夕食が終り、コーヒーを飲んでいると隣のテーブルから「日本のお方ですか?」と聞かれた。「えぇ、日本人です」と答えると、「随分と、遠くにお出でになりましたね。この辺りで日本のお方を見かけるのは、私にとっては初めてです」と云って名刺をよこした。商事会社、ジョシアネ・ラトムポミフィディと名前が印刷されており、その下に小さく「社長」と書かれていた。陽に焼けて黒く見えるが、名前からすると確実にメリナであると判断した。「アンタナナリブからですか?」と聞くと、「そうです。魚貝類を買いに来ています。日本のお蔭でアンタナナリブでも新鮮な魚貝類が食べられるようになりました」と感謝された。
マダガスカル編の6でも触れたように、マジュンガは漁船の基地である。ジャイカ(JICA、国際協力機構)が大きな漁船で漁労長の経験のある人を派遣して日本式の魚の漁獲法を伝授したと聞いている。そして、日本政府はその運搬に必要な冷凍車や冷蔵車を寄贈した。あまり魚を食べる習慣のなかったアンタナナリブの住人にとって最初は日本から寄贈された車両だけで足りていたが、魚の良さがわかると需要が伸び、その後は車載用の冷凍機と冷蔵機を日本から輸入して自分たちで組立てたらしい。今ではアンタナナリブのどこのレストランでもごく普通に魚貝類の料理が食べられ、スーパーマーケットでも海の魚が手に入る。
ジョシアネ・ラトムポミフィディ氏は自分のテーブルから私のテーブルに移ってきてしまった。かなりの話好きらしい。世間話をしている中で、「コリン」(フランス語で植民地の意)と云う言葉が出て、直ぐに英語の「コロニィー」と云い直された。植民地の話など嫌だなと思っていると、「日本は何故マダガスカルを日本の植民地にしてくれなかったのですか」と云われた。口調は「?」ではなく「!」であった。私が怪訝な顔をすると、「日本の支配下にあった国々はどこも経済が目覚ましく発展しています。フランスのように何もかも植民地から持って行かずに、日本は植民地に資産を持ってきたのです。お蔭でそれらの国のインフラは整備され、その結果、経済は爆発的に発展しました。私は台湾に行ったときに、その発展ぶりに驚きました」と目を輝かせた。一時、台湾とアンタナナリブとの間に直行便があったことがあった。両国はかなり親密な関係であったようだ。アンセルメ・ジャオリズィキーも何度か台湾に出張している。
ラトムポミフィディ氏の話はまだ続いた。第二次世界大戦のとき、日本海軍の潜水艦基地がマダガスカルの最北端にあるディエゴスアレス(現在の地名はアンツィラナナ)にあった。その時に、日本はそのままマダガスカルを植民地にしてしまえばよかったのだと云うのが氏のお説であった。この、マダガスカル植民地説はこの後も複数の人から何度も聞いた。この話を植民地の話で萎縮している国会議員の先生方に聞かせてあげたいと思った。


ベド社長が最も信頼しているBIEの社員。決して目立つことなく、黙々と仕事をこなしている。普段は無口だが、しゃべりだすと止まらなくなるほど自説を披露する。だが自慢しているようには感じられなかった。

森の中から製材工場への中継地点にパリサンダーのフリッチが運び出されてきた。かなり古そうだったが、木目は素晴らしい。床柱にするには、完全に乾燥された材の方がいい。インドネシアの黒檀などは切り倒してから5年も6年も寝かしておくと聞いている。

左から、ジルス・ベド社長、私、新任の森林大臣、大臣の秘書兼運転手兼護衛(現地労働者の元締めとの触れ込みで、大臣の安全を確保するために来ていたのだと此の日に判明した。ジルス・ベドは承知していたらしかった)。私がパリサンダーを買いに来たのを伝え聞き、我々の仕事場を視察に来たのだ。秘書の話だと大臣はアンタナナリブからわざわざ来たのだとのことだ。この機会にマジュンガの森林を全て見て廻る予定らしい。恐らく軍のヘリコプターで上空から見るだけだろう。足で歩いて廻ったら、一カ月はかかるだろう。それほどに森は深い。
当時の大統領はアルベール・ザフィ―だったが、この翌年(1996年)の9月5日に弾劾に依って任を解かれ、暫定大統領のラツィラホナナを経て、1997年の2月にベツィミサラカ族のラチラカ大統領が再登場した。だが、今回の任期は短く、2002年の2月に終った。

