マジュンガはモロンダバ(マダガスカル編の9~12をご参照願いたい)から北へ直線で600キロ弱だが、海岸線を北上すると800キロほどの所にある。此処まで北に来ると、その暑さはモロンダバの比ではない。モロンダバに多くいるサカラバ族は、暑さに耐え兼ねてマジュンガから南に移って行った人たちの子孫なのだろうか?だが、モロンダバにはバラ族やマファリ族はいない。彼等はサカラバ族のようにマジュンガから出ようとはしなかったのだろうか?私は民俗学者ではないのでその辺の事情は分からないが、非常に興味のあるところである。
マダガスカルの中央高地は、アンタナナリブほどではないにしても比較的涼しいが、海岸地帯は東西南北のどこでも熱い。その中でもとりわけ暑いのがマジュンガである。だが、東京の暑さに比べたら、湿度が低いので非常にしのぎやすい。日中に外を歩き廻る私にマダガスカル人は奇異な目を向けている。
マダガスカルから離れて恐縮だが、香港の暑さについて述べたい。ご存じの方も多いと思うが、香港の夏の暑さは例えようがない。私がこの仕事を引退した後、香港に住んでいる長女に頼まれて6月、7月と8月を香港で過ごしたことがある。テレビの朝のニュースを見ていると、必ず今日の最高気温と湿度をしつこいように何度も繰り返す。気温は36度前後の日が多いが、湿度は連日のように85%とか90%だとごく普通のように云っている。娘の亭主は「そんな湿度に驚かないで下さい、5月なんて100%の日が連続してあります」と云った。水の中に居るのが「湿度100%」であると私は当然のように考えていたが、「湿度90%」でも周囲が濡れていないのであるから、「湿度」と「水分」とは別のものであると理解した。屋内に居ても、エアコンを停めてしまったら地獄である。当時、香港の街を走っているバスはエアコンのあるバスが、ないものよりかなり多くなっていたが、日本のように100%ではなかった。恐らく60%ぐらいしかエアコンを装備したバスは走っていなかったのではないだろうか。涼しいエアコンバスに対して、エアコンの入ってないバスは「暖房バス」と呼ばれていた。エアコンバスは、乗る距離によって暖房バスより1香港ドル(当時の相場で約10円)から5香港ドル(同約50円)ほど高かった。香港の人たちは暖房バスをやり過ごし、エアコンの付いているバスが来るまで待つ人が多かった。娘の亭主に聞いたことがあった。「冬になったら、エアコンはどうするんだ?」と聞いた。すると、彼はニコリともしないで「勿論エアコンはつけます。エアコンの料金を貰っているので、つけなければ(お客に)悪いです。お客はオーバーの襟を立てて寒さに震えています」と云った。マダガスカルもトンチンカンなところがやたらと多いが、この香港も相当なものだ。まだある。香港の歩行者用信号は、「青」は進め、「黄」は左右をちょっと見て進め、「赤」は左右をよく見て早足で進めなのだそうだ。香港島で、警官がこのようにしているのを目撃したことがある。カオルーンの繁華街で、私も香港流の「進め」をしようとしたら、横にいたアメリカ人に腕をつかまれた。「信号は赤だよ、ミスター」。それで香港の信号の判読法を教えてやった。「ローマに従えだ」(郷に入れば郷に従え)。彼は奥さんに抱きつくようにして笑いこけた。そして私と一緒に赤信号で渡り終えた。まだある。娘の亭主の車を運転しているとき、前を三、四人のお嬢さんが横断歩道ではない処で小走りに横切った。私はブレーキを踏み、止る寸前までスピードを落とした。「お父さん、何故止るんです!」と云われた。止るのが当たり前だと考えていたのだが、「もし後ろからぶつけられたらどうします?」。そうかと云って、あそこでブレーキを踏まなかったら確実にお嬢さん達を轢いてしまうことになる。香港ではそれでもかまわないらしい。歩行者用信号の判読法とかなり矛盾していると思うが、これも香港流なのだろう。

陽がかなり高くなってきていたが、ホテルのレストランに客はいなかった。日曜日であるため、客たちはまだ寝ているのであろう。

部屋はそれほど広くなかったが、シーツは一日おきに替えられ、非常に快適な部屋だった。

世界で一番幹の太い木だと云われた。この木もバオバブなのだそうだが、モロンダバで見たバオバブとは種類が違うように見えた。立札があり、マダガスカル語とフランス語で説明されていたが、私には全く理解出来なかった。いいと云うのに無理やりついてきたBIEの社員が説明してくれた。

