いもうとと姪と一緒の部屋で3人で寝た。
寝相の悪い姪は私を壁に追いやるように移動してきていた。
いもうとはもう起きて色々と準備をしている中で、姪はうつろな寝ぼけ眼で私を見て、私の腕を自分の小さな手ですりすりとしてきた。
すりすりと言っても、爪が少し伸びていて途中から引っ掻くように触るものだから蚯蚓腫れになりそうである。
後から聞いたが、お母さんの腕をそうするのが癖らしい。
そういえば私たちも幼い頃、母の耳たぶを触るのが癖だった。
寝ぼけている姪は、私といもうとを完全に間違えているようだった。
確かに、私といもうとはサイズも同じくらいだし、肌の質感などもとても似ているので、夢うつつの状態であれば間違えるだろうと思う。
30分くらい私にすりすりしながら寝ているところに、いもうとが入ってきて、姪は「??」という顔をしていた。
「おかあさん・・・???ではこの私がすりすりしているのはだれ・・・??」
私にぴったりくっついて寝ている姪は、温かくて柔らかいかたまりだった。
いもうと宅を出て、姪に手を振って駅に歩き出す。
鞄の中からiPodを取り出そうとして、あまりに焦ってイヤホンのコードが鞄の中身を連れてきて少しぶちまけてしまう。
いつからか、私は本気でロックな音楽をいつでも渇望する体になった。
私が先日の記事にあげたあるブログの書き手さんが、やはり私のブログを読んでくださっていた。
彼女は私のことをご自分のブログに取り上げてくださった。
私のブログのことを、“少女のような”文章だと言う。
そう言われて、嬉し恥ずかし、という心持ちがした。
どうせなら、“少年のような”にしてほしかったなとか、笑いながら思う。
いやでも、少女か。
恥ずかしいと言われるようなことに自ら突っ込んでいるような最近でもあるし、それを人から言われて喜んでいる自分がいる。
でも、本当に大人として人間としてそれはどうなんだという顔を隠して逃げたくなるような恥ずかしいことも実際にやっていることも多い。
そういうふうな意味合いで“少女のような”と表したわけではないとは思うけれど。
彼女にも根底に流れるロックンロールがあって、私にとっては少しだけでもそれが「わかる」とか「通ずる」とかはもうその現象だけでぎゅうっとなるくらい嬉しいのだ。
お互いのそのものの成分が全然違うとしても、ほんの少しの交わり方であったとしても、それがあるのだろうと想像するだけで。
私の言う「ロックンロール」というものは、燃えたぎる炎というよりかは、南極の氷のように冷たくとてつもなく恐ろしく孤独なもののように思っている。
確かに一方で、鉄が溶けるくらいの激烈な温度と言いたくなるときもある。
というか、温度とか閃光とか、説明に難いことをなんとか言語化しようとするとこうなってしまう、というだけだけれど。
こうしてブログという公共性の高い場で個人にあてたメッセージのようなこともおかしいのだけれど、いつか、彼女と私が言葉を交わすことがくるかもしれないいつかまで、私は楽しみに待ちたいと思う。
私が愛について語るには経験に乏しいとしても、それでも愛とロックンロールに体当たりしてきましたと言えるように生きていきたい。
いつかのその日に、私は何だかわからない温かい涙を流すかもしれない。
ある個人のブログとブログで、何かと何かが触れ合って、ぽっと明かりが灯るような、そんなイメージのこの出来事。
私はずっと彼女のブログをそっと読ませていただこうと思っている。

寝相の悪い姪は私を壁に追いやるように移動してきていた。
いもうとはもう起きて色々と準備をしている中で、姪はうつろな寝ぼけ眼で私を見て、私の腕を自分の小さな手ですりすりとしてきた。
すりすりと言っても、爪が少し伸びていて途中から引っ掻くように触るものだから蚯蚓腫れになりそうである。
後から聞いたが、お母さんの腕をそうするのが癖らしい。
そういえば私たちも幼い頃、母の耳たぶを触るのが癖だった。
寝ぼけている姪は、私といもうとを完全に間違えているようだった。
確かに、私といもうとはサイズも同じくらいだし、肌の質感などもとても似ているので、夢うつつの状態であれば間違えるだろうと思う。
30分くらい私にすりすりしながら寝ているところに、いもうとが入ってきて、姪は「??」という顔をしていた。
「おかあさん・・・???ではこの私がすりすりしているのはだれ・・・??」
私にぴったりくっついて寝ている姪は、温かくて柔らかいかたまりだった。
いもうと宅を出て、姪に手を振って駅に歩き出す。
鞄の中からiPodを取り出そうとして、あまりに焦ってイヤホンのコードが鞄の中身を連れてきて少しぶちまけてしまう。
いつからか、私は本気でロックな音楽をいつでも渇望する体になった。
私が先日の記事にあげたあるブログの書き手さんが、やはり私のブログを読んでくださっていた。
彼女は私のことをご自分のブログに取り上げてくださった。
私のブログのことを、“少女のような”文章だと言う。
そう言われて、嬉し恥ずかし、という心持ちがした。
どうせなら、“少年のような”にしてほしかったなとか、笑いながら思う。
いやでも、少女か。
恥ずかしいと言われるようなことに自ら突っ込んでいるような最近でもあるし、それを人から言われて喜んでいる自分がいる。
でも、本当に大人として人間としてそれはどうなんだという顔を隠して逃げたくなるような恥ずかしいことも実際にやっていることも多い。
そういうふうな意味合いで“少女のような”と表したわけではないとは思うけれど。
彼女にも根底に流れるロックンロールがあって、私にとっては少しだけでもそれが「わかる」とか「通ずる」とかはもうその現象だけでぎゅうっとなるくらい嬉しいのだ。
お互いのそのものの成分が全然違うとしても、ほんの少しの交わり方であったとしても、それがあるのだろうと想像するだけで。
私の言う「ロックンロール」というものは、燃えたぎる炎というよりかは、南極の氷のように冷たくとてつもなく恐ろしく孤独なもののように思っている。
確かに一方で、鉄が溶けるくらいの激烈な温度と言いたくなるときもある。
というか、温度とか閃光とか、説明に難いことをなんとか言語化しようとするとこうなってしまう、というだけだけれど。
こうしてブログという公共性の高い場で個人にあてたメッセージのようなこともおかしいのだけれど、いつか、彼女と私が言葉を交わすことがくるかもしれないいつかまで、私は楽しみに待ちたいと思う。
私が愛について語るには経験に乏しいとしても、それでも愛とロックンロールに体当たりしてきましたと言えるように生きていきたい。
いつかのその日に、私は何だかわからない温かい涙を流すかもしれない。
ある個人のブログとブログで、何かと何かが触れ合って、ぽっと明かりが灯るような、そんなイメージのこの出来事。
私はずっと彼女のブログをそっと読ませていただこうと思っている。