マジュンガで唯一の銀行。今日は金曜日なので、銀行が閉る寸前に両替を済ませた。

土曜日の午前8時ごろ。温度は既に摂氏40度近くになっている、と渋々ついてきたBIEの社員が云っていた。だが、海からの風が涼しく、それほどの暑さを感じなかった。

公園の木の陰に入ると、全く暑さを感じなかった。むしろ朝の清々しさが味わえた。

BIEの社員は日陰から出ないようにして海を眺めていた。陽焼を気にしていたのだろうか?

操業中の漁船は見かけなかった。土曜日と日曜日は漁を休むそうだ。


この海の向こう、約500キロメートル程の所にアフリカ大陸のモザンビークがある。アフリカ大陸へは此処からが一番近い。



かなり汗ばむようになってきたのでホテルに戻ることにした。而し、朝の散歩を楽しんでいるマダガスカル人が私の他にも何人かいた。

「マジュンガの街は、午後3時には完全に死にます」とジルスが云ったことが実感出来た。此の商店街は暑さのため「死の町」そのものだった。遅い昼食を済ませてホテルを出るときに、「40度を越しています」と従業員の一人が私の外出を止めようとした。マラリアの熱に比べればどうと云うことはない。それに東京と違い、マジュンガの湿度は高くない。だが、考えは甘かった。
此の商店街に来る途中で何かにけつまづいた。見ると、私とそれほど変わらぬ体格の犬が昼寝をしていた。私に蹴飛ばされたのだが起きようともしなかった。目を覚まさせてしまったら大変なことになるところだった。幾ら湿度が低いとは云え、40度を超す暑さは尋常ではない。熱風が肺の中に吸い込まれていくような気がした。森の中は如何に涼しかったのかと、恵みを感じた。
マダガスカル編の6でも触れたように、マジュンガは漁船の基地である。ジャイカ(JICA、国際協力機構)が大きな漁船で漁労長の経験のある人を派遣して日本式の魚の漁獲法を伝授したと聞いている。そして、日本政府はその運搬に必要な冷凍車や冷蔵車を寄贈した。あまり魚を食べる習慣のなかったアンタナナリブの住人にとって最初は日本から寄贈された車両だけで足りていたが、魚の良さがわかると需要が伸び、その後は車載用の冷凍機と冷蔵機を日本から輸入して自分たちで組立てたらしい。今ではアンタナナリブのどこのレストランでもごく普通に魚貝類の料理が食べられ、スーパーマーケットでも海の魚が手に入る。
ジョシアネ・ラトムポミフィディ氏は自分のテーブルから私のテーブルに移ってきてしまった。かなりの話好きらしい。世間話をしている中で、「コリン」(フランス語で植民地の意)と云う言葉が出て、直ぐに英語の「コロニィー」と云い直された。植民地の話など嫌だなと思っていると、「日本は何故マダガスカルを日本の植民地にしてくれなかったのですか」と云われた。口調は「?」ではなく「!」であった。私が怪訝な顔をすると、「日本の支配下にあった国々はどこも経済が目覚ましく発展しています。フランスのように何もかも植民地から持って行かずに、日本は植民地に資産を持ってきたのです。お蔭でそれらの国のインフラは整備され、その結果、経済は爆発的に発展しました。私は台湾に行ったときに、その発展ぶりに驚きました」と目を輝かせた。一時、台湾とアンタナナリブとの間に直行便があったことがあった。両国はかなり親密な関係であったようだ。アンセルメ・ジャオリズィキーも何度か台湾に出張している。
ラトムポミフィディ氏の話はまだ続いた。第二次世界大戦のとき、日本海軍の潜水艦基地がマダガスカルの最北端にあるディエゴスアレス(現在の地名はアンツィラナナ)にあった。その時に、日本はそのままマダガスカルを植民地にしてしまえばよかったのだと云うのが氏のお説であった。この、マダガスカル植民地説はこの後も複数の人から何度も聞いた。この話を植民地の話で萎縮している国会議員の先生方に聞かせてあげたいと思った。