最初に彼を見たときは現地の労働者だと思ったが、BIEの社員だった。社長に云われたのだろう、いくら暑くなってきても私の傍から離れなかった。彼は想像以上に達者な英語を話した。

ジルス・ベド社長のご両親。父親は第一期ラチラカ大統領時代の終了まで、20年近くを法務大臣として務めた。

ジルス・ベド社長ご夫妻。奥さんはフランス人かと思ったが、そうではなくフランス人との混血だそうだ。ジルスの母親に何か云われた。料理のお替りをどうかと勧められたのだと思う。彼女は「ブキ、ブキ・べ」(満腹です、非常に満腹です)と云った。随分と食べたらしい。私がニヤッとすると、ジルスの母親に「今の会話、お判りになったのですか?」と聞かれた。頷くと、嬉しそうな顔をした。外国人が自国の言葉を理解するのを喜ぶのは世界共通である。

ヨーロッパへの出張から帰ってきていたアンセルメ・ジャオリズィキー課長。彼も一緒にベド家の食卓に招かれた。「(法務大臣時代に)随分残しただろうなぁ」と云ったのが彼のベド家に対する最初の感想だった。彼はフランスとイギリスへの出張だったが、費用を節約するため、食事の殆どをハンバーガー・スタンドで済ましたとぼやいていた。
C社長についての詳しい情報はまだ手に入っていなかったが、アンセルメ・ジャオリズィキーは暗い顔をして「あまりいい状況にはないようです」と云った。出来る限りのことをしたいが、何をどうするか考える材料がない。「商務省の課長の立場を利用して、調べています」と私が急かせるのを抑えるように穏やかに云った。もうしばらく待つことにした。

元法務大臣ご夫妻との談笑。ベド氏より奥様の英語の方が上手だった。
マジュンガからパリサンダーのフリッチが到着するまでの間にマナカラ(東海岸側にあり、南緯22度の地点。フォー・ドーファンよりはかなり北にある。マダガスカル編の6をご参照願いたい。宝石の町として知られている)とフィアナランツィオ(マナカラから北西に200キロほどの山中にある。同じくマダガスカル編の6をご参照願いたい、砂金の豊富な場所である)に行くことになった。而し、その前に大使館に顔を出すことにした。私とあまり馴染のない大使館員はちょっと会釈しただけだったが、医師は医務室から飛び出すなり、「どうしたのです?しばらくお見えにならなかったじゃないですか」と私の肩に手をかけながら云った。マラリアの顛末を話した。聞き終わると、マダガスカル編の25でも述べたように「いま、貴方が此処にいるのは奇跡としか云いようがありません。10パーセントのマラリア菌を持って生き残ったのは、私の知る限り貴方だけです」と云った。
医務室の応接室で医師と神戸淡路大震災(1995年1月17に発生)について話していると、大使館の日本人職員のお嬢さんが緑茶とお煎餅を持ってきてくれた。美味しかった。医師は「実は、大使館に10,000マダガスカル・フランを届けてくれたマダガスカル人がいたのです」と非常に嬉しそうに云った。平均月収5万マダガスカル・フラン(1,250円)の人が1万マダガスカル・フラン(250円)を寄付してくれたのである。分りやすく日本円で換算すると、月収30万円の人がそのうちの37,500円を寄付してくれたことになる。而し、その重みは数等倍である。不覚にも思わず涙が出てしまった。欧米諸国の人から100万円の寄付を頂くよりも嬉しかった。
寄付こそ頂かなかったが、ホテルでも、銀行でも行く先々で「大震災、お悔やみ申し上げます」と云われた。その度にこの国を裏切るような行為は出来ないと思った。



朝早くにマナカラに向けて出発した。小休憩のとき、公衆便所などあるとは思わなかったが、公園の一部であったようなので、「トイレはどこ?」と聞いた。ジルス・ベドは両手を大きく広げ、「此処からあのホライゾン(地平線)まで、全て貴方のおトイレです」と云った。以後、日本に帰ってきて外で失礼するときは「アフリカのトイレ」と云うことが習慣になってしまった。


