つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

明日行こうね

2013-11-26 18:12:05 | 日記
会社を辞めたらやろうと思っていたひとつのこと。
「コピー書道」。

ここ2週間、時間はたくさんあったはずなのに、私はどんなに好きなことでもやり始める腰がものすごく重い。
人と約束していたりすれば逆にスピード上げてできることも、ひとりでいると怠慢に負ける。
それは、どんなにどんなに好きで好きでたまらないことでも。
私の本性だ、無精であることは。

ただ一旦やり始めれば、疲れるまではとても楽しんでやる。
だから人からは“根っからのどうしようもない無精”だとか、“究極の面倒くさがり”だとはいう印象はおそらく持たれていないと思う。
誰が頼まれてもいないブログをしこしこ頻繁に書く人のことを“究極の面倒くさがり”などと言うだろうか。
しかしある一面においての私のその性質は、ひとりになるとまずいほどにむくむくと大きくなるのである。
それは好きなことや楽しみでさえもむしゃむしゃと食ってしまうような化け物だ。
そして、その化け物は、紛れもない、私だ。

書道教室の提出期限まで全然書かせてくれないかわいい化け物から、ひとり掛けソファで寝たら体が痛くて寒いのにベッドまで移動させてくれない恐ろしく強靭な化け物まで、生活のあらゆるところに化け物は潜んでいる。

これを自分で書いていて、自分はバカなのかと思うけれど、化け物のせいなのだ。
その正体である私が、その化け物と今は少なくとも全力で戦おうなどと思っていない化け物に憑りつかれているのである。

今のところ、家でやる私の勝手な楽しみは、ブログ、音楽鑑賞、ギター、映画、書道、読書、の順に腰が重くなる。
これについては、以前からの習慣だけでも、取りかかる障壁の高さだけでも語ることはできない。
ギターは始めて1年も経っていないし、読書は取りかかる障壁は最も低いはずである。
ただ、書道については、道具をいちいち出すのが非常に面倒だということは確かにある。
あと、単純に最も体力を使う。

では「好き」順かと考えるけれど、書道について私は本当に好きなのかをよく考えたりもするのだけど、やり始めるとしみじみ好きだなあと思うし、映画についてはその内容の影響も多分にあるけれどたぶんそれほどのめり込むといったことはない。
「アウトプット」か「インプット」かということに焦点を当てると、創作の観点は除くとして、アウト、イン、アウト、イン、アウト、イン、となりアウトプットやインプットの傾向でもない。

私はブログについては、結構いつでもどこでも書きたくなる。
今は基本的にはPCで書くが、出先であればスマートフォンでも書く。
すぐに風化してしまう儚き思考の足跡を、とりあえず書き留めたい欲求だけは強い。
ただ、ブログでは核心に触れるような域のことはしづらいとも思う。

そうだ、私はまだ核から逃げている。


甲本ヒロトと真島昌利が書いた詞を、書道で書く。
展覧会でも誰かにあげるでもなく。
まずは「映画」と「ラブレター」

初めて「情熱を薔薇」を書いたとき、私は「こんなふうなやり方でも彼らが考えていたことにまた触れられるのか」とぎゅうっとなった。
次作「リンダリンダ」はもう何度書いてもぎゅうっとなった。
自分のどうしようもない一番核の部分に触れるような気がして。
そこまでの状態に行かずとも、彼らがこんなことを考えていたのだなと想像しながら紙に起こすのは楽しいことである。

やっているのはただ楽しいのだけど、期限もルールもない中で、何かを作ることは極めて難しいと改めて思う。
できるだけ詞から浮かんだ書のイメージを再現したいと思うのだけれど、紙のサイズや色や素材、筆や墨の種類、字の大きさや配置、表装まで、あらゆることが自由なわけでそれを自分流に新しく形にするのは至難だ。
墨なのか、筆なのか、という元も子もない問いは置いておくにしても、書作品として“それっぽく”したいと思うと、書道教室で習った手法を借りることになる。
しかしながら、今度は習った手法を真似ているうちに、逆に消せない自分が現れてきたりしてそれも上手くいかないというジレンマに陥る。

あれ、私は書の世界で新しい風合いの書作品を生むことがそもそもの目的だったろうか。

「これが私です」という他の侵入を微塵も許さないものができたとしたら、それはおそろしく素晴らしいアートの世界であると思うけれど、私が目指しているのは全然そこではない。
いや、「これが私です」というもとを創りたいというのは確かだけれど、それが世の中的な記号として新しいかどうかなどはさっぱり興味がない。
そこに乗せる思いに、どれだけ自分で触れられるか、ということだ。

バンドで音楽を作るにしても、コード進行や使う楽器などのルールというか枠組みがあるからできる。
枠組みは借り物だ。

とは言え、だ。
“それっぽく”見せるのも私にとってそんなに簡単ではない。

それもそうと、己の核にも触れなさい、と怠惰おばけにも言うのである。