ベド社長が最も信頼しているBIEの社員。決して目立つことなく、黙々と仕事をこなしている。普段は無口だが、しゃべりだすと止まらなくなるほど自説を披露する。だが自慢しているようには感じられなかった。

森の中から製材工場への中継地点にパリサンダーのフリッチが運び出されてきた。かなり古そうだったが、木目は素晴らしい。床柱にするには、完全に乾燥された材の方がいい。インドネシアの黒檀などは切り倒してから5年も6年も寝かしておくと聞いている。

左から、ジルス・ベド社長、私、新任の森林大臣、大臣の秘書兼運転手兼護衛(現地労働者の元締めとの触れ込みで、大臣の安全を確保するために来ていたのだと此の日に判明した。ジルス・ベドは承知していたらしかった)。私がパリサンダーを買いに来たのを伝え聞き、我々の仕事場を視察に来たのだ。秘書の話だと大臣はアンタナナリブからわざわざ来たのだとのことだ。この機会にマジュンガの森林を全て見て廻る予定らしい。恐らく軍のヘリコプターで上空から見るだけだろう。足で歩いて廻ったら、一カ月はかかるだろう。それほどに森は深い。
当時の大統領はアルベール・ザフィ―だったが、この翌年(1996年)の9月5日に弾劾に依って任を解かれ、暫定大統領のラツィラホナナを経て、1997年の2月にベツィミサラカ族のラチラカ大統領が再登場した。だが、今回の任期は短く、2002年の2月に終った。

マジュンガで唯一の銀行。今日は金曜日なので、銀行が閉る寸前に両替を済ませた。

土曜日の午前8時ごろ。温度は既に摂氏40度近くになっている、と渋々ついてきたBIEの社員が云っていた。だが、海からの風が涼しく、それほどの暑さを感じなかった。

公園の木の陰に入ると、全く暑さを感じなかった。むしろ朝の清々しさが味わえた。

BIEの社員は日陰から出ないようにして海を眺めていた。陽焼を気にしていたのだろうか?

操業中の漁船は見かけなかった。土曜日と日曜日は漁を休むそうだ。


この海の向こう、約500キロメートル程の所にアフリカ大陸のモザンビークがある。アフリカ大陸へは此処からが一番近い。



かなり汗ばむようになってきたのでホテルに戻ることにした。而し、朝の散歩を楽しんでいるマダガスカル人が私の他にも何人かいた。

「マジュンガの街は、午後3時には完全に死にます」とジルスが云ったことが実感出来た。此の商店街は暑さのため「死の町」そのものだった。遅い昼食を済ませてホテルを出るときに、「40度を越しています」と従業員の一人が私の外出を止めようとした。マラリアの熱に比べればどうと云うことはない。それに東京と違い、マジュンガの湿度は高くない。だが、考えは甘かった。
此の商店街に来る途中で何かにけつまづいた。見ると、私とそれほど変わらぬ体格の犬が昼寝をしていた。私に蹴飛ばされたのだが起きようともしなかった。目を覚まさせてしまったら大変なことになるところだった。幾ら湿度が低いとは云え、40度を超す暑さは尋常ではない。熱風が肺の中に吸い込まれていくような気がした。森の中は如何に涼しかったのかと、恵みを感じた。
植民地の件ですが、マダガスカル以外でも、アジアや欧米諸国の人たちからも日本寄りの話を何度も聞いています。中には悪い奴もいたかもしれませんが、我々の多くの先輩たちは決して悪くはありません。
我々日本人の心の中には「侍」の精神が残っており、人前で自慢するようなことは得意ではないのかもしれません。ですが、いつかは一矢報いたいですね。
舌を噛みそうな名前ばかりが出てきますが、よく理解できて驚きです。
戦時中の有ること無いことをほじくりかえして躍起になって日本を貶めようとする国がありますが、良い面は沢山あるのになかなか表面に出ません。
草の根のロビー活動ができる体制は日本には存在するのだろうか。
戦後、日本の貢献した実績をデータで示し、戦略を持って上手に発信出来ていません。 これは我が国の弱点のうちの一つですね。