市街地に近づくと道路は格段によくなり、車のスピードも自然と上る。


マナカラのホテルに着いた。山の中の道を避け、出来る限り早く海岸線の道路に出たため、非常に快適に走れた。マダガスカル唯一の貿易港のトマシナまでの道は非常に良く整備されている。海岸道路に出て左に行けばトマシナであるが、右に行けば、マナンジャリー、マナカらへと行ける。
マダガスカルの中央高地は、アンタナナリブほどではないにしても比較的涼しいが、海岸地帯は東西南北のどこでも熱い。その中でもとりわけ暑いのがマジュンガである。だが、東京の暑さに比べたら、湿度が低いので非常にしのぎやすい。日中に外を歩き廻る私にマダガスカル人は奇異な目を向けている。
マダガスカルから離れて恐縮だが、香港の暑さについて述べたい。ご存じの方も多いと思うが、香港の夏の暑さは例えようがない。私がこの仕事を引退した後、香港に住んでいる長女に頼まれて6月、7月と8月を香港で過ごしたことがある。テレビの朝のニュースを見ていると、必ず今日の最高気温と湿度をしつこいように何度も繰り返す。気温は36度前後の日が多いが、湿度は連日のように85%とか90%だとごく普通のように云っている。娘の亭主は「そんな湿度に驚かないで下さい、5月なんて100%の日が連続してあります」と云った。水の中に居るのが「湿度100%」であると私は当然のように考えていたが、「湿度90%」でも周囲が濡れていないのであるから、「湿度」と「水分」とは別のものであると理解した。屋内に居ても、エアコンを停めてしまったら地獄である。当時、香港の街を走っているバスはエアコンのあるバスが、ないものよりかなり多くなっていたが、日本のように100%ではなかった。恐らく60%ぐらいしかエアコンを装備したバスは走っていなかったのではないだろうか。涼しいエアコンバスに対して、エアコンの入ってないバスは「暖房バス」と呼ばれていた。エアコンバスは、乗る距離によって暖房バスより1香港ドル(当時の相場で約10円)から5香港ドル(同約50円)ほど高かった。香港の人たちは暖房バスをやり過ごし、エアコンの付いているバスが来るまで待つ人が多かった。娘の亭主に聞いたことがあった。「冬になったら、エアコンはどうするんだ?」と聞いた。すると、彼はニコリともしないで「勿論エアコンはつけます。エアコンの料金を貰っているので、つけなければ(お客に)悪いです。お客はオーバーの襟を立てて寒さに震えています」と云った。マダガスカルもトンチンカンなところがやたらと多いが、この香港も相当なものだ。まだある。香港の歩行者用信号は、「青」は進め、「黄」は左右をちょっと見て進め、「赤」は左右をよく見て早足で進めなのだそうだ。香港島で、警官がこのようにしているのを目撃したことがある。カオルーンの繁華街で、私も香港流の「進め」をしようとしたら、横にいたアメリカ人に腕をつかまれた。「信号は赤だよ、ミスター」。それで香港の信号の判読法を教えてやった。「ローマに従えだ」(郷に入れば郷に従え)。彼は奥さんに抱きつくようにして笑いこけた。そして私と一緒に赤信号で渡り終えた。まだある。娘の亭主の車を運転しているとき、前を三、四人のお嬢さんが横断歩道ではない処で小走りに横切った。私はブレーキを踏み、止る寸前までスピードを落とした。「お父さん、何故止るんです!」と云われた。止るのが当たり前だと考えていたのだが、「もし後ろからぶつけられたらどうします?」。そうかと云って、あそこでブレーキを踏まなかったら確実にお嬢さん達を轢いてしまうことになる。香港ではそれでもかまわないらしい。歩行者用信号の判読法とかなり矛盾していると思うが、これも香港流なのだろう。

陽がかなり高くなってきていたが、ホテルのレストランに客はいなかった。日曜日であるため、客たちはまだ寝ているのであろう。

部屋はそれほど広くなかったが、シーツは一日おきに替えられ、非常に快適な部屋だった。

世界で一番幹の太い木だと云われた。この木もバオバブなのだそうだが、モロンダバで見たバオバブとは種類が違うように見えた。立札があり、マダガスカル語とフランス語で説明されていたが、私には全く理解出来なかった。いいと云うのに無理やりついてきたBIEの社員が説明してくれた。

最初に彼を見たときは現地の労働者だと思ったが、BIEの社員だった。社長に云われたのだろう、いくら暑くなってきても私の傍から離れなかった。彼は想像以上に達者な英語を話した。

