ていた。芝生の向こうには池があり、その向こうの島で猿たちは放し飼いになっていた。私の見た限り、数種類の猿が一緒に暮らしていたようだった。
禁じられている原始猿の飼育を堂々とやっている。おおらかなものです。
マダガスカル人は何事につけ、よく云えば大らか、悪く云えばいい加減です。ですが、印象としては日本人にはない大らかさの方がより強く感じました。
コメントを、また宜しくお願い致します。
今回の記事で食事をしながら、とんでもないことを云われたようですね。日本が高度成長期に東南アジアに出かけた親父たちがよく自慢話しをしていたのを思い出しました。いつも、やな気分で耳に入ってきました。
今ではそんな不遜な連中はいない?と思いますが、あってはならないと思います。 今、某国が騒いでいることのように、いつ曲解と誤解にねじ曲げられるか分かりません。 異なる民族の間で少しの隙が国家間で取り返しのきかない大事になるかも知れません。
謙虚で尊敬される日本人であってほしいと思います。
可笑しな情報を私に提供した人を「仮名」にしたのはFさんのご節に諸手を挙げて賛成するからです。この「仮名」氏とはその後は会っていませんが、つまらない事件を起こさないよう願っておりました。