最近本当によく自炊をしている。
普段やむを得ない場合以外にひとりで外でごはんを食べる習慣がない私は、家にいれば家でごはんを作って食べる。
あとはフリーターになって給料が減ったので、自戒のためにもそうするようにしているという面もあるが、それよりも出るのが面倒なのでそうなってしまう面の方が大きい。
そんなことを2週間続けていても、今のところ外食が恋しくなったりもしない。
むしろ時々出社しておしゃれなイタリアンや、刺激的な刀削麺などに行ったりすると、これまでの焼肉のようにすごく体が疲れてしまうようになった。
これはただの年齢的なものだろうか。
今日も明日も明後日も、家にいることがわかっていると、食材もある程度まとめて買ってくることができる。
また、ある程度まとめて作ってしまうこともできる。
料理は、続けてやっていれば手際や味付けがこなれてくる。
元々何ひとつ、いやお米以外、計ったりしない私だけれど、薄かったり濃かったりがだんだんなくなってくる。
いまいち仲良くなりきれないIHクッキングヒーターの性格も、歩み寄れているように思う。
私は、どちらかというと、毎日同じものを食べていてもさほど苦ではなく、食べられれば何でもいいやというタイプの人間だと思うけれど、そんな私にしてはわりにまともに料理を作っている。
前日に作ったものが残っていたりすれば、意図せず一汁三菜になったりして、自分で感心する。
長い間、というか、ずっと、私は自分が何を食べたいのか、何が好きなのか、何をおいしいと思うのか、よく分かっていなかったと思う。
あまり味覚について自分に問うことをしたことがなかった。
かと言って、今も実際何が今食べたいのか簡単に知れるようになったわけでもないし、毎食を食べたいものを問うことを自分に強いているわけでもない。
自分で作ったものが脳天突っ切るほどおいしいとか、絶対的に一番ほっとできる味だとかも全然思わない。
また、おいしいを最優先して毎食炊きたてのごはんを食べるわけでもなく、冷凍ごはんは味が落ちると思いながら食べる。
しかし、五感のひとつとしての味覚には、「良い」とか「ものすごく良い」と感じられて自分を大いに喜ばせる可能性があるわけであって、それは限りなく自分だけのもので、そしてこんなにも身近にある。
それを日々少しずつ問っていければ、エネルギー源としての食事を超えるのはもちろんのこと、ものすごい感動みたいなものにふと出会えることがあるのではないかと思うのである。
そのために、自分が作るもので、これはおいしいと思っているのかということを自覚する練習をしていると言ってもいい。
そう思い始めたのはたぶん数か月前くらいだと思うけれど、自分の味覚についてのことも最近ブログによく書いている気がする。
まあ自分の感心事しか書いていないのだから当然だけれども、私のそういう傾向というのは、実によくブログに表れるなと自分で思う。
今日は、白菜とひき肉の旨煮、ほうれん草の煮びたし、納豆、ごはん。
健康的な感じがし過ぎて、少し可笑しい。
白菜とひき肉の旨煮は、合いびき肉を使ったがこれはたぶん豚肉のみの方が合うだろう。
他の具材として冷蔵庫にあったしめじを入れたけれど、たぶんシイタケのようなもっとうま味の強いものを入れた方がよかっただろう。
ただ肉の力を借りれば、よほどのことがない限り、まあまあにはなる。
卵でも魚でもだしの素でもなく、肉の力というのは強靭である。
全体に及ぼす影響力たるや、支配力といってもいいほどである。
そしてこれは明日の方がおいしい。
ほうれん草の煮びたしは、若干醤油を入れ過ぎて、だし味にしたかったのが醤油味になってしまった。
また、ほうれん草が醤油に染まるのはあまりきれいではないのだなと思った。
煮びたしはよく水菜で作るのだけれど、この味付けでは水菜の方が合っている。
最近作ったものの中では、ミルクうどんがとてもおいしかった。
ありあわせの野菜とウインナーをオリーブオイルで炒めて、コンソメで味付け、すこし水を入れて煮立ったらうどんを入れて、牛乳を注ぎ入れる。
昆布茶と白味噌を少しずつ入れて味を調え、とろけるチーズを適量、黒胡椒を挽く。
黒胡椒は、カルボナーラみたいな感じがしたから、なんとなく。
ウインナーではなく、豚肉か鶏肉の方がもっとおいしいだろうと思う。
「天使のわけまえ」を一気に観て、物語は私にはさっぱりだったけれど、「良い料理」が出てくるドラマはストーリーを置いておけるほど興味深い。