ジルス・ベド社長のご両親。父親は第一期ラチラカ大統領時代の終了まで、20年近くを法務大臣として務めた。

ジルス・ベド社長ご夫妻。奥さんはフランス人かと思ったが、そうではなくフランス人との混血だそうだ。ジルスの母親に何か云われた。料理のお替りをどうかと勧められたのだと思う。彼女は「ブキ、ブキ・べ」(満腹です、非常に満腹です)と云った。随分と食べたらしい。私がニヤッとすると、ジルスの母親に「今の会話、お判りになったのですか?」と聞かれた。頷くと、嬉しそうな顔をした。外国人が自国の言葉を理解するのを喜ぶのは世界共通である。

ヨーロッパへの出張から帰ってきていたアンセルメ・ジャオリズィキー課長。彼も一緒にベド家の食卓に招かれた。「(法務大臣時代に)随分残しただろうなぁ」と云ったのが彼のベド家に対する最初の感想だった。彼はフランスとイギリスへの出張だったが、費用を節約するため、食事の殆どをハンバーガー・スタンドで済ましたとぼやいていた。
C社長についての詳しい情報はまだ手に入っていなかったが、アンセルメ・ジャオリズィキーは暗い顔をして「あまりいい状況にはないようです」と云った。出来る限りのことをしたいが、何をどうするか考える材料がない。「商務省の課長の立場を利用して、調べています」と私が急かせるのを抑えるように穏やかに云った。もうしばらく待つことにした。

元法務大臣ご夫妻との談笑。ベド氏より奥様の英語の方が上手だった。
マジュンガからパリサンダーのフリッチが到着するまでの間にマナカラ(東海岸側にあり、南緯22度の地点。フォー・ドーファンよりはかなり北にある。マダガスカル編の6をご参照願いたい。宝石の町として知られている)とフィアナランツィオ(マナカラから北西に200キロほどの山中にある。同じくマダガスカル編の6をご参照願いたい、砂金の豊富な場所である)に行くことになった。而し、その前に大使館に顔を出すことにした。私とあまり馴染のない大使館員はちょっと会釈しただけだったが、医師は医務室から飛び出すなり、「どうしたのです?しばらくお見えにならなかったじゃないですか」と私の肩に手をかけながら云った。マラリアの顛末を話した。聞き終わると、マダガスカル編の25でも述べたように「いま、貴方が此処にいるのは奇跡としか云いようがありません。10パーセントのマラリア菌を持って生き残ったのは、私の知る限り貴方だけです」と云った。
医務室の応接室で医師と神戸淡路大震災(1995年1月17に発生)について話していると、大使館の日本人職員のお嬢さんが緑茶とお煎餅を持ってきてくれた。美味しかった。医師は「実は、大使館に10,000マダガスカル・フランを届けてくれたマダガスカル人がいたのです」と非常に嬉しそうに云った。平均月収5万マダガスカル・フラン(1,250円)の人が1万マダガスカル・フラン(250円)を寄付してくれたのである。分りやすく日本円で換算すると、月収30万円の人がそのうちの37,500円を寄付してくれたことになる。而し、その重みは数等倍である。不覚にも思わず涙が出てしまった。欧米諸国の人から100万円の寄付を頂くよりも嬉しかった。
寄付こそ頂かなかったが、ホテルでも、銀行でも行く先々で「大震災、お悔やみ申し上げます」と云われた。その度にこの国を裏切るような行為は出来ないと思った。



朝早くにマナカラに向けて出発した。小休憩のとき、公衆便所などあるとは思わなかったが、公園の一部であったようなので、「トイレはどこ?」と聞いた。ジルス・ベドは両手を大きく広げ、「此処からあのホライゾン(地平線)まで、全て貴方のおトイレです」と云った。以後、日本に帰ってきて外で失礼するときは「アフリカのトイレ」と云うことが習慣になってしまった。


市街地に近づくと道路は格段によくなり、車のスピードも自然と上る。


マナカラのホテルに着いた。山の中の道を避け、出来る限り早く海岸線の道路に出たため、非常に快適に走れた。マダガスカル唯一の貿易港のトマシナまでの道は非常に良く整備されている。海岸道路に出て左に行けばトマシナであるが、右に行けば、マナンジャリー、マナカらへと行ける。