先日自転車に乗ったら自転車がパンクしていた。
後輪がぺちゃんとして、タイヤのゴムがアスファルトを食い込みながら踏んづけているのが感覚として伝わってきた。
以前、その状態で無理をして家まで帰ったことがあった。
翌日自転車屋さんに持って行くと、小さな短い針のようなものが刺さっていて、刺さっただけれあれば一か所の傷で小さなテープのようなもので処置することができたのだが、そのまま体重をかけて乗ったことによって針が何か所にも刺さってしまって穴だらけだからタイヤのチューブごと交換しなくてはならない、と言われたことがあった。
なので、今回は決して乗らずに、近くの自転車屋さんに引いて持って行く。
そうしたら「たぶん空気が抜けてしまっているだけですよ」と言われた。
たった5日間くらい乗っていなかっただけなのに、パンクのように空気が抜けることがあるのかと聞くと、ねじが緩んだりすることでそういうことがあるらしい。
とりあえず空気を補充して1日大丈夫であれば、パンクではないと。
自転車もいろいろあるんだなと思った。
空気を入れた自転車で久しぶりに昼間に走ってみる。
と言っても、坂のない平坦な道をゆっくりと。
季節はもう初冬だろうか、でも、あまり寒くはない。
目の周りの皮膚が少し突っ張っている。
乾燥している。
燃えるような赤い紅葉、と言うのであれば、輝くような黄金の黄色い銀杏。
あぁ、外は気持ちがいい、あぁ、光は気持ちがいい。
生来の出不精の私は、自宅で仕事をするようになってからめっきり外出が減った。
家の中も夜更かしも気持ちいいのだけれど、私は太陽の力は信じている。
進んでいくと、すごく空気が抜けた場所に出た。
ここで言う「空気が抜ける」は、タイヤの空気が抜けるではなく、「風がよく通る」といった意。
大きな霊園だった。
そのとき、真心ブラザーズが流れていたけれど、自転車に乗っているときとしてはとても久しぶりに私は音を消したいと思って、iPodを止める。
なんだかよく分からないけれど、とても落ち着く。
お墓の群集で私は落ち着くのか、と自分を疑問に思ったのだが、しばらくして何に落ち着いているのかがわかった。
ある一方向に目をやると、遠方にも建物がなくて空がとても大きく広がっていたからだった。
空の青で視界の多くを埋めることができる。
だから、空気が抜けている感じがしたのだ。
こういう景色は東京では見られないという先入観があって、直ぐにはわからなかった。
このあたりの地形は、下を見渡すほどではないものの小高い丘みたいになっているのだろう。
そういえば、お墓は見晴らしの良い場所にあるもののような気もする。
この「空気が抜ける」とか「空気が通る」というのは、引っ越し先である今の部屋を決めたポイントでもあった。
私が今住んでいる区の多くの場所が「空気が抜ける」場所のような気がしている。
所謂東京の住宅外なのだけれど、私は住宅街で深呼吸をしてしまいたくなる場所なのだ。
出かけついでに、先日借りたDVDを返し、CDアルバム2枚無料券があったので久しぶりにツタヤでCDをレンタル。
「27クラブ」の中のひとり、ジャニス・ジョプリンのベストアルバム。
ニール・ヤングの「フリーダム」。
二―ル・ヤングのアルバムは、ふと目に留まった。
「オン・ザ・ロード」のディーンのモデルになった二―ル・キャサディはただのヒッピーのバス運転者であったことは知っていたはずなのに、ニール・ヤングがどこかから割り込んできて混同して、オン・ザ・ロードのだ!と思ったか思わなかったか、とりあえず目に留まり手に取ったのだった。
マーシーの「64,928-キャサディ・キャサディ」はここから来ていることも私にとっては大きな既知の事実だったのだけれども。
しかし思いがけず、二―ル・ヤングのアルバムは良かった。
そしてもう一度ジャック・ケルアックの「路上」のウィキペディアを見てみると、ドアーズのジム・モリソンにも多大な影響を与えたとあった。
おそらくこの文章は読んだことあるけれど、そのときまだドアーズは知らなかったからあまり気に留めることはなかった。
少し前にドアーズはアルバムを借りたし、先日観た「ドアーズ」という映画でジム・モリソンのことも知った。
一つひとつ、自分でいくつものリボンを結んで、ちょっとずつ、私のロックの世界を繋げていく。
ときにまた、そのリボンをほどいて違うところに結んだり、同じところに追加して結んだりもする。
リボンでも何でもいいけれど、そういうある領域の海の中を揺蕩って、私の通り道に足跡つけながら繋いでゆく、そんなイメージ。

後輪がぺちゃんとして、タイヤのゴムがアスファルトを食い込みながら踏んづけているのが感覚として伝わってきた。
以前、その状態で無理をして家まで帰ったことがあった。
翌日自転車屋さんに持って行くと、小さな短い針のようなものが刺さっていて、刺さっただけれあれば一か所の傷で小さなテープのようなもので処置することができたのだが、そのまま体重をかけて乗ったことによって針が何か所にも刺さってしまって穴だらけだからタイヤのチューブごと交換しなくてはならない、と言われたことがあった。
なので、今回は決して乗らずに、近くの自転車屋さんに引いて持って行く。
そうしたら「たぶん空気が抜けてしまっているだけですよ」と言われた。
たった5日間くらい乗っていなかっただけなのに、パンクのように空気が抜けることがあるのかと聞くと、ねじが緩んだりすることでそういうことがあるらしい。
とりあえず空気を補充して1日大丈夫であれば、パンクではないと。
自転車もいろいろあるんだなと思った。
空気を入れた自転車で久しぶりに昼間に走ってみる。
と言っても、坂のない平坦な道をゆっくりと。
季節はもう初冬だろうか、でも、あまり寒くはない。
目の周りの皮膚が少し突っ張っている。
乾燥している。
燃えるような赤い紅葉、と言うのであれば、輝くような黄金の黄色い銀杏。
あぁ、外は気持ちがいい、あぁ、光は気持ちがいい。
生来の出不精の私は、自宅で仕事をするようになってからめっきり外出が減った。
家の中も夜更かしも気持ちいいのだけれど、私は太陽の力は信じている。
進んでいくと、すごく空気が抜けた場所に出た。
ここで言う「空気が抜ける」は、タイヤの空気が抜けるではなく、「風がよく通る」といった意。
大きな霊園だった。
そのとき、真心ブラザーズが流れていたけれど、自転車に乗っているときとしてはとても久しぶりに私は音を消したいと思って、iPodを止める。
なんだかよく分からないけれど、とても落ち着く。
お墓の群集で私は落ち着くのか、と自分を疑問に思ったのだが、しばらくして何に落ち着いているのかがわかった。
ある一方向に目をやると、遠方にも建物がなくて空がとても大きく広がっていたからだった。
空の青で視界の多くを埋めることができる。
だから、空気が抜けている感じがしたのだ。
こういう景色は東京では見られないという先入観があって、直ぐにはわからなかった。
このあたりの地形は、下を見渡すほどではないものの小高い丘みたいになっているのだろう。
そういえば、お墓は見晴らしの良い場所にあるもののような気もする。
この「空気が抜ける」とか「空気が通る」というのは、引っ越し先である今の部屋を決めたポイントでもあった。
私が今住んでいる区の多くの場所が「空気が抜ける」場所のような気がしている。
所謂東京の住宅外なのだけれど、私は住宅街で深呼吸をしてしまいたくなる場所なのだ。
出かけついでに、先日借りたDVDを返し、CDアルバム2枚無料券があったので久しぶりにツタヤでCDをレンタル。
「27クラブ」の中のひとり、ジャニス・ジョプリンのベストアルバム。
ニール・ヤングの「フリーダム」。
二―ル・ヤングのアルバムは、ふと目に留まった。
「オン・ザ・ロード」のディーンのモデルになった二―ル・キャサディはただのヒッピーのバス運転者であったことは知っていたはずなのに、ニール・ヤングがどこかから割り込んできて混同して、オン・ザ・ロードのだ!と思ったか思わなかったか、とりあえず目に留まり手に取ったのだった。
マーシーの「64,928-キャサディ・キャサディ」はここから来ていることも私にとっては大きな既知の事実だったのだけれども。
しかし思いがけず、二―ル・ヤングのアルバムは良かった。
そしてもう一度ジャック・ケルアックの「路上」のウィキペディアを見てみると、ドアーズのジム・モリソンにも多大な影響を与えたとあった。
おそらくこの文章は読んだことあるけれど、そのときまだドアーズは知らなかったからあまり気に留めることはなかった。
少し前にドアーズはアルバムを借りたし、先日観た「ドアーズ」という映画でジム・モリソンのことも知った。
一つひとつ、自分でいくつものリボンを結んで、ちょっとずつ、私のロックの世界を繋げていく。
ときにまた、そのリボンをほどいて違うところに結んだり、同じところに追加して結んだりもする。
リボンでも何でもいいけれど、そういうある領域の海の中を揺蕩って、私の通り道に足跡つけながら繋いでゆく、そんなイメージ。