普段やむを得ない場合以外にひとりで外でごはんを食べる習慣がない私は、家にいれば家でごはんを作って食べる。
あとはフリーターになって給料が減ったので、自戒のためにもそうするようにしているという面もあるが、それよりも出るのが面倒なのでそうなってしまう面の方が大きい。
そんなことを2週間続けていても、今のところ外食が恋しくなったりもしない。
むしろ時々出社しておしゃれなイタリアンや、刺激的な刀削麺などに行ったりすると、これまでの焼肉のようにすごく体が疲れてしまうようになった。
これはただの年齢的なものだろうか。
今日も明日も明後日も、家にいることがわかっていると、食材もある程度まとめて買ってくることができる。
また、ある程度まとめて作ってしまうこともできる。
料理は、続けてやっていれば手際や味付けがこなれてくる。
元々何ひとつ、いやお米以外、計ったりしない私だけれど、薄かったり濃かったりがだんだんなくなってくる。
いまいち仲良くなりきれないIHクッキングヒーターの性格も、歩み寄れているように思う。
私は、どちらかというと、毎日同じものを食べていてもさほど苦ではなく、食べられれば何でもいいやというタイプの人間だと思うけれど、そんな私にしてはわりにまともに料理を作っている。
前日に作ったものが残っていたりすれば、意図せず一汁三菜になったりして、自分で感心する。
長い間、というか、ずっと、私は自分が何を食べたいのか、何が好きなのか、何をおいしいと思うのか、よく分かっていなかったと思う。
あまり味覚について自分に問うことをしたことがなかった。
かと言って、今も実際何が今食べたいのか簡単に知れるようになったわけでもないし、毎食を食べたいものを問うことを自分に強いているわけでもない。
自分で作ったものが脳天突っ切るほどおいしいとか、絶対的に一番ほっとできる味だとかも全然思わない。
また、おいしいを最優先して毎食炊きたてのごはんを食べるわけでもなく、冷凍ごはんは味が落ちると思いながら食べる。
しかし、五感のひとつとしての味覚には、「良い」とか「ものすごく良い」と感じられて自分を大いに喜ばせる可能性があるわけであって、それは限りなく自分だけのもので、そしてこんなにも身近にある。
それを日々少しずつ問っていければ、エネルギー源としての食事を超えるのはもちろんのこと、ものすごい感動みたいなものにふと出会えることがあるのではないかと思うのである。
そのために、自分が作るもので、これはおいしいと思っているのかということを自覚する練習をしていると言ってもいい。
そう思い始めたのはたぶん数か月前くらいだと思うけれど、自分の味覚についてのことも最近ブログによく書いている気がする。
まあ自分の感心事しか書いていないのだから当然だけれども、私のそういう傾向というのは、実によくブログに表れるなと自分で思う。
今日は、白菜とひき肉の旨煮、ほうれん草の煮びたし、納豆、ごはん。
健康的な感じがし過ぎて、少し可笑しい。
白菜とひき肉の旨煮は、合いびき肉を使ったがこれはたぶん豚肉のみの方が合うだろう。
他の具材として冷蔵庫にあったしめじを入れたけれど、たぶんシイタケのようなもっとうま味の強いものを入れた方がよかっただろう。
ただ肉の力を借りれば、よほどのことがない限り、まあまあにはなる。
卵でも魚でもだしの素でもなく、肉の力というのは強靭である。
全体に及ぼす影響力たるや、支配力といってもいいほどである。
そしてこれは明日の方がおいしい。
ほうれん草の煮びたしは、若干醤油を入れ過ぎて、だし味にしたかったのが醤油味になってしまった。
また、ほうれん草が醤油に染まるのはあまりきれいではないのだなと思った。
煮びたしはよく水菜で作るのだけれど、この味付けでは水菜の方が合っている。
最近作ったものの中では、ミルクうどんがとてもおいしかった。
ありあわせの野菜とウインナーをオリーブオイルで炒めて、コンソメで味付け、すこし水を入れて煮立ったらうどんを入れて、牛乳を注ぎ入れる。
昆布茶と白味噌を少しずつ入れて味を調え、とろけるチーズを適量、黒胡椒を挽く。
黒胡椒は、カルボナーラみたいな感じがしたから、なんとなく。
ウインナーではなく、豚肉か鶏肉の方がもっとおいしいだろうと思う。
「天使のわけまえ」を一気に観て、物語は私にはさっぱりだったけれど、「良い料理」が出てくるドラマはストーリーを置いておけるほど興味深